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第25話 外交官の賭けと料理人の直感

 翌朝、向田の厨房はいつも以上に静まり返っていた。彼は昨日使った調理器具を磨きながら、ミネルヴァを待っていた。


 やがて、カランカランと扉が開く。ミネルヴァは入ってくるなり、硬質なヒール音を響かせ、向田の前のテーブルに一枚の羊皮紙を叩きつけた。


「今朝のボルグの動きです。彼は和平会議の議長に対し、あなたの資格剥奪を要求しました」


 向田は手を拭きながら羊皮紙を見た。そこには、大仰な言い回しで「平和への不必要な感情的介入」と書かれていた。


「『不必要な感情的介入』ですか。料理で人を感動させることが、彼にとってそんなに都合が悪いんですね」向田は苦笑した。


「都合が悪いどころではありません。昨日の対決後、ユミールとサリムが共同で『氷砂ひょうさの交易路』の再開を提案しました。食文化を通じた理解が、具体的な経済協定へと進展したんです。ボルグの戦争利権が、根底から崩れ始めた」


 ミネルヴァは向田の向かいに座り、疲れたように額を押さえた。


「私は議長に抗議し、資格剥奪は回避しました。ですが、代償として次の晩餐会がボルグの提案通りに進行することを受け入れました」


「次の晩餐会?」


「ええ。テーマは『究極の味覚』。ボルグは、人間の王室料理と魔族の古代料理をそれぞれ用意させ、どちらが優れているか、全参加者の投票で決めると主張しています」


 向田は静かに目を閉じた。彼の脳裏には、ボルグの歪んだ笑みが浮かんでいた。


「それは、分かりやすい分断ですね。どちらが勝っても、負けた側は屈辱を感じ、和平ムードに水を差す」


「その通り。そして、あなたは第三の料理を出すことを禁じられました。『公正な比較』のためだと。完全に手が塞がれた状態です」ミネルヴァは茶を一口飲むと、ため息をついた。「私たちができるのは、せいぜい投票を無効にするための外交的努力か、あるいは……」


 彼女はそこで言葉を区切り、向田をまっすぐ見つめた。その眼差しは、覚悟を決めた外交官のものだった。


「あるいは、向田さん。あなたの料理で、投票の基準そのものを壊すしかありません」


 向田は静かに磨いていたナイフを置き、テーブルを隔ててミネルヴァに身を乗り出した。


「どういうことです? 俺は料理を出せない」


「料理は出せません。ですが、味覚は操作できます」ミネルヴァは声を潜めた。「私は、人間の王室料理の材料リスト、そして魔族の古代料理の復元レシピを手に入れました。どちらも完璧です。しかし、人間は魔族の料理を『薬臭い』と評し、魔族は人間の料理を『甘ったるい』と評する」


 彼女の計画は大胆で、危険なものだった。


「私たちは、ボルグが用意した二つの料理の欠点を、あえて際立たせる必要があります。しかし、それを料理として出すことはできません。向田さん、あなたの香りの技術で、会場の空気を変えられないでしょうか?」


 向田は驚きに目を見開いた。料理そのものではなく、空気、香り、雰囲気といった、目に見えない要素で味覚を操る。それは料理人の持つ技術の中でも、最も繊細で、最も危険な領域だ。


「香りで味覚を操る? それは……一歩間違えれば、会議を台無しにするだけでなく、俺自身の信用も失います」


「わかっています」ミネルヴァは手を伸ばし、向田の手の甲に触れた。その手のひらは冷たかった。「これは、外交官としての私のキャリアを賭けた賭けです。ですが、あなたは平和を賭けた料理人でしょう? あなたの直感と、私の情報、これを組み合わせるしかない」


 ミネルヴァの瞳には、かつての冷徹さはなく、今はただ、和平への強い願いと、向田への信頼が宿っていた。彼女の人間味あふれる「弱さ」と「賭け」が、向田の心を揺さぶった。


 向田は深く息を吸い込み、ミネルヴァの顔を見た。


「わかりました。香りで、誰も投票できない状況を作ります。でも、ミネルヴァさん。一つだけ約束してください」


「何を?」


「もし失敗しても、俺が全ての責任を負います。あなたは外交官として、和平会議の維持に努めてください」


 ミネルヴァは、向田のその言葉を聞くと、微かに目を細めた。そして、小さく、しかしはっきりと言った。


「その約束は受け入れられません。私は、あなたの共犯者です。失敗すれば、二人で責任を負いましょう。成功すれば、それは私たちの平和です」


 二人はそこで初めて、敵の策を打ち砕くための、固い共闘の意思を確認し合った。厨房の静けさが、これから始まる戦いの緊張を物語っていた。


「さあ、向田さん。敵の料理の弱点を、教えていただけますか? 私たちは、その弱点を、香りの刃で突き崩す」

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