第27話 究極の味覚と投票の罠
魔王城の大広間は、豪華絢爛な装飾が施されていた。中央には審査員となる各国要人のテーブルが並び、その両脇には、人間の王室料理『白銀のロースト』と、魔族の古代料理『黒き大地の恵み』が、威厳をもって並べられている。
向田は厨房の隅、目立たない換気口の近くで、最終調整を行っていた。彼の前には、ミネルヴァと二人で調合した、香りの仕掛けが入った、小さな真鍮の容器が置かれている。容器からは、今はまだ微かで、しかし緻密に計算された「飽食」と「不潔」の香りの元が漂っている。
「向田さん、準備は?」ミネルヴァが静かに近づいてきた。彼女は、今夜の勝負服である濃紺のドレスを纏い、外交官としての冷静さを装っているが、その瞳の奥には、隠しきれない緊張が走っていた。
「いつでも。後は、料理が運ばれるタイミングで、この香りを広げるだけです」向田は真鍮の容器を指差した。「人間の料理が運ばれるときは『飽食』の香りを、魔族の料理が運ばれるときは『不潔』の錯覚を誘う香りを」
「わかっている」ミネルヴァは頷いた。「私の役目は、料理が運ばれた直後に、ボルグに政治的な話題を振り、彼の注意を逸らすことです。その一瞬で、香りを広げて」
「わかりました。あとは、投票が始まってからが本番ですね」向田はそう言って、ボルグのテーブルに視線を向けた。
ボルグは悠然と座り、隣に座る執事に何事か指示を出している。彼の顔には、この状況を完全に支配しているという、傲慢な自信が漲っていた。
やがて、晩餐会が始まり、料理が運ばれてきた。
まず運ばれたのは、人間の王室料理『白銀のロースト』。完璧な焼き加減の肉から立ち上る、濃厚なバターと肉の香りが、会場を満たした。要人たちは歓声を上げ、ナイフとフォークを手に取った。
その瞬間、ミネルヴァがボルグに近づき、満面の笑みで話しかけた。
「ボルグ様、先日の氷砂の交易路の件ですが、その資金調達について、少しお知恵を拝借したいのですが」
ボルグは一瞬煩わしそうな顔をしたが、外交官としてのポーズを崩さず、ミネルヴァに視線を向けた。
その一瞬。向田は素早く真鍮の容器を開き、焦がしキャラメルとハーブの香りを、換気口の風に乗せて広間に送り込んだ。
その香りは、王室料理の贅沢な香りと混ざり合う。一口目を口にした要人たちの表情は、最初は喜びで満たされていたが、二口、三口と進むうちに、急速に疲労感へと変わっていった。
「うむ……素晴らしいが、なんだかもう、胸がいっぱいだ」
「たしかに、これ以上は……。贅沢すぎるというのも、考えものですね」
要人たちは、満足感ではなく、胃もたれにも似た嫌悪感を覚え始め、フォークを置いた。
次に、魔族の古代料理『黒き大地の恵み』が運ばれた。長年の発酵を経て生まれた、複雑で強烈な香りが漂う。
ミネルヴァは再びボルグの前に立ち、今度は別の話題で彼の注意を引いた。その間、向田は素早く香りの容器を切り替え、乾燥苔と硫黄の粉末の香りを放出させた。
古代料理の発酵臭と、苔と硫黄の香りが混ざり合った瞬間、人間側の要人たちの顔が一斉に歪んだ。
「これは……! なんだか錆びた鉄の味がする」
「ひどい……どこか古びた倉庫のような臭いだ」
彼らは、料理の真の味ではなく、向田の仕掛けた香りによって、『不潔で不快なもの』という錯覚を脳に焼き付けられた。
料理の皿が空になる頃には、会場の空気は最悪だった。誰もが、二つの料理に対して「美味しい」という確信を持てず、ただ不快感と混乱だけが残った。
そして、運命の投票の時間。
ボルグの執事が、各テーブルに投票用紙とペンを配り始めた。向田とミネルヴァの瞳が、会場の隅で鋭く交錯する。
「向田さん、あなたの仕掛けは完璧です。誰も確信を持って投票できない。勝者は出ない」ミネルヴァが囁いた。
「いや……勝者を出させないのが、俺たちの目的です」
要人たちが用紙に記入し、執事がそれを回収していく。
しかし、その回収の仕方に、ミネルヴァは違和感を覚えた。執事は、回収した投票用紙を、自分のトレイの下に隠すようにして、素早くボルグのテーブルへと運んでいる。
ミネルヴァはハッとした。
「向田さん! ボルグの罠は、投票そのものの操作です! 彼は、票をすり替えるつもりだ!」
向田もボルグの行動を見て、血の気が引いた。ボルグは、向田の香りの罠など、最初から眼中にない。彼は、物理的な投票の仕組みそのものを支配することで、「誰にも納得できない勝者」を作り出し、和平会議を破綻させようとしていたのだ。
その時、ボルグが立ち上がった。彼の顔には、冷酷な勝利の笑みが浮かんでいる。
「皆様、投票は集計されました! 勝者は、人間の王室料理です! これで、魔族の料理は公式に劣っていると証明されました!」
ボルグの高らかな宣言に、魔族の要人たちが一斉に立ち上がり、怒りの声を上げた。人間側からも、その結果に納得できないという戸惑いの声が上がる。会場は一気に、怒り、屈辱、そして混乱の坩堝と化した。
向田は、その混乱の中で、ボルグのテーブルを睨みつけた。ボルグの執事が、トレイの下に隠していた、本物の投票用紙の束が見えた。ボルグは、既に偽の投票結果を準備していたのだ。
向田は、一瞬の躊躇もなく、厨房の奥の隠し棚から、最後の切り札を取り出した。それは、彼がこの城に来てからずっと温めていた、故郷の小さな袋に入った、たった一握りの塩だった。
「ミネルヴァさん! 最後の賭けです!」
向田の声が、混乱の広間に響き渡った。彼の顔は、勝敗を超えた、料理人としての真の使命に燃えていた。