第31話 静かなる食卓の侵略者
魔王城の厨房は、かつてないほどの穏やかな熱気に満ちていた。
戦いの記憶は遠く、今はただ、実りの季節がもたらす豊かな香りと、若き料理人たちの明るい声がそこにある。「食の枢機卿」となった俺、向田健太の厨房は、さながら国際料理学院の様相を呈していた。氷雪の国の少女が砂漠の国のスパイスの使い方に目を輝かせ、魔族の青年が人間界の出汁の引き方に感嘆の声を上げる。
この平和な食卓を守り抜いた。その達成感はある。だが同時に、俺の心には、ある種の焦燥感が静かに芽生えていた。この城壁の内側では文化が交わっている。しかし一歩外に出れば、世界はまだ、互いの味を知らないままだ。俺の仕事は、まだ半分も終わっていない。
そんなある日の午後、外交官ミネルヴァが、一人の男を伴って厨房を訪れた。
「紹介するわ、健太。こちらは巨大食品企業『グローリー・フーズ』代表、ジュリアン・クレスト氏よ」
ジュリアンと名乗る男は、貴族のような洗練された物腰で、完璧な笑みを浮かべていた。しかし、その瞳の奥には、温度というものが一切感じられなかった。
「お会いできて光栄です、枢機卿。あなた様の料理が、この世界の平和を築いたと伺っております」
「……どうも」
ジュリアンが恭しく差し出した箱には、彼の社の製品だという**「グローリー・バイト」**が入っていた。それは、手のひらサイズの、白く滑らかな栄養バーのようなものだった。
「世界の飢餓を撲滅するために、我々が開発した“奇跡の食”です。これ一本で、成人が一日に必要とする全ての栄養を、完璧なバランスで摂取できます」
その夜、謁見の間で試食会が開かれた。ゼノ様をはじめ、各国の首脳たちはその機能性と、意外にも悪くない味を称賛した。確かに、味は悪くない。だが、俺には分かった。これは「料理」ではない。命を繋ぐための「機能」だ。温もりも、物語も、そこには何一つ存在しない。
数週間後、ミネルヴァから一通の急報が届いた。俺の予感は、最悪の形で的中する。
『グローリー・フーズ』は、その絶大な影響力を背景に、中立の人間都市で開催される「世界文化博覧会」における、全ての食料供給の独占契約を締結した。ジュリアンは博覧会を舞台に、「グローリー・バイト」こそが食の未来だと、世界に宣言するつもりなのだ。
ミネルヴァの羊皮紙は、悲痛なインクの染みで締め括られていた。
「これは、慈善を装った文化の侵略よ。彼らは、過去のない未来を世界に売りつけようとしている。その流れを止められるのは、あなたしかいない。――彼らに、過去を敬う未来の味を示して」
俺は、厨房の窓から、平和になった城下町を見下ろした。多様な文化が混じり合い始めた、愛おしい食卓の風景。あそこから、物語の香りが消えようとしている。
俺は静かに、愛用の包丁を握りしめた。穏やかな日々は、もう終わった。
◇
博覧会が開催される人間都市「クロスロード」の空気は、すでにジュリアンの色に染まっていた。
かつて、地方色豊かな串焼きやパイを売っていたはずの屋台は、ことごとく「グローリー・フーズ」の統一された看板を掲げている。人々は、配給される「グローリー・バイト」を、何の疑いもなく口に運んでいた。
「……味見を」
俺は素性を隠し、一つ手に入れた。口に含むと、計算され尽くした甘みと塩味が舌を撫でる。不味くはない。腹は満たされる。だが、胸は満たされない。後には、奇妙な空虚感だけが残った。
俺はミネルヴァが用意してくれた小さな仮設キッチンで、故郷の味である肉じゃがを作り始めた。醤油の香ばしい匂いが、無機質な街並みに温かい命を灯す。
「さあ、どうぞ!魔王軍も唸らせた、特製の煮込み料理だよ!」
数人が興味深げに足を止める。しかし、彼らは値札を見ると、決まって首を横に振った。
「美味しそうだけど……グローリー・バイトなら、この三分の一の値段で腹一杯になれるからな」
「それに、すぐ食べられる方が便利だ」
差し出した皿は、誰にも受け取られることなく、湯気を失っていく。それは、かつて魔王軍の偏見に阻まれた時とは違う、もっと静かで、だからこそ残酷な拒絶だった。これは軍隊ではない。民衆の、自由な選択なのだ。
夜、誰もいないキッチンで、俺は一人、冷たくなった肉じゃがを口に運んだ。味が、しなかった。
その時、背後で静かな声がした。
「……無駄なことだと思わないか、枢機卿」
振り返ると、ジュリアンが立っていた。彼は、俺が作った肉じゃがの鍋を、憐れむような目で見下ろす。
「あなたの料理は、芸術品だ。素晴らしい。だが、全ての人間が芸術品を毎日食べられるわけじゃない。私が作っているのは、誰もが手にできる、生きるための“パン”だ」
「あんたのパンには、作り手の顔が見えない」
「顔など必要ない。必要なのは、平等に腹を満たすための効率だ。……私は、幼い頃に戦争で両親を亡くし、飢えで……たった一人の妹を亡くした」
ジュリアンの瞳に、初めて温度が宿った。それは、凍えるような悲しみの色だった。
「私は、二度とあんな思いを誰にもさせないと誓った。そのためなら、食に宿る感傷など、喜んで切り捨てよう。それが私の正義だ」
彼は悪人ではなかった。彼もまた、絶望から世界を救おうとしている、ただ一人の人間だったのだ。
俺は、彼の背中に告げた。
「俺は、あんたの正義を否定しない。だが、飢えを満たしたその先に、人の心が何を求めるのか……それを、この街で証明させてもらう」
ジュリアンは振り返らなかった。ただ一言、冷たく言い放つ。
「感傷では、世界は救えない」
新たな戦いのゴングが鳴った。それは、正義と正義がぶつかり合う、あまりにも静かで、あまりにも切実な、食卓を巡る戦争の始まりだった。