第33話 岩塩の味と、共有する傷跡
その夜、俺は魔王城からわざわざ訪ねてきたボルカンとガルバス将軍に連れられ、クロスロードの旧市街にひっそりと佇む酒場に来ていた。店の名は「岩髭亭」。かつては兵士や冒険者たちの鬨の声で床が抜けんばかりだったというその場所も、今は空席ばかりが目立ち、埃っぽい静寂が満ちていた。
「ケンタ殿、見ろ。この有様を」
ガルバス将軍が、まるで自らの軍の敗北を語るかのように、悔しげに呟いた 。
「ふん、最近の若いもんは腑抜けたもんしか食わんからな。あの『グローリー・バイト』とかいう、噛み応えも魂もない練り餌をよ」
ボルカンが腕を組み、苦虫を噛み潰したように言う 。その時、店の奥から、年季の入った岩のような体躯を持つドワーフの店主が現れ、無言で巨大な骨付き肉の塊を樫のテーブルに叩きつけた。ジュウ、と音を立てる肉の表面には、まるで宝石のように粗い結晶の塩が力強く輝いている。
野性的な肉の香りと、深く、ミネラルを感じさせる塩の香りが鼻腔をくすぐる。俺は夢中でその肉にかぶりついた。
「……うまい。すごく、うまいです、これ」
肉の力強い旨味と、塩の深く、そしてどこか丸みのある塩味が口の中で溶け合う。ただ塩辛いだけではない、命の味がした。ボルカンは、俺の反応に満足げに鼻を鳴らした。
「当たり前だ。ここの親父はな、百年ものの岩塩の塊を、客の前で削って肉を焼くんだ 。そこらの工場で作った粉の塩とはわけが違う。……だが、その価値が、もう誰にも分からんらしい」
その言葉に、ガルバス将genが酒の入った角杯をテーブルに叩きつけた。ガツン、と鈍い音が響く。
「腹が立つ! 戦で死ぬなら本望だが、こんな味気ないもので腹を満たして生き永らえるのは、俺はごめんだ! ケンタ殿、あのジュリアンとかいう若造の鼻を、どうにか明かせんのか!」
彼らの、裏表のない、食への愛情と怒り。それは、ただの懐古主義ではない。自分たちが信じる「豊かさ」が、効率という名の無味乾燥な刃によって切り捨てられていくことへの、魂の叫びだった。俺は、自分の戦いが一人ではないことを、改めて胸に刻みつけていた。
◇
酒場からの帰り道、俺は博覧会場の片隅にある公園のベンチで、一人、夜風に当たっていた。頭を冷やしたかった。今日、子供たちの笑顔に手応えを感じたのは事実だ。だが、ジュリアンの巨大な城壁を前に、自分のやっていることはあまりに小さな一歩に思えた。
「まだ起きていたの」
静かな声に顔を上げると、ミネルヴァがそこに立っていた。彼女は俺の隣に静かに腰を下ろす。
「あなたの『子ども食堂』、少し話題になっているわよ。小さな石だけど、ジュリアンの湖に、確かに波紋を立て始めた」
「ありがとう」俺は力なく笑った。「でも、俺、時々分からなくなるんだ。俺がやってることって、ただの自己満足なんじゃないかって。ジュリアンの言う通り、ただの感傷なんじゃないかって……」
ミネルヴァは、まっすぐに前を見つめたまま、静かに語り始めた。その声は、いつもの外交官としての張り詰めた響きではなく、遠い過去を辿るような、微かな震えを帯びていた。
「……私の両親はね、魔族との戦争で死んだわ」
俺は息をのんだ。彼女がこれほど個人的な話をするのは、初めてだった。
「でも、それは戦闘ではなかった。補給が絶たれた砦で、飢えて……」
その言葉は、俺の心に鉛のように重く沈んだ。ジュリアンと同じ、飢餓の記憶。
「だから、ジュリアンの『誰も飢えさせない』という言葉の重みは、痛いほどわかる。彼の正義は、本物よ。……でもね、ケンタ」
彼女は、そこで初めて俺の方を向いた。その瞳は、公園のランプの光を反射して、夜露のように潤んでいる。
「私が最後に覚えている母の顔は、最後のひとかけらの乾パンを、私に隠れてこっそり食べさせてくれた時の、笑顔なの」
その言葉は、どんな料理よりも深く、俺の心の最も柔らかい部分に染み渡った。
「人は、ただ腹が満たされれば生きられるわけじゃない。誰かが自分のために手間をかけてくれたっていう記憶が、心を支えるのよ。あなたのやっていることは、感傷なんかじゃない。あなたは、そういう記憶を、未来のために作っている。……それは、ジュリアンには決してできないことよ」
ミネルヴァの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、かつて両親を奪った魔族と手を取り合い、平和のために戦う彼女が、ずっと胸の奥に隠してきたであろう、本当の心の叫びだった。
俺たちの間に、もう言葉はいらなかった。
同じ傷跡を持つ者だけが分か-ち合える、静かで、しかし何よりも強い絆が、その夜、確かに生まれた。
俺の心にあった迷いは、もう消えていた。守るべきものは、食文化という大きな言葉じゃない。食卓を囲む、誰かの笑顔。そして、その笑顔に宿る、温かい思い出そのものなのだと。俺は、固く拳を握りしめた。