第34話 祭りの灯と、孤独な玉座
夜が明け、俺とミネルヴァは昨夜のベンチに並んで座ったまま、白み始めた空を眺めていた。彼女の瞳にはもう涙はなく、代わりに、夜の闇を突き抜けてきた朝焼けのような、静かで力強い光が宿っていた。共有した傷跡は、俺たちの間に言葉以上の結束を生み出していた。
「……俺、決めたよ」
俺は、眠らない街の喧騒が再び始まる前に、切り出した。
「ここで、世界中のお祭りをやろう」
その言葉に、ミネルヴァはゆっくりと俺に視線を向けた。その目は「何を言っているの?」と雄弁に語っていた。
「お祭り? 本気で言っているの? 資金も、博覧会の正式な許可も、何もないのよ。ジュリアンの支配するこの街で、そんなことが可能だと?」
彼女の反論は、外交官としての冷静で的確な分析だった。だが、今の俺には、別の確信があった。
「だから、ミネルヴァさんの力が必要なんだ。あんたは、不可能を可能にする交渉のプロだろ? 俺は最高の料理を作る。あんたは最高の舞台を作ってくれ。二人なら、できるはずだ」
俺のまっすぐな視線を受け、ミネルヴァは深いため息をついた。だが、その口元には、いつもの冷ややかなものではない、挑戦者のような微かな笑みが浮かんでいた。
「……本当に、馬鹿な料理人ね。いいわ、乗ってあげる。あなたの無謀な夢に、私のキャリアを賭けてみましょう」
そこから、俺たちの本当の戦いが始まった。
ミネルヴァは、まさに水を得た魚だった。博覧会の運営委員会に乗り込み、市の役人を相手取り、「文化的多様性の尊重は、国際平和の礎である」という正論と、和平条約の条文を盾に、正式な許可を半ば力ずくで勝ち取ってきた。その姿は、まるで戦場の指揮官だった。
俺は、魔王城のゼノ様に手紙を書いた。事情を説明し、力を貸してほしい、と。
返信は、手紙ではなく、本人たちがやってきた。
数日後、クロスロードの街に地響きを立てて現れたのは、巨大な体躯に戦斧を担いだガルバス将軍と、眉間に深い皺を寄せた鬼料理長ボルカンだった。
「ケンタ殿! 話は聞いたぞ! あの若造に、食のなんたるかを思い知らせてやる時が来たようだな!」
ガルバス将軍は豪快に笑い、俺たちの小さな仮設キッチンの隣で、部下だった兵士たち(今は皆、除隊して平和な暮らしを送っている)に指示を出し、あっという間に頑丈な屋台を組み上げていく。その槌音は、まるで新たな時代の幕開けを告げる祝砲のようだった。
「ふん、相変わらずごちゃごちゃした厨房だな。だが、悪くない」
ボルカンは腕を組み、集まってきた地元の料理人たちに、ぶっきらぼうだが的確な助言を与え始めた。彼の百年の経験は、自信を失いかけていた職人たちの目に、再び誇りの炎を灯していった。
噂は噂を呼び、俺たちの「祭り」の準備は、雪だるま式に大きくなっていった。氷雪の国からは新鮮な魚が、砂漠の国からは貴重なスパイスが届く。かつて俺の料理が繋いだ縁が、今、大きなうねりとなってジュリアンの足元に押し寄せていた。
そして、祭りの当日。
日が落ち、クロスロードの広場に無数のランタンが灯ると、そこには奇跡のような光景が広がっていた。様々な国の音楽が混じり合い、言葉の壁を越えて、人々が笑顔で料理を酌み交わしている。効率化された白いブースが並ぶジュリアンのエリアとは対照的に、俺たちの広場は、混沌としているが、生命の熱気に満ち溢れていた。
俺は、ガルバス将軍が建ててくれた小さなやぐらの上に立っていた。眼下に広がる、温かい光と人々の笑顔。それは、俺がずっと守りたかった、食卓の原風景そのものだった。
「――皆さん! 今日は、難しい話は一切なしです!」
マイクもない。俺は腹の底から叫んだ。
「ただ、食べて、笑って、隣の人に『それ、美味そうだな』って話しかけてみてください! 食事ってのは、そういう、ささやかで、温かいもののはずだから! さあ、『第一回・世界収穫祭』の始まりだ!」
割れんばかりの歓声が、夜空に響き渡った。
その様子を、ジュリアンは自らのブースの最も高い玉座のような椅子から、モニター越しに冷ややかに見下ろしていた。
「……興味深い、感情の奔流だ。非効率で、非衛生的で、何の生産性もない」
彼は部下に命じた。
「出席者のデータを分析しろ。この原始的な祭りが、どれほどの経済効果を生むのか。そして、どれほど早く飽きられるのか。正確な予測値を、明日の朝までに提出しろ」
彼の瞳には、嫉妬も、怒りもなかった。ただ、理解不能な現象を分析しようとする科学者のような、冷たい光が宿っているだけだった。だが、モニターに映る、見知らぬ者同士が一つの串焼きを分け合って笑う姿から、彼がほんの一瞬だけ、目を逸らしたのを、誰一人知る者はいなかった。