第19話 はじめての敵
衝撃的な一皿から一夜が明けた。
向田は、朝靄のかかる魔王城の庭園で、ゆっくりと歩を進めていた。昨夜の成功の余韻はまだ残っている。ミネルヴァの涙と、要人たちの驚きに満ちた表情が、まぶたの裏に焼き付いていた。だが、それはあくまで始まりに過ぎない。
庭園の奥、人払いされた小道で、向田は一人の人物を待っていた。
「おはようございます、ミネルヴァさん」
声をかけると、彼女は振り返った。第一話の時とは違い、彼女の表情は柔和だった。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ鋭い光が宿っている。
「おはようございます、向田さん。昨夜は、正直驚きました。まさか、あの冷徹な将軍が、あなたの一皿で涙を流すとは……」
ミネルヴァはそう言って、かすかに笑った。
「あれはただ、皆さんの故郷を思った料理を作っただけです」
向田が謙遜すると、ミネルヴァは首を横に振った。
「いいえ。あなたは、料理を通して私たちに、彼ら魔族が私たちと同じように、故郷を愛し、家族を思う存在であることを教えてくれました。それは、何十年にもわたる外交官の努力でも成し得なかったことです」
彼女の真剣な言葉に、向田は胸が熱くなった。
「しかし、だからこそ、あなたは狙われます」
ミネルヴァはそう言うと、周囲に誰もいないことを確認してから、声をひそめた。
「昨夜の成功は、和平を望まない勢力にとって、大きな誤算でした。彼らは、あなたの料理を潰しにかかるでしょう。和平を阻止するために……」
「……どうすればいいんですか?」
向田は思わず問いかけた。ミネルヴァは、彼の真摯な問いかけに、真っ直ぐに応える。
「警戒を怠らないこと。特に、今日の第二幕に……」
その日の昼。和平会議の第二幕は、「食の技術交流」と銘打たれた、料理の実演だった。
向田は、各国から集められた料理人たちの前に立っていた。彼らの眼差しは、好奇心に満ちたものから、露骨な敵意を向けるものまで様々だった。
「本日は、魔族の料理人から、魔族の伝統的な香辛料を使った、簡単なスープの実演を行います」
向田がそう告げると、魔族の料理人が巨大な鍋の前に立った。彼は、向田から教わった手順で、丁寧に野菜を切り、香辛料を加えていく。
「なんだ、ただのスープじゃないか」
「そんなものに、どんな意味があるんだ」
人間側の料理人たちから、嘲笑が漏れる。しかし、彼らは知らなかった。その香辛料が、人間界の者にはあまりにも強すぎることを。
スープが完成し、人間側の要人たちに運ばれた。彼らは恐る恐るスプーンを口に運ぶ。その瞬間、彼らの顔が歪んだ。
「まずい!」「なんだこの味は!」「舌がしびれるようだ……」
会場は、一気に不満と失望の空気に包まれた。魔族の料理人は、人間たちの反応に傷つき、唇を噛みしめる。
向田は、魔族の料理人の気持ちを思うと、胸が締め付けられるようだった。彼は、人間と魔族の間に横たわる、見えない壁をまざまざと見せつけられた気がした。
「失礼します」
そこに、一人の料理人が進み出た。人間の料理人だ。彼は、自信に満ちた表情で向田に近づく。
「向田殿。あなたの料理は素晴らしい。しかし、魔族の料理は、所詮この程度のもの。このままでは、和平など夢物語に終わるでしょう。そこで、私がお手伝いしましょう」
彼はそう言うと、巧みにナイフを操り、魔族の料理人が作ったスープに、新たな食材を加えていった。
その食材は、人間界で栽培された、甘みが特徴の野菜だった。彼の目的は明らかだった。魔族の香辛料の風味を甘みで打ち消し、人間にとって受け入れやすい味に変えること。
「これで、人間も魔族の料理を口にできるでしょう」
彼はそう言って、勝利を確信したような笑みを浮かべた。彼の狙いは、向田の「食の外交」を、自らの力と知識で上書きし、自身の存在をアピールすることだった。
ミネルヴァが、鋭い視線でその料理人を見つめる。
向田は、その料理人をじっと見つめ、静かに、しかしはっきりと告げた。
「それは、料理ではありません」
向田の言葉に、会場にいる誰もが息をのんだ。
「それは、ただの妥協です。私たちは、互いの文化を否定し、消し去るために、ここに集まったのではありません。互いの文化を尊重し、理解するために、ここに集まったはずです」
向田は、魔族の料理人が作ったスープを、再び口に運んだ。その瞬間、向田の口の中に、辛みと苦み、そして、その奥に隠された、香ばしい風味が広がった。
「この香辛料は、このスープは、魔族の歴史そのものです。彼らが、どんな過酷な環境で生き抜き、どんな味覚を育んできたのか。その全てが、この一皿に詰まっている」
向田は、そう言って、涙を浮かべた魔族の料理人を見つめた。
「彼が作ってくれたこのスープは、確かに人間にとって強すぎるかもしれません。ですが、私たちは、これを『まずい』と切り捨てるのではなく、どうすれば美味しく、そして共に分かち合えるかを考えるべきではないでしょうか?」
向田は、そう言って、先ほど人間側の料理人が加えた、甘い野菜を手に取った。
「甘みで苦みを消すのではなく、苦みと甘みが融合し、新たな味を生み出す。それが、真の『食の外交』ではないでしょうか?」
向田は、そう言って、再度ナイフを握りしめた。彼の瞳には、迷いはもうなかった。それは、料理人としての信念、そして、この世界の平和を心から願う、一人の人間としての決意だった。