第26話 香りの刃と共犯者の誓い
夜が更け、魔王城の厨房には向田とミネルヴァの二人だけが残っていた。城全体が静まり返る中、ステンレスの調理器具だけが、向田の手の動きに合わせて微かに光を反射している。
「ボルグが用意する人間の王室料理は、『白銀のロースト』。完璧な火入れと、贅沢すぎるほどのバター。魔族の古代料理は、『黒き大地の恵み』。数千年の歴史を持つ発酵技術が生んだ、複雑な酸味と強烈な香り……」
ミネルヴァがレシピの羊皮紙を広げ、声を潜めて説明する。彼女の表情は、一晩徹夜した外交官特有の疲労と、迫り来る決戦への緊張で引き締まっていた。
向田は、そのレシピをじっと見つめ、ゆっくりと分析した。
「『白銀のロースト』は、贅沢すぎて、単調に感じられる危険性がある。それを際立たせるには……『飽食の香り』が必要です」
向田はそう言うと、乾燥させた芳香性のハーブと、焦がしたキャラメルの欠片を取り出した。
「バターと肉の香りが支配的な会場で、さらにこの濃厚で甘い香りを極限まで高める。参加者は、味覚が重すぎると感じ、満足感がすぐに嫌悪感へと変わる」
ミネルヴァは驚きに目を見張った。
「味覚を飽和させる、と? まるで、香りによる心理戦ですね」
「そして、『黒き大地の恵み』。これは発酵食品の頂点。しかし、人間にとっては強すぎる『酸味と臭気』です。これを際立たせるには……『不潔の錯覚』」
向田は、さらに恐ろしい材料を取り出した。それは、一見すると無害な乾燥させた苔と、わずかな硫黄の粉末だった。
「この苔を燻すと、発酵臭と混ざり合い、料理が『古びた臭い』を放っているという錯覚を引き起こす。そして、硫黄は舌に触れていないのに、『苦い、錆びた』という印象を脳に植え付ける」
ミネルヴァは息を飲んだ。彼女は向田の技術が、単なる料理の範疇を超え、心理学や化学の領域に踏み込んでいることを理解した。
「向田さん……あなたは、本当に料理人ですか? これは、毒の調合に近い」
向田は、静かに道具を磨きながら答えた。
「俺のナイフは、これまで人を幸福にするためにしか使ってきませんでした。今、その技術を分断のために使うのは、心が痛む。これは、俺にとって『悪行』です」
彼の声は低く、その瞳には迷いの色が宿っていた。
ミネルヴァは立ち上がり、彼の正面に立った。彼女は冷えた自分の手を、向田の温かい手に重ねた。
「違います、向田さん。あなたは平和のための悪役を選んだんです。外交官は、常に嘘と裏切りの中で、平和という目的だけを追いかけます。私も、故郷の人間を裏切って魔族の情報をあなたに流す時、同じ『悪行』の痛みを覚えました」
彼女は、自分の過去の傷を乗り越えようとするかのように、強く言った。
「私たちは、共犯者です。私は外交官としての嘘でボルグを欺く。あなたは料理人としての技術で味覚を欺く。この『悪行』の先に、誰も屈辱を感じない、真の和平がある。その責任は、私たちが一緒に背負いましょう」
ミネルヴァの人間味あふれる共感と、連帯の申し出が、向田の重い心を解き放った。彼は深く頷き、ナイフを握り直した。
その頃、商業国家の代表ボルグは、自室でワイングラスを手に、苛立ちを隠せずにいた。
「あの料理人めが……! なぜ、私の完璧な計画をことごとく邪魔する!」
ボルグは、壁にかけられた豪華なタペストリーを睨みつけた。彼は、この和平会議を失敗させ、戦争の続く混沌とした世界で、さらに富を築くことを確信していた。
執事の老人が、静かに部屋に入ってきた。
「ボルグ様、次の晩餐会で、王室料理と古代料理の準備は万端です。どちらも最高の腕の料理人に復元させました。今回は、向田が料理を出せない。これで間違いなく……」
「わかっている!」ボルグはグラスを強く握りしめた。「だが、あの料理人は、何をするかわからない。奴の目つきには、何か計算外の自信がある」
彼はワインを一気に飲み干すと、ふと、ある考えに思い至った。
「そうだ……。奴が『究極の味覚』で投票を混乱させようとするなら、その投票そのものを、私が操作すればいい」
ボルグは、執事を呼び寄せ、耳元で冷酷な計画を囁き始めた。
「投票用紙は、私が全て管理する。そして、最も和平に懐疑的な国々の票を、操作する。人間の料理を魔族に、魔族の料理を人間に、それぞれ『最高の味』として投票させる。これで、敗北した側は屈辱と怒りで、必ず会議を去る!」
執事は、その冷酷な計画に震え上がった。
「しかし、ボルグ様、それはあまりにも危険すぎます。もし露見すれば、外交問題では済まされません」
「露見しない! 私の商売の基本は、常に証拠を残さない裏工作だ。そして、全ての責任は、向田健太という『不必要な介入者』のせいにすればいい」
ボルグの顔には、再び傲慢な笑みが戻った。彼は、向田が仕掛ける『香りの罠』など、全く予想していなかった。彼の視線は、向田の料理ではなく、外交の仕組みそのものに向けられていたのだ。
料理と外交、二つの舞台で、それぞれの思惑が複雑に交錯し、晩餐会の夜は、刻一刻と近づいていた。