第29話 勝利の後の苦味と新たな約束
ボルグが連行された後の大広間は、奇妙な静寂に包まれていた。魔族と人間の要人たちは、向田の故郷の塩によって引き出された料理の真の味と、ボルグの裏工作という二つの真実に打ちのめされ、言葉を失っていた。
魔王が厳かに会議の終了を告げ、人々が退室を始める中、向田は厨房へ戻ろうとしていた。彼の足取りは、勝利の達成感とは裏腹に、どこか重かった。
「待ちなさい、向田さん」
ミネルヴァが追いつき、彼の腕を掴んだ。彼女の顔は、安堵の色と共に、まだ興奮が残っていた。
「やりましたね!完璧でした!あなたの『悪行』は、最終的に最大の平和をもたらしたわ!」
向田は立ち止まり、静かに自分の手を振り返った。
「悪行、ですか……。あの時、ボルグの陰謀を暴くために、皆さんの味覚を欺いたのは事実です。王室料理のシェフや、古代料理の料理人に顔向けできません」
向田は故郷の塩が入った小さな布袋を握りしめた。
「俺は料理人として、人を喜ばせるために料理をしてきた。でも、今回は、人を混乱させ、真の味を見失わせた。この勝利には、苦味が残ります」
ミネルヴァは向田の言葉を静かに聞き、そっと布袋に触れた。
「その苦味を背負うのが、和平の代償です、向田さん。私は外交官として、数えきれない嘘と妥協を重ねてきた。あなたの『欺瞞』は、誰も屈辱を感じさせないための、最も高潔な嘘だった」
彼女は、真剣な眼差しで向田を見つめた。
「見てください。ユミールとサリムは今、笑顔で互いの料理について語り合っている。彼らは、あなたの塩がなければ、互いの文化を軽蔑し合ったまま会議を終えていたでしょう。あなたは、真実の味を、最も必要な瞬間に届けてくれたのよ」
ミネルヴァの言葉に、向田の心の迷いが少しずつ晴れていく。その時、ユミールとサリムが厨房へ向かって歩いてきた。
ユミールが硬質な声で言った。「向田殿、感謝する。我々の料理は、ボルグの意図で分断させられていた。しかし、あなたの塩は、その分断を溶かし、尊重という味に変えた」
サリムも深く頷いた。「我々砂漠の民は、水だけでなく塩もまた、命の源と考える。あなたの塩は、我々が互いに補い合うべきだという、天からの啓示だった」
向田は、二人の料理人の心からの感謝の言葉を聞き、初めて心から安堵した。
「ありがとうございます。俺も、お二人の料理から、多くのことを学びました」
彼らの間で、国境や文化を超えた料理人としての絆が生まれた。ユミールは氷雪の地で採れた純粋な水を、サリムは砂漠で採れた貴重なハーブを向田に差し出した。
「今後も、あなたの料理が必要だ」とユミール。
「我々の文化を繋ぐ食の使者として、これからも頼む」とサリム。
彼らが立ち去った後、ミネルヴァは再び向田に向き合った。彼女は、先ほどまでの外交官の顔から、一人の女性の顔に戻っていた。
「私の仕事もこれで終わりではありません。和平条約の細部を詰める作業が山積みです。そして、魔王はあなたをただの料理人として終わらせるつもりはないでしょう」
「魔王様が?」
「ええ。彼は、食の力で世界を繋ぐ、正式な役職をあなたに与えようとしている。『食の枢機卿』……冗談みたいでしょう?」
ミネルヴァはそう言って笑った。その笑いには、緊張が解けた後の、柔らかな人間味が溢れていた。
「あなたと組んでみて、わかった。政治は、無味乾燥な数字や書類だけではない。あなたの料理のように、人の心を動かすものなのだと」
向田はミネルヴァに、心からの感謝を伝えた。
「俺もです、ミネルヴァさん。あなたがいなければ、俺はとっくにボルグの罠に嵌っていました。あなたは最高の共犯者で、最高の外交官です」
ミネルヴァは向田の目をまっすぐ見つめ、少しの間の後、静かに、しかし決意を込めた口調で言った。
「向田健太。私たちは、これから和平という大きな料理を完成させなければなりません。この魔王の国で、人間と魔族が互いの文化を尊重し、真に共存できる未来の味を。そのために、あなたの料理と、私の知恵が必要です」
向田は、故郷の塩を握りしめ、力強く答えた。
「わかりました。俺は、和平を完成させるための、最後の料理を作ります。あなたが望むなら、いつでも俺の厨房へ来てください。いつでも、あなたの共犯者になります」
二人の間に、新たな信頼と、未来への希望が生まれた。向田は、自身のナイフを磨きながら、心の中で誓った。この世界に、ボルグのような憎しみの味ではなく、誰もが笑顔になれる平和の味を、必ず定着させてみせると。物語は、食の使者・向田健太の新たな旅立ちを示唆して、幕を閉じる。