第3話 我、この味を知る
我、魔王ゼノの世界は、常に不協和音に満ちている。
窓から差し込む光は硝子の破片となって眼球に突き刺さり、臣下の立てる衣擦れの音は鉄の爪となって鼓膜を引っ掻く。玉座に座しているだけで、世界中のあらゆる刺激が我の五感を苛み、ただ呼吸するだけで魔力が削られていく。
これが、生まれ落ちた時からの我が宿命。魔王という、絶対的な力を持つはずの我が、この世界そのものに呪われているのだ。誰にも理解されぬこの苦痛を、ただ無表情の仮面の下に押し殺し、威厳を保つことだけが、我に課せられた王の務めであった。
中でも食事の時間は、一日で最も忌むべき拷問の時間だった。
厨房から運ばれてくる、むせ返るような獣の脂の匂い。目に痛いほど鮮やかなソースの色。それらが運ばれてくる盆を前に、我はただ、吐き気をこらえ、スプーンを一度だけ口に運び、「下げろ」と命じる。それを繰り返すだけの日々。
忠義者の料理長ボルカンが、また新しい料理人を連れてきたと報告に来た時も、我は心の底からうんざりしていた。
「今度は『人間』にございます。きっと目新しい料理で、陛下の御心を楽しませることでしょう」
(やめろ)と、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
人間に何が作れる。どうせまた、無駄に香辛料を使い、見た目だけを飾り立てた、刺激の塊のような代物を持ってくるに決まっている。
案の定、その向田健太と名乗る人間が最初に持ってきた料理は、どれもこれも耐え難い代物だった。鼻を刺すソースの匂い、目に痛い野菜の色。我はそれらを一瞥しただけで、即座に下げるよう命じた。人間は、そのたびに傷ついた子犬のような顔をして、盆を下げていく。その姿に、苛立ちよりも先に、わずかな憐れみすら覚えた。哀れなことだ。我が世界では、善意も真心も、すべてが苦痛に変換されるのだから。
あの日も、そうだった。
またしても人間が、何か新しい料理を運んできた。どうせ同じことの繰り返しだ。そう諦念と共に目をやった、その時。
(…む?)
我は、己の感覚を疑った。
その人間が持ってきた深皿からは、いつもの不快な匂いが一切しない。立ち上る湯気は、ただ静かで、穏やかだ。
「魔王様。これは…ただの、温かいスープです」
人間が、少し震える声で言った。その声すら、今日は不思議と耳に障らない。
我は、生まれて初めて、自らの意思で盆の上のそれに興味を引かれた。
ゆっくりと、銀のスプーンを手に取る。ボルカンをはじめ、部屋にいる全員が息をのむ気配がしたが、どうでもよかった。
乳白色の液体を、おそるおそる口に運ぶ。
その瞬間――衝撃が走った。
何もない。
熱すぎることも、冷たすぎることもない。舌を刺す塩辛さも、鼻を殴る香りもない。ただ、滑らかで、温かく、そして優しい何かが、ゆっくりと喉を滑り落ちていく。
これが、「味」というものなのか。
世界は、こんなにも穏やかな悦びを隠し持っていたというのか。
我は、我を忘れていた。
気づけば、目の前の皿は空になっていた。物心ついてより、食事の皿を空にしたことなど、一度たりともなかったというのに。
空の皿の底を、銀のスプーンがカツンと虚しく叩く。
もっと。
もっと、これを。
我の口は、理性の制止を振り切り、勝手に言葉を紡いでいた。
「……おかわり」
人間が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。隣のボルカンに至っては、自慢の角が驚きのあまり折れてしまうのではないかというほど、目を見開いている。
(…我としたことが…!)
内心の動揺を押し殺し、努めて平静に、もう一度だけ繰り返した。
「聞こえなかったのか。おかわりだ、と言った」
あの日のポタージュを皮切りに、我が食卓は一変した。
健太が作る料理は、どれもこれも驚くほど静かで、優しかった。バターの香りさえ極限まで抑えた魚のムニエル。香草を一切使わず、肉本来の旨味だけで構成された鶏のコンフィ。
それらを口にするたび、我の荒れ果てた内なる世界に、穏やかな光が差し込むようだった。
いつしか、食事の時間が待ち遠しくなっている自分に気づいた。
政務の合間に、厨房の方角を気にしてしまう。健太が料理を運んでくる足音が聞こえると、無意識に姿勢を正してしまう。
(い、威厳が…!魔王たる我が、一介の人間の作る食事ごときに、心を乱されているだと…!?)
誰にも見られぬよう、玉座の上で一人赤面する。だが、腹は正直に、くぅ、と小さな音を立てて次の食事を催促するのだ。
あの人間は、一体何者なのだろう。
なぜ、我が世界の苦しみを、これほどまでに正確に理解できる?
料理を差し出すときの、あの真剣な眼差し。それは、ただの料理人のそれではない。まるで、壊れ物を扱うように、祈るように、我を見つめている。
今日もまた、健太が作った温かいスープが、冷え切った我の身体に染み渡っていく。
苦痛しかなかった世界に、健太の作る「食事の時間」という、心から安らげる絶対安全な領域が生まれた。それは、魔王としての力とはまったく別の、温かく、そして抗いがたい力だった。
「向田健太…か」
食後の一杯の白湯を飲み干し、我は誰にともなく呟いた。
玉座の肘掛けに頬杖をつき、その口元に、自分でも気づかぬほどの微かな笑みが浮かんでいたことを、まだ我自身は知らなかった。
「面白い人間を、拾ったものだ」