第4話 厨房の鬼と枯れた大地
「おかわり」事件から数週間。俺、向田健太の魔王城での生活は、奇妙な安定期に入っていた。
魔王ゼノ様は、俺の作る料理を毎日静かに、しかし確実に平らげるようになった。あれほど鋭く尖っていた雰囲気は少しずつ和らぎ、血色の良くなった頬を見るたびに、俺は料理人としての喜びを噛みしめていた。
「母さん、見てるか?俺、ちゃんとやれてるよ」
夜、一人で厨房に残り、亡き母の薬膳ノートをめくりながら、俺は心の中で語りかけた。病で苦しんだ母を、俺は料理で救うことができなかった。その無念と後悔が、ずっと胸の奥に澱のように溜まっていた。
(でも、今ならわかる。母さんが本当に伝えたかったことを)
ただ栄養を摂るだけじゃない。美味しいものを食べる喜び、明日への活力が湧いてくる感覚。食事がもたらす、心と体への温かい光。
「よし、決めた」
俺はノートを閉じ、固く拳を握った。
「俺が、この人の専属料理人として、最後までやり遂げるんだ。ただ偏食を治すだけじゃない。食事って、こんなに楽しくて、幸せなものなんだって、絶対に教えてあげる。母さんが叶えられなかった『食による救済』を、俺がこの世界で実現してみせる!」
それが、この異世界で俺が見つけた、新しい夢と目標になった瞬間だった。
しかし、そんな俺の熱い決意を、快く思わない存在が約一名。
「ふん!まぐれ当たりが続いたからと、いい気になるなよ、人間!」
腕を組み、湯気の立つ鍋を仁王立ちで見下ろすのは、もちろん料理長のボルカンだ。健太の実力を認めざるを得ない状況に、彼のプライドは毎日ぐらぐらに揺さぶられているらしかった。
「貴様の作る料理は、どれもこれも優しすぎる!魔王様にはもっとこう、ガツンとくる力強い料理が必要なのだ!」
「は、はあ…」
「そもそも、貴様は魔界の食材について何も知らん!この『涙ダケ』一つとってもそうだ!ただ煮ただけでは、三日三晩腹を壊すほどの苦味が残ることを知っているのか!」
俺が試作中の鍋を指さし、ボルカンは得意げに言う。
「(え、そうなの!?危うくゼノ様を地獄に送るところだった…)さ、流石ですボルカンさん!お詳しいんですね!」
「当然だ!俺はこの厨房を百年預かってきたのだぞ!」
「じゃあ、この苦味って、どうすれば…」
「…チッ」
俺が教えを乞うと、ボルカンは途端にそっぽを向いて黙り込む。だが、しばらくして、誰に言うでもなくボソリと呟いた。
「…愚か者が。涙ダケのアクは、アクをもって制するのだ。隣にある『憤怒イモ』のすりおろし汁に、三日三晩漬けておくものだ…と、古い文献で読んだことがある」
「本当ですか!?」
「俺は何も言っておらん!独り言だ!」
そう言って、巨大な体で厨房の柱の陰に隠れようとするボルカン。いや、だから全然隠れられてないですって。
「(この人、根は悪い人じゃないんだよな…ただ、超絶不器用でツンデレなだけで…)」
俺と鬼料理長との間には、そんな奇妙な師弟関係のようなものが芽生え始めていた。
◇
その頃。
人間たちが住まう世界は、絶望の色に染まっていた。
空は鉛色に淀み、大地は生気を失っている。豊かな穂を実らせていたはずの畑は、作物が黒く立ち枯れたまま放置され、まるで巨大な墓場のようだった。
村の井戸端では、人々が力なく座り込み、乾いた咳を繰り返している。その顔色は土気色で、瞳からは希望の光が消え失せていた。原因不明の疫病が、この国から活力を根こそぎ奪い去ろうとしていたのだ。
王城の薄暗い一室で、歴戦の将軍が、玉座に座す王に深く頭を下げていた。
「陛下…もはや、一刻の猶予もございません。備蓄は底をつき、民は飢えと病で次々と倒れております。このままでは、我らは滅びます」
「…わかっておる」
王は、テーブルに広げられた古地図を睨みつけ、苦渋に顔を歪めた。その地図が指し示す先は、険しい山脈の向こう――魔族が支配する領域だった。
「ですが、かの地への侵攻は、あまりにも無謀です」
「無謀であろうと、他に道はないのだ!」
将軍は声を絞り出した。
「残された道は、それしか…」
その声は、悲壮な覚悟に満ちていた。
彼らが何を決断しようとしているのか。その重く、暗い運命の歯車が回り始めていることなど、魔王城の厨房で、一人の青年が希望に燃えていることなど、まだ誰も知る由もなかった。
◇
「よし、ボルカンさんに教わった通り、完璧にアク抜きできたぞ!」
魔王城の厨房では、俺が涙ダケと格闘していた。
「これを使った新しいスープなら、ゼノ様もきっと喜んでくれるはずだ。もっともっと元気になってもらわないと!」
俺の純粋な善意が、やがて世界を揺るがす大きな事件の引き金になることを、この時の俺は、まだ知らなかった。