第36話 決戦前夜と、ただ一つの答え
「世界食料サミット」最終日の前夜、俺の厨房は、まるで世界中の市場を凝縮したかのような、圧倒的な食材の奔流に満ちていた。魔王ゼノ様が送ってくれた、魔界でしか採れない発光キノコ「月光茸」。氷雪の国からは、氷河の奥深くで眠っていたという巨大魚が、巨大な氷柱に包まれて。砂漠の国からは、箱を開けただけでむせ返るような芳香を放つ、黄金色のスパイスの山が届いた。
仲間たちの想いが詰まった、世界最高の食材たち。それらを前にして、俺、向田健太は、ただ立ち尽くしていた。
「未来の食」。
そのあまりに壮大で、あまりに曖昧なテーマが、鉛のように俺の思考を縛り付けていた。ジュリアンは科学の力で、完璧な栄養バランスという明確な「未来」を提示するだろう。俺は、何で戦えばいい? 珍しい食材を使った、奇をてらった料理か? それとも、伝統をひたすらに守り抜いた、懐古的な一皿か? どれも違う気がした。調理台に並んだ極上の食材たちが、まるで「お前に俺たちを使いこなせるのか」と問いかけてくるようで、息が詰まりそうだった。
厨房の扉が、静かに開いた。ミネルヴァだった。彼女は俺の葛藤を見透かしたように、手にしていた書類の束をテーブルに置いた。
「最高の食材を前にして、ため息とはらしくないわね、枢機卿」
「……ミネルヴァさん。俺、分からないんだ。『未来の食』なんて、俺には分からない。ジュリアンは科学で、誰も飢えない未来を作ろうとしてる。それは、正しいことだ。俺に、それ以上の答えなんて……」
俺の弱音を、ミネルヴァは遮らなかった。彼女はただ、静かに書類の束の中から、一枚の古びた紙を取り出した。それは、このクロスロードの街の古い戸籍記録の写しのようだった。
「未来を創るには、まずその人が、どんな過去から逃れようとしているのかを知るべきよ」
彼女が指さした先には、二人の名前が記されていた。ジュリアン・クレスト。そして、リリア・クレスト。続柄の欄には、兄、妹とある。リリアの項には、インクで無慈悲な線が引かれ、「死亡」の文字が刻まれていた。死因の欄には、たった一言。
『栄養失調』。
ミネルヴァは、もう一枚、色褪せた写真の複製をテーブルに滑らせた。そこには、ガリガリに痩せた兄が、自分よりもさらに小さな妹を、必死にかばうように抱きしめている姿が写っていた。ジュリアンの瞳は、年齢不相応な絶望と怒りに満ちていた。
「ジュリアンは、未来を創っているんじゃない。彼は、決して振り返りたくない過去から、ただひたすら遠くへ走っているだけなのよ」
その写真を見た瞬間、俺の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの形を結んだ。
ジュリアンが見ているのは、世界の未来じゃない。飢えて死んだ、たった一人の妹の姿なんだ。彼が切り捨てようとしている食の温もりや物語は、彼自身が最も欲しかったけれど、手に入れられなかったものそのものだったのだ。
彼と戦うのでは、駄目だ。
彼が救えなかった、たった一つの過去を。俺の料理で、救ってやらなければ。
俺は顔を上げた。もう、迷いはなかった。
テーブルに並んでいた世界中の極上の食材を、俺はゆっくりと脇へ押しやった。そして、厨房の隅に積んであった、ありふれた業務用の小麦粉の袋を、調理台の中央に置いた。
「ミネルヴァさん、ジュリアンに伝えてくれるか」
俺の声は、自分でも驚くほど、静かで、そして澄んでいた。
「対決には、彼の『グローリー・バイト』の原料を、俺にも使わせてほしい、と」
ミネルヴァは一瞬、驚きに目を見開いた。だが、すぐに俺の意図を理解し、深く、そして力強く頷いた。その瞳には、絶対的な信頼の色が浮かんでいる。
「ええ、喜んで。彼、きっと嘲笑うでしょうね。――そして、あなたの罠に嵌るわ」
ミネルヴァが去った後、俺は一人、静まり返った厨房で、ジュリアンが使うという無機質な穀物の粉を、一掴み手に取った。
それは、何の物語も持たない、ただ効率のためだけに作られた、空虚な食材。
だが、俺には聞こえる。この粉の奥で、救いを求めて泣いている、小さな少女の声が。
待ってろよ。今、兄ちゃんが、世界一温かいパンを焼いてやるからな。
俺は、静かに生地をこね始めた。それは、未来を創るためのものではない。たった一つの過去を、優しく抱きしめるための、祈りのような一皿だった。




