第30話 平和の味、未来の一皿
和平会議が閉幕してから一週間。魔王城は静けさを取り戻していた。ボルグの追放と、それに続く商業国家との外交的な調整はミネルヴァの手腕によって順調に進み、ついに人間と魔族の間で恒久的な和平条約が結ばれた。
向田は、魔王から正式に任命された「食の枢機卿」という新たな役職のプレートを、自分の厨房の扉に誇らしげに掲げた。その役職は、国境を越えた食文化の交流と、食を通じた外交を担当するという、前代未聞の重責だった。
午後、向田の厨房に珍しい来客があった。
「よう、枢機卿殿。出世したな」
軽快な声とともに現れたのは、ユミールとサリムだった。彼らはもう、互いに敵意を向けることはない。ユミールは氷雪の地の青い魚を、サリムは砂漠の黄金色の香辛料の袋を携えていた。
「枢機卿なんて、柄じゃないですよ。ただの料理人です」向田は笑いながら二人を迎えた。「今日はどうされたんですか?」
ユミールは調理台に魚を置いた。その動きは以前より丸みを帯び、どこか楽しげだった。
「私たちは、あの夜、あなたの塩で開眼した。互いの文化を貶め合うのではなく、融合させれば、世界最高の味になると。そして、私たちはついに共同で新しいレシピを完成させた」
サリムも前に出て、ハーブの袋を広げた。
「氷雪の地の魚の脂を、砂漠のハーブで燻製にする方法だ。水と火、正反対の文化が、互いの最も良い部分を引き出し合った。今日の昼食は、これを皆に振る舞おう」
向田は感激した。彼の望んだ、文化の尊重と融合が、彼の知らないところで着実に進んでいたのだ。彼は喜んで二人の手伝いを申し出た。厨房には、プロの料理人たちが持つ、創造的な熱気が満ち溢れた。
夕方、魔王が静かに向田の厨房を訪れた。彼は枢機卿のプレートを指でなぞりながら、満足そうに微笑んだ。
「お前の料理が、私の想像を超えて世界を動かした。感謝する、ケンタ」
「魔王様、これもミネルヴァさんの協力と、皆さんの平和への思いがあったからです」
魔王は向田の言葉に頷き、深遠な眼差しで彼を見つめた。
「和平条約は結ばれた。だが、真の平和とは、日常の味として定着しなければ意味がない。私の国民はまだ、人間の食べ物を恐れている。人間の民もまた、魔族の料理を拒否している。お前の仕事は、ここからが本番だ」
魔王の言葉は、向田の最終課題を提示していた。それは、個人の感動ではなく、社会全体の意識を変えること。
「承知しています。俺は、特別な料理ではなく、日常の食卓に、平和の味を届けます」
その時、ミネルヴァが書類を抱えて駆け込んできた。彼女の額には汗が滲み、呼吸は乱れていた。
「向田さん!魔王様!大変です!次期商業国家代表が、和平条約締結を祝うためとして、明日、この城で大規模な宴会を主催すると申し出てきました!」
魔王は眉間に皺を寄せた。「ボルグの仲間か。何を企んでいる」
ミネルヴァは深刻な顔で続けた。
「彼らは、和平条約を経済的に支配しようとしている。宴会のメニューは、全て彼らの国の輸入食材で統一すると。これは、食料外交を通じて、魔族の国を経済的に従属させようとする、ボルグ以上の巧妙な罠です!」
向田の顔に、再び緊張感が走った。ボルグは去ったが、「和平を利用して利益を得ようとする敵」は、形を変えて現れたのだ。
魔王が向田を見つめた。
「ケンタ、どうする。彼らのメニューを受け入れれば、国民の誇りは踏みにじられる。拒否すれば、外交的緊張が高まる」
向田は静かに、ユミールとサリムが残していった魚とハーブに目を向けた。そして、自分の厨房を見渡した。そこには、魔族と人間、様々な文化の食材が、平和に共存している。
彼は、深く息を吸い込むと、迷いのない、プロの料理人としての声で答えた。
「俺は、その宴会に出ます。そして、彼らが用意した輸入食材を、全て使います。ただし……」
向田の瞳に、新たな挑戦への炎が灯った。
「その食材を、人間と魔族の共同レシピで調理し、『我々の未来の味』に変えてみせます。彼らの経済的な支配の企みを、文化的な交流という、誰にも否定できない力で打ち破ります」
ミネルヴァは、向田の大胆な提案に、一瞬呆然とした後、顔を輝かせた。
「そうよ、それだわ!彼らの武器を、私たちの盾にする!私も、外交面でその共同レシピを国際条約に組み込む工作をします!」
魔王は、向田のその料理人としての決意と、ミネルヴァの外交官としての熱意を見て、深く頷いた。
「わかった。信じよう、食の枢機卿。お前の未来の一皿を」
向田は、力強くナイフを握りしめた。彼の戦いはまだ終わらない。しかし、今、彼の隣には、信頼できる仲間と、彼が守りたかった未来の平和がある。彼の新たな挑戦は、『支配』の食材を『共存』の味に変える、究極の料理へと向かうのだった。