第2話 鬼料理長のツンデレ指南
「お、おかわり…ですと?」
俺、向田健太と、鬼料理長ボルカンは、揃って固まっていた。目の前の美貌の魔王ゼノ様が、空になったスープ皿を静かに差し出している。その紫色の瞳は、確かに俺を、いや、俺が持ってきた空の寸胴鍋をじっと見つめている。
「聞こえなかったのか。耳まで人間サイズか?おかわりだ」
「は、はひぃっ!ただいまお持ちします!」
条件反射で裏返った声を上げ、俺は空の寸胴をひっつかんで脱兎のごとく厨房へと駆け戻った。背後でボルカンが「ば、馬鹿な…あの白湯のような汁で…魔王様が…ぐ、ぐぬぬ…」と、聞いたこともないようなうめき声を上げているのが聞こえたが、今は気にしていられない。
厨房に飛び込むと、遠巻きに様子をうかがっていた魔族の料理人たちが、蜘蛛の子を散らすようにサッと道を開けた。彼らの顔には「恐怖」と「畏怖」、そしてほんの少しの「尊敬」が混じり合っている。どうやら俺は、知らぬ間に「ただの人間」から「白湯で魔王を黙らせた謎の魔術師」くらいにはランクアップしていたらしい。
「お、おかわりだ!おかわりを頼む!」
「「「は、はいぃぃぃっ!!」」」
俺の叫びに、屈強な魔族たちがビシッと背筋を伸ばして鍋を温め直す。その光景はあまりにもシュールで、俺は「(俺、いつからここの副料理長になったんだっけ…?)」と、現実逃避しかけた。
◇
あの一件以来、魔王城における俺の立場は劇的に、そして微妙に変化した。
まず、魔王ゼノ様の三度の食事は、すべて俺が担当することになった。これは名誉なことなのだが、同時にとんでもないプレッシャーだ。
「向田」
「はい、ゼノ様!本日は、衣をつけずにバターと塩コショウだけで焼き上げた白身魚のムニエルです!付け合わせの芋は、刺激が少ないように三度茹でこぼしております!」
「…悪くない」
もぐもぐと、リスのように小さな口で魚を咀嚼するゼノ様。その表情は相変わらず能面のようだが、皿が空になる速度は日ごとに上がっていた。目の下の深い隈が、心なしか薄くなってきた気もする。
「向田」
「はい!本日は鶏肉のコンフィです!香草類は一切使わず、低温の油でじっくり、じーっくり火を通しましたので、お肉がほろっほろです!」
「…これも、食べられる」
そんな日々が続くうち、俺は気づいた。ゼノ様は、食事の時間になると、ほんの少しだけそわそわし始めるのだ。玉座で組んだ足をしきりに組み替えたり、意味もなく窓の外を眺めたり。それは、腹を空かせた子供が「晩ごはん、まだかな」と待っている仕草にそっくりだった。
(可愛いとこ、あるじゃないか…!)
この発見は、俺の料理人魂にメラメラと火をつけた。
ただ食べさせるだけじゃない。この人を、俺の料理で絶対に健康にしてみせる。そしていつか、「食事って楽しいな」って、心から笑わせてみたい。母の薬膳ノートを片手に、俺は夜な夜な厨房で試作を繰り返した。
もちろん、そんな俺を面白くないと感じている人物が、すぐそこにいた。
「ふん!人間の作る料理は、やはりひ弱でいかんな!」
腕を組み、仁王立ちで俺の仕事を見下ろすボルカン。おかわり事件の衝撃から立ち直った彼は、再び俺へのチクチクとした口撃を再開していた。
「魔王様はな、この魔界を統べるお方だ!もっとこう、力がみなぎるようなものを食していただかねば、威厳に関わる!貴様の料理は、力が足りん!」
「力、ですか…」
「そうだ!例えば、あの『地獄谷の溶岩トカゲ』の丸焼きなど、考えただけでも力が湧いてこよう!」
彼はそう言って、壁にかかった巨大なトカゲ(まだピクピク動いている)を指さした。
「(いや、考えただけで胸焼けがするんですが…)ボルカンさんの料理哲学、勉強になります」
「うむ!わかればよろしい!」
得意げに頷くボルカンだが、俺が本気で困っていると、なぜか助け舟を出してくるから不思議だ。
「うーん、この『涙ダケ』ってキノコ、どうやってアク抜きするんだ…?煮ても焼いても苦味が消えない…」
俺が一人、調理台で唸っていると、背後からボソリとした声が聞こえた。
「…チッ、愚か者が。涙ダケはな、アクを抜くのではない。アクをもって、さらに強いアクを制するのだ。隣にある『憤怒イモ』のすりおろし汁に三日三晩漬けてみろ」
「え?」
振り返ると、ボルカンはそっぽを向きながら「俺は何も言っておらん!独り言だ!」と、巨大な体で厨房の柱の陰に隠れようとしている。隠れられていない、全然隠れられていない。
「(なんだかんだで、めちゃくちゃ教えてくれるじゃないか、この鬼料理長…!)」
彼のぶっきらぼうな優しさ(?)のおかげもあり、俺の料理レパートリーは増え、ゼノ様の食卓は日に日に豊かになっていった。
ある日の夕食後。
健啖とは言えないまでも、出された料理をすべて平らげたゼノ様が、満足げに息をついた。その頬に、ほんのりと赤みが差している。
それを見た瞬間、俺の胸に温かいものがこみ上げてきた。
この城に来てからの苦労や、日本への郷愁も、すべてが報われるような気持ちだった。
(母さん、見てるか?俺、ちゃんとやれてるよ)
心の中で、天国の母に語りかける。
(俺、この人の専属料理人として、最後までやり遂げるよ。ただお腹を満たすだけじゃない。食事って、こんなに楽しくて、幸せなものなんだって、絶対に教えてあげるんだ)
固く、強く、俺は心に誓った。それが、この異世界で俺が見つけた、新しい夢の始まりだった。
その頃。
人間たちの住む世界では、黒く枯れた大地がどこまでも広がり、痩せこけた民の苦しそうな咳だけが響いていた。
王城の薄暗い一室で、一人の将軍が、玉座に座る王に深く頭を下げていた。
「陛下…もはや、一刻の猶予もございません。民を、この国を救うには…残された道は、かの地への侵攻のみにございます」
その声は、絶望と、そして悲壮な覚悟に満ちていた。
魔王城でささやかな希望の灯がともり始めたことなど、まだ誰も知る由もなかった。