第20話 香りの仕掛け
向田は、魔族の料理人が作ったスープの前に立った。湯気はすでに冷め、鍋の縁には乾いた香辛料の粉末が張り付いている。人間の料理人が加えた甘い野菜の切り身が、そのスープの失敗を嘲笑うかのように浮いていた。
「甘みで苦みを消すのではない。苦みと甘みが融合し、新たな味を生み出す。それが、真の『食の外交』ではないでしょうか?」
向田がそう宣言した瞬間、会場の空気は張り詰めた。人間の料理人は顔を赤くし、侮辱されたような表情で一歩後ずさる。
「融合だと? 口を開けば理想論ばかり。現実は、人間はこの魔族の毒のような味を拒否している!」
人間の料理人は声を荒げた。彼の言葉は、和平を望まない勢力の代弁のように響いた。
向田は挑発には乗らず、静かに答えた。
「拒否しているのは、あなたの心だけです」
そう言い放つと、向田は素早く調理台に向かった。手元にあるのは、魔族の伝統的な香辛料『血の樹の涙』と、人間界の極めて希少な柑橘類『黄金の雫』。
魔族の料理人が使った『血の樹の涙』は、その名の通り、樹液が固まった赤い結晶で、魔族の過酷な環境を生き抜くための滋養と強烈な苦みを持つ。人間がこれを受け付けないのは当然だ。しかし、向田はこの苦みの奥にある、かすかな土のような香ばしさを知っていた。
向田はまず、残ったスープを小さな鍋に移し、再度火にかけた。そして、そのスープが沸騰する直前、刻んでいた柑橘類『黄金の雫』を少量、慎重に加えた。
ジュッ……!
熱いスープに触れた柑橘類から、弾けるような酸味と甘い香りが一気に立ち昇った。その香りは、一瞬にして魔族の香辛料の重い苦みを打ち消し、透明な膜を張るように会場全体に広がっていく。
目を閉じていたミネルヴァが、はっと目を開けた。彼女の鼻腔をくすぐったのは、故郷の庭園で嗅いだ、朝露に濡れたレモンの香りだった。その下には、どこか異国の土のような、懐かしい香りが控えめに混ざり合っている。
「これは……!」
人間の料理人たちも驚きを隠せない。彼らが知る魔族の料理の、あの重く、陰鬱な香りはどこにもない。そこにあるのは、爽快感と未知の魅力だ。
向田は、火を止めると、静かにスープを皿に盛り付け、ミネルヴァに差し出した。
「お召し上がりください、ミネルヴァさん。これは、あなたの故郷の香りを持つ、魔族の魂のスープです」
ミネルヴァは震える手でスプーンを握り、恐る恐る口に運んだ。
鼻から抜けるのは、故郷の懐かしい香り。舌に広がるのは、魔族の香辛料の深いコクと、それを優しく包み込む柑橘の酸味。苦みは完全に消えていない。しかし、その苦みはもはや拒絶の対象ではなく、スープ全体の深みを増す個性として昇華されていた。
「美味しい……。こんなにも、優しくなれるなんて……」
ミネルヴァの目から、再び涙が溢れそうになるのを、彼女はぐっと堪えた。それは、彼女の中にまだ残る魔族への憎しみが、この一皿によって「理解」という感情に書き換えられそうになっている、その葛藤の涙だった。
その時、会場の一番隅で、静かにスープをすすっていた商業国家の代表が、椅子を蹴る音を立てて立ち上がった。彼の顔は、成功を確信していた人間の料理人よりも、さらに青ざめていた。
向田の「融合の料理」は、彼らが仕掛けた「文化の断絶」という名の最初の妨害を、完全に打ち破ってしまったのだ。
「向田健太……貴様!」
彼は憎しみを込めた眼差しで向田を睨みつける。その目には、和平の成功によって失われる莫大な利益への未練と、計算外の料理人の登場に対する恐怖が混ざり合っていた。
向田は、彼から視線を逸らさなかった。ナイフを置いた彼の両手は、今、武器ではなく、未来を創るための道具であることを、その料理とともに、静かに示していた。
「和平は、すでに始まっています。この一皿から」
向田はそう宣言し、その場の空気を完全に掌握した。しかし、彼の心は知っていた。この一皿によって、彼は本格的な敵意を引き受けてしまったのだ、と。