第18話 はじまりの一皿
カランカラン――。
魔王城の奥に設けられた、向田健太の私的な厨房の扉が開き、来客を告げた。
「ケンタ、いるか?」
響くのは、少しだけ低くなった、しかし紛れもない魔王の声だった。向田は手元でタマネギを刻む手を止め、振り返る。そこに立っていたのは、見慣れた男の姿だった。
黒曜石のようなツノ、鋭い眼光、そして威厳に満ちた佇まい。しかし、以前のような殺伐とした雰囲気はすでになく、代わりに、どこか落ち着きと穏やかさが加わっていた。あの壮絶な戦争を終わらせ、彼が王位についてから、もう二年が経つ。
「魔王様、こんなところまでいらっしゃっていいんですか? もうすぐ会議の時間ですよね」
向田がそう問いかけると、魔王はふっと口元を緩めた。その表情は、以前の彼には決して見られなかったものだ。
「ああ、だがその前に、お前に頼みたいことがあってな」
魔王はそう言って、向田の前に一枚の羊皮紙を広げた。そこには、複雑な紋様や、各国の象徴が描かれている。
「これは……和平会議の招待状ですか?」
「そうだ。人間界の代表、そして我々魔族の代表が一堂に会する。そこで、お前に『食の使者』として、各国の料理人たちを束ね、料理を振る舞ってほしいのだ」
向田はタマネギを刻むナイフを握りしめたまま、言葉を失った。あの戦争を終わらせたのは、確かに彼の料理だった。偏食だった魔王の心を解き放ち、彼を更生させた結果が、世界の平和につながったのだ。しかし、それはあくまで個人的な問題の解決だった。食卓を囲んだのは、向田と魔王、そして数人の側近だけだった。だが、今度の舞台は違う。各国の代表、そして政治や権力、思惑が渦巻く、壮大な国際舞台だ。
「俺に、そんな大役が務まりますか……?」
向田は弱々しくつぶやいた。魔王はそんな彼をじっと見つめ、力強く答える。
「お前は、この世界で最も公平な料理人だ。お前の料理は、腹を満たすだけではない。心を通わせ、憎しみを溶かす。お前の料理に偏見はない。だからこそ、この和平を任せられるのはお前しかいないのだ」
その言葉は、向田の心にじんわりと温かい光を灯した。
「それに、お前の料理を、今度は世界中に知らしめてやろうではないか」
魔王はそう言って、悪戯っぽく笑った。
翌日。
向田は和平会議の会場となる壮麗な宮殿に足を踏み入れた。そこには、すでに多くの人々が集まっていた。人間の外交官、魔族の料理人、そして様々な国の要人たち。向田は、その圧倒的な雰囲気に息をのんだ。
と、そこに一人の女性が近づいてきた。
整った顔立ち、キリッとした眼差し、そして何よりも、その口元から漏れるため息が、彼女の苛立ちを物語っていた。
「あなたが、噂の『料理で戦争を終わらせた』という、お坊ちゃま?」
彼女の言葉には、あからさまな軽蔑と嘲笑が含まれていた。
「私はミネルヴァ。人間界から派遣された外交官です。はっきり言って、今回の茶番にはうんざりしています。料理で世界が変わる? そんな幼稚な発想、笑わせないでください」
向田は何も言えずに立ち尽くした。彼女の言葉は、彼の心に重くのしかかった。確かに、彼女の言う通りかもしれない。料理は、所詮、腹を満たすためのもの。そんなもので、長きにわたる不信や憎しみを消せるはずがない。
「和平会議の第一幕は、魔族による歓迎の宴だそうです。魔王様は、あなたに特別に料理を任せたそうですが……」
ミネルヴァはそこまで言うと、再びため息をつき、厳しい表情で続けた。
「……私の祖国は、数年前まで魔族と激しい戦闘状態にありました。多くの仲間を失い、私の両親も……。彼らが作った料理など、絶対に口にできません。私と同じように、そう考える人間は山ほどいるはずです」
