第32話 思い出の味と、効率の刃
夜が明けた博覧会場は、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。通りの敷石を濡らす朝露が、昇り始めた太陽の光を冷たく弾いている。俺、向田健太の仮設キッチンには、手つかずのまま冷たくなった肉じゃがの鍋が、敗北の象徴のように鎮座していた。その醤油と砂糖が煮詰まった匂いは、今はただ、空虚に鼻をつくだけだった。
俺は黙々と鍋を洗い、調理台を磨き上げていた。悔しさを洗い流すように、布巾に力を込める。失敗はした。だが、心は折れていない。戦う場所が違うと分かっただけだ。
「……寝てないでしょう」
凛とした、しかし微かな疲労を滲ませた声がした。振り返ると、外交官ミネルヴァが腕を組んでそこに立っていた。彼女の目の下には、きっと俺のために夜通し情報を集めてくれたのであろう、仕事の痕跡が色濃い。
「おはよう、ミネルヴァさん。うん、昨日の肉じゃがは完敗だったよ。俺の料理は、値段と手軽さの前に、見向きもされなかった」
俺は努めて明るく言うと、磨き上げた調理台に、これまでとは違う道具を並べ始めた。大きなこね鉢と、色とりどりの野菜、そして子供の手に合わせたような、いくつもの小さな麺棒。売り物の料理を作るための準備ではない。
ミネルヴァは訝しげに眉をひそめた。
「……料理を売らない? まさか、慈善事業のつもり? それでは彼の市場は崩せないわ。ジュリアンのビジネスは、善意と合理性でできている。最も厄介な組み合わせよ」
「ああ。だから、数字じゃ測れないもので戦うんだ」
俺はそう言うと、物珍しそうにこちらを覗き込んでいた、通りの子供たちに満面の笑みで手招きをした。煤けた頬に、大きな瞳が不安げに揺れている。
「――ねえ、君たち! お腹すいてるだろ? 今日は俺が、世界一うまいパンの作り方を教えてやる。ただし、タダじゃない。君たちの『手』を貸してもらうぜ!」
子供たちがおずおずと集まってくる。俺は彼らの小さな手に、ふわりと発酵した生地の塊を乗せてやった。驚きに目を見開く子、面白そうに生地をこね始める子。その光景を、ミネルヴァは呆れたように、しかしどこか興味深げに見つめている。
「……本気なのね」
「うん」と俺は頷いた。「市場を崩す前に、思い出を作ってあげたいんだ。自分の手で作った料理の味っていう、特別な思い出をね。それって、どんなに安くて便利な食べ物にも負けない『価値』だと思うから。俺の料理は、腹を満たすだけじゃない。心を通わせ、温もりを分か-ち合うためのものなんだ」
やがて、子供たちの笑い声と小麦粉の舞う中で、不格好だが、たまらなく香ばしい匂いの野菜パンが焼きあがった。子供たちが歓声を上げ、夢中でパンを頬張る。その弾けるような笑顔は、昨日「グローリー・バイト」を無表情に食べていた大人たちの顔とは、まるで違う光を放っていた。
◇
その頃、ガラス張りの近代的なブースで、ジュリアン・クレストはタブレットに映し出される冷たい数字だけを眺めていた。完璧に整えられた室内には、食材の匂いのかけらもなく、空調の微かな駆動音だけが響いている。
「代表」部下が進み出て、無機質な声で報告した。「例の料理人ですが、本日は料理を売らず、子供たちに無料でパン作りを教えている模様です。我が社の売り上げへの影響は、現時点では皆無かと」
「……そうか。ままごと遊びか」ジュリアンは画面から目を離さずに言い放った。「結構だ、放っておけ。我々の使命は、感傷に浸ることではない。統計上の飢餓率をゼロにすることだ。今日の新規契約数は?」
「はっ! 順調に推移しており、本日中には目標値を10%上回る見込みです」
「供給ルートをさらに最適化しろ。コストはあと3%は削減できるはずだ」
ジュリアンの指が、淀みなく画面の上を滑る。その時、タブレットが会場のライブ映像を小さく映し出した。そこには、健太のキッチンで、顔中を小麦粉だらけにして破顔する子供の顔が、一瞬だけ大写しになった。
ピタリ、と。
ジュリアンの指の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
彼の、全てを分析し尽くすかのように冷徹な瞳の奥で、何かが微かに揺らいだ。まるで、遠い昔に鍵をかけて封じ込めた記憶の扉が、軋む音を立てたかのように。
だが、それも刹那のことだった。彼はすぐにその感情のさざ波を意志の力で押し殺し、表情一つ変えずに、しかし先ほどよりも少しだけ硬い声で、部下に命じた。
「……来週から、供給ラインを倍にしろ。感傷が広まる前に、市場を完全に掌握する」