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第28話 故郷の塩と外交官の反撃

 ボルグの「人間の王室料理勝利」宣言により、大広間は怒号と混乱に包まれた。魔族の要人たちは一斉に立ち上がり、テーブルを叩く者、ボルグを睨みつける者と、その怒りを露わにした。


「卑怯だ!我々の料理が劣っているなど、断じて認めん!」魔族の将軍が剣の柄に手をかけた。


「静粛に!」ミネルヴァが鋭い声で叫んだ。「ボルグ殿、集計には疑義があります。公平な審査が行われたとは言い難い!」


 ボルグは嘲笑した。


「ミネルヴァ外交官、敗者の遠吠えは聞き飽きた。投票用紙は厳正に集計された。結果は絶対だ。この結果をもって、和平会議は人間優位で進行する。これが現実だ!」


 ボルグはそう言って、執事に命じた。


「直ちにこの結果を全土に発信せよ!魔族の料理が、人間の美食に劣ると!」


 その時、向田が動いた。彼は、故郷の塩が入った小さな袋を握りしめ、混乱する広間の真ん中へと駆け出した。


「待ってください!ボルグ殿、その結果は、嘘だ!」


 ボルグは向田を見下し、冷笑した。


「なんだ、料理人。お前はもう用済みだ。お前のくだらない『感情的介入』は、この厳正な結果の前には無力だ。黙って厨房へ戻れ!」


 向田はボルグの言葉を無視し、大声でユミールとサリムを呼んだ。


「ユミール様!サリム様!もう一度、お二人の料理を食べてください!ただし、何もつけずに!」


 二人の料理人は戸惑いながらも、向田の真剣な眼差しに引き寄せられ、テーブルに戻った。


 向田はボルグの執事がトレイの下に隠していた、本物の投票用紙の束を指差した。


「ボルグ殿、そのトレイの下にある用紙が、真の結果を示している。しかし、俺は、その投票結果など必要ありません」


 向田は静かに、自分の掌を開いた。そこには、真っ白な粒子の粗い塩が乗っていた。


「俺は、お二人の料理の真の姿を、この塩で引き出します」


 ユミールは眉をひそめた。「塩? もう味は知っている」


 サリムは警戒した。「水も使わないのか?」


「この塩は、俺の故郷の塩です」向田は彼らに向かって、優しく語りかけた。「何十年も、何百年も、人々が涙と汗を流して作り上げてきた、命の味。この塩には、人間の『謙虚さ』と『純粋さ』が込められています」


 向田は、その塩を一撮み取り、ユミールの皿に残された『白銀のロースト』の肉片に、ごくわずか、まるで雪が降るように振りかけた。


「食べてください。この肉が、どれだけ完璧な火入れで、素材の味そのものを生かしているか。それが、人間が持つ美の極致です」


 ユミールは、恐る恐る肉を口にした。その瞬間、彼女の顔に驚愕が走った。


「これは……! 今まで感じたことのない素材の甘み! バターの濃厚さに隠されていた、肉本来の清らかな風味が、塩によって引き出された……」


 次に、向田はサリムの皿に残された『黒き大地の恵み』に、同じ塩を同じ量だけ振りかけた。


「そしてサリム様。この発酵食品が持つ複雑な奥深さが、いかに神聖な時間によって生み出されたか。この塩で感じてください」


 サリムはゆっくりと料理を口に運んだ。彼の瞳が、大きく見開かれた。


「私の料理が、こんなにも……丸くなるとは! あの強すぎる酸味が消え、奥底に隠れていた命の滋養が、口いっぱいに広がる……」


 二人の料理人は、互いの料理が持つ真の美点を、向田の故郷の塩という媒介によって初めて理解したのだ。彼らの顔から、怒りや屈辱の色は消え、代わりに深い感動と、真の尊敬の念が宿った。


 ユミールが声を上げた。


「私の料理は、人間の傲慢な美だけではなかった! この純粋な塩がなければ、真の価値は見抜けなかった!」


 サリムも続いた。「私の料理は、魔族の偏屈な知恵だけではなかった! この塩が、全ての味を調和させてくれた!」


 会場の要人たちは、二人の料理人の感動の表情に、静かに引き込まれていった。彼らもまた、向田の仕掛けた香りのせいで、料理の真の味を見失っていたことを悟り始めていた。


 その瞬間、ミネルヴァが動いた。彼女はボルグの執事からトレイを奪い取り、偽の投票用紙を払いのけ、本物の投票結果を広間の皆に見せつけた。


「静粛に!これが、真の投票結果です!」


 そこには、どちらの料理にも「どちらとも言えない」「判断不能」「どちらも素晴らしいが、優劣はつけられない」というコメントが、大多数を占めていた。


「投票は、無効です!勝者は存在しない!向田さんの仕掛けた香りによる混乱、そして、ボルグ殿による投票操作が、この結果を生みました!」


 ミネルヴァはボルグを指差した。


「あなたは、和平の場を分断と屈辱のために利用しようとした!あなたの最大の罪は、両陣営の料理をただの優劣比較に貶めたことだ!」


 ボルグの顔は血の気を失い、震え上がっていた。


「ば、馬鹿な……証拠などない!貴様ら……!」


 向田は、掌に残った最後の塩を、静かにボルグの前に差し出した。


「ボルグ殿。この塩は、全ての味を平等にする。あなたの陰謀も、この塩の前では、味の薄い裏切りでしかない。あなたは、この会議を失敗させても、世界の幸福を奪うことはできません」


 ボルグは、向田の純粋な眼差しと、その手に乗せられた小さく、しかし重い塩に、完全に打ちのめされた。彼のすべての権力と傲慢さが、この最もシンプルな調味料の前で、無力であることを悟ったのだ。


 魔王が静かに立ち上がった。彼の低い声が、広間に響き渡った。


「ボルグ商会は、和平会議の進行を妨害し、国際秩序を乱そうとした。よって、商業国家代表ボルグは、全権を剥奪する」


 ボルグは、兵士に連行されながらも、最後まで向田を睨みつけていた。しかし、その瞳には、すでに憎しみではなく、敗北者の絶望が宿っていた。


 向田とミネルヴァは、互いに顔を見合わせ、安堵の息を漏らした。彼らの共犯者としての賭けは、大成功に終わったのだ。しかし、それは、あくまで彼らの戦いの第一段階の終わりにすぎなかった。

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