第23話 砂漠の乾きとミネルヴァの苦悩
晩餐会が終わり、慌ただしい片付けが続く厨房の隅で、向田とミネルヴァは二人きりで話し合っていた。会場の喧騒は遠く、二人の間には、硬い豆を噛み砕くときのような、静かで緊張した空気が流れている。
「ボルグは動揺していました。ですが、証拠不十分です」ミネルヴァは顔を上げず、小さな声で言った。「物的証拠がない以上、彼はまだ『和平の敵』として公に引きずり出せない」
向田は熱いお茶を淹れ、ミネルヴァの前に置いた。
「ありがとうございます。……でも、ボルグが敵だとわかった以上、今日の成功は逆に彼を焦らせるだけですよね」
ミネルヴァは茶を一口飲み、小さく息を吐いた。
「ええ。次に仕掛けてくるのは、もっと個人的で、感情に訴えかけるものになるでしょう。彼は、あなたの料理を『ただの運』や『偶然』で終わらせるつもりはない」
向田は不安そうに顔を曇らせた。
「俺の料理が、本当に人を傷つける道具になるかもしれないんですね」
「道具ではありません。向田さん」ミネルヴァは茶碗を置き、向田の目を見た。「あなたの料理は、真実の鏡です。昨日のスープは、人間の強すぎる傲慢さを映した。今日の豆は、貧しくても共存できる知恵を映した。ボルグは、その鏡が、彼自身の醜い欲望を映すのを恐れているだけです」
ミネルヴァの言葉には、どこか痛みが含まれていた。
「ミネルヴァさん……」
「私だって、最初はあなたのことを軽蔑していた。料理で世界が変わるなんて、冗談だと。父と母を魔族に奪われた私にとって、彼らの作ったものを口にするなんて、裏切りだと思っていたから」彼女は自嘲気味に笑った。「でも、あなたの料理は、私の中に残っていた故郷の温かさと、魔族の料理が持つ新しい可能性を同時に感じさせた。それは、憎しみだけでは生きていけないという、私自身の真実だった」
彼女はそこで言葉を区切ると、真剣な顔つきに戻った。
「だからこそ、あなたはボルグのような人間に、この鏡を壊されてはいけない。彼は、過去の傷や文化の違いを、再び武器に変えてくるでしょう」
「分かりました。俺は料理で応えるしかない」向田は力強く頷いた。「次はどんな罠が来るか、教えてください」
ミネルヴァは、小さな地図を広げた。
「明日は、氷雪の国と砂漠の国の料理長同士の、名誉をかけた実演対決が予定されています。彼らは互いの文化を尊敬し始めたばかり。この一触即発の状況をボルグが利用しないはずがない」
向田は地図を指さした。
「対決のテーマは?」
「『水』の利用です」ミネルヴァは険しい顔で答えた。「砂漠の民は、水が枯渇する地で生きるため、水を神聖視し、料理に使うことを極端に嫌います。対して氷雪の民は、水が豊富にあるため、魚を活かすために水を最も重要な要素と考えます。このテーマ自体が、ボルグの仕掛けです」
「水か……」向田は目を閉じた。
「どちらが勝っても、どちらかの文化が否定される。そして、会議は決裂する。これが彼のシナリオです」ミネルヴァは唇を噛んだ。「あなたには、この対決を『勝敗のない、互いを認め合う場所』に変えてほしい」
向田は再び目を開け、静かに微笑んだ。
「ミネルヴァさん、あなたの真実の鏡には、まだ映っていないものがあります」
「何です?」
「砂漠の民の優しさと、氷雪の民の温かさです。彼らが互いを尊重し始めた今だからこそ、料理で引き出せるものがあるはずです」
向田は、調理台に向かい、小さなグラスに水を入れた。そして、そこに極少量の砂漠のスパイスを静かに溶かし始めた。
「水は、万物を繋ぎます。憎しみも、愛情も、そして文化も。明日は、水に託したメッセージで、ボルグの罠を打ち破ります」
向田の静かな自信に満ちた横顔を見て、ミネルヴァは知らず知らずのうちに、安堵の息を漏らしていた。彼女の冷徹な外交官の心に、向田という人間が持つ温かい希望が、小さな灯を灯し始めていたのだ。