彼女の言葉は、向田の胸に鋭く突き刺さった。それは、彼が最も恐れていた現実だった。料理は人を繋ぐ。だが、同時に、深い傷を負った人にとっては、受け入れがたいものにもなりうる。
「今日の献立は?」
ミネルヴァの問いに、向田は用意していた献立表を差し出した。
「魔族の特産品、スライムのゼリーと……」
「……馬鹿げている」
ミネルヴァはそう吐き捨てると、踵を返して去っていった。
向田はひとり、厨房に残された。タマネギを刻むナイフが、重い鉛のように感じられた。手が震える。
『お前の料理に偏見はない』
魔王の言葉が頭の中でこだまする。本当に、そうだろうか。人間が魔族の料理を拒否するなら、彼らの故郷の料理を出せばいい。だが、それは、魔族の料理を否定することになる。それこそ、偏見だ。
どうすればいい。
向田は、深呼吸を一つすると、目の前のタマネギに意識を集中させた。これは、彼の故郷の食材だ。故郷の、家族の、温かい味だ。彼は、このタマネギに、彼がこれまで歩んできた全ての道を込めるように、丁寧に刻み始めた。
そして、その日の夕食会。
人間と魔族の代表が向かい合う形で席に着いた。互いに視線を合わせることもなく、重苦しい空気が場を支配している。
そこに、向田が第一皿を運び込んだ。
「向田です。本日は、人間界と魔族の食文化を融合させた料理をご用意いたしました」
向田の言葉に、両陣営の代表たちが怪訝な顔をする。しかし、テーブルに置かれた皿を見て、皆が目を見開いた。
皿の上には、色鮮やかな料理が盛られている。それは、人間界の野菜と、魔族の特産品が、絶妙なバランスで融合した、見たことのない一皿だった。
しかし、ミネルヴァは頑なにスプーンを手に取ろうとしなかった。
「……やはり、私には」
だが、その時、魔王が静かに向田の料理を口に運んだ。そして、満足そうに頷く。その姿を見て、他の魔族たちも次々と料理を口にした。
「これは……美味しい!」
「こんな料理は食べたことがない!」
彼らの率直な感想に、人間側の要人たちは複雑な表情を浮かべる。だが、好奇心には勝てない。誰からともなく、料理に手を伸ばす者が現れ始めた。
スプーンを口に運んだ瞬間、彼らの表情は一変した。最初は警戒していた者たちも、その味に驚き、そして、和らいでいく。
だが、ミネルヴァはまだ頑なだった。
「ミネルヴァ、食べろ」
魔王は静かに言った。その声には、命令ではなく、諭すような響きがあった。
ミネルヴァは、複雑な思いを抱えたまま、ゆっくりとスプーンを手に取る。そして、震える手で料理を一口、口に運んだ。
その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、料理のあまりの美味しさに、ではなく。故郷の味が、魔族の料理と一つになって、彼女の心に響いたからだった。
向田の料理は、単に美味しいだけではなかった。それは、彼女の故郷の食文化を尊重し、そして、魔族の食文化を祝福するものだった。それは、彼女の心に深く刺さっていた、憎しみのトゲを抜く一皿だった。
ミネルヴァは、涙を流しながら、向田を見つめた。その目には、もはや軽蔑の念はなかった。ただ、深い感動と、感謝の念だけがあった。
「ありがとう……」
彼女がそうつぶやいた時、会場の空気は、これまでとは比べ物にならないほど、温かいものに変わっていた。
向田は、ミネルヴァの涙を見て、ようやく安堵の息を漏らした。
たった一皿。たった一皿の料理が、凍てついた心を溶かし、人々の間に、小さな、しかし確かな繋がりを築き上げたのだ。
和平への道のりは、まだ始まったばかりだ。しかし、向田は確信していた。この一皿が、これから続く長い旅の、確かな一歩となることを。