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第6話 鬼は何も言わない

 静寂が、謁見の間に満ちていた。

 先程まで荒れ狂っていた魔力の嵐が嘘のように、今はただ、玉座の傍らで眠る我が主、魔王ゼノ様の穏やかな寝息だけが聞こえる。その安らかなお顔を拝見し、俺、ボルカンの喉の奥から、ようやく詰まっていた息が漏れた。


 よかった。魔王様は、ご無事だ。

 心の底から安堵した、その直後。俺の視線は、床にへたり込んだまま動けないでいる、一人の人間に釘付けになった。


 向田健太。

 つい先刻、俺が「毒殺者」と断じ、その命を奪おうとした男だ。

 事実が、溶岩のように重く、俺の胃の腑に落ちてくる。俺は、魔王様の命の恩人を、この手で処刑しようとしたのだ。


 その夜、俺は自室で眠れずにいた。

 巨大な体を寝台に横たえても、脳裏に焼き付いて離れないのは、魔力の嵐の中へためらいなく飛び込んでいった、あの小さな背中だった。


(俺としたことが…!)


 ギリッと奥歯を噛みしめる。俺はこの厨房を百年預かり、先代魔王様から、若きゼノ様をお守りするよう仰せつかった。その俺が、この城で誰よりも魔王様を想っているはずの俺が、私怨と早合点で、忠臣とは真逆の行いをしてしまった。


(いや、だが…!)

 むくりと体を起こす。

(そもそも、原因を作ったのはあの人間だ!あんな人間のやり方で、栄養のバランスも考えずにひ弱な料理ばかりを食べさせたから、このような事態を招いたのだ!そうだ、俺のやり方であれば…!)


 そう己に言い聞かせようとする。だが、その理屈は、もはや何の慰めにもならなかった。脳裏に、もう一つの光景が蘇るからだ。

 健太の作ったポタージュを、夢中でおかわりされたゼノ様のお顔。

 健太の作ったムニエルを、「悪くない」と呟かれたゼノ様のお顔。

 そして、今日。俺の百年ですら一度も見たことのなかった、心から満足されたような、穏やかな寝顔。


「ぐぅぅ…ッ!」


 俺は、たまらず拳で石壁を殴りつけていた。

 あの人間の料理は、俺の料理とは全く違う。力も、気迫も、伝統も感じられん。小手先の、小細工だ。そう思っていた。そうに決まっていると、信じて疑わなかった。

 だが、事実はどうだ。

 健太は、俺では思いつきもしなかった方法で、魔王様のお身体を内側から癒し、そして今日、暴走する魔力さえも鎮めてみせた。


 あれは、まぐれなどではない。

 あの人間は、魔王様を救うという一点において、俺以上に覚悟を決めていた。

 あのひ弱に見える料理には、俺の料理にはない「何か」が、確かにあるのだ。それを認めなければならないという事実が、俺の百年のプライドを根底から揺さぶった。


 翌日。

 重い足取りで厨房へ向かうと、空気の違いにすぐに気づいた。

 厨房の中央では、健太がゼノ様のための回復食を作っていた。その周りを、他の魔族の料理人たちが、以前の嘲笑など微塵も見せず、敬意のこもった眼差しで手伝っている。


「向田、この『ニガヨモギ』の灰汁抜きはこれでいいか?」

「はい、ありがとうございます!完璧です!」


 俺の知らないところで、厨房の序列が塗り替えられつつあった。

 俺が入口に立った瞬間、厨房の空気がピシリと凍りつく。全員の視線が、俺に突き刺さった。


 健太が、緊張した面持ちでこちらを向く。

 何か、言わねばなるまい。

 昨日のことを、謝るべきか?いや、魔王軍の料理長たる俺が、人間に頭を下げるなど…。では、労いの言葉か?それも違う。俺は、こいつのやり方を認めたわけでは…。


 結局、俺の口から捻り出されたのは、我ながら情けないほどに捻くれた言葉だけだった。


「……ふん!魔王様のお身体に、万が一のことがないよう、せいぜい気を配るんだな!」


 それだけを言い放ち、俺は背を向けた。

「は、はい!ボルカンさん!」という、健太の少し戸惑ったような、それでいて真っ直ぐな声が背中に刺さる。居たたまれなさに、俺は足早にその場を去った。


(あの人間のやり方は、認めん。断じて認めん!)

 一人になった廊下で、俺は再び心の中で繰り返す。

(俺の信じる料理とは、違うのだ!)


 だが、どうしても、頭から消えない光景があった。

 穏やかな寝息を立てる、我が主の顔。


(…だが、魔王様が、あのように穏やかな顔で食事を楽しまれるのは、俺の百年の中でも、ただの一度もなかったことだ…)


 その事実だけは、認めざるを得なかった。

 俺と、あの人間との間に、もはや以前のような単純な上下関係はない。あるのは、決して交わることのない料理哲学と、目の当たりにしてしまった実力。そして、俺自身の、拭い去ることのできない過ち。


 それが、俺たちの間に生まれた、新しい溝の正体だった。

 この日以来、俺は厨房で、ただ腕を組み、遠くから健太の手元を黙って見つめることしかできなくなった。

 鬼は、もう何も言えなかったのだ。

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