第17話 巫女は祈りの意味を問う
夜の帳が下りた「ため息の塩湖」は、昼間の輝きが嘘のように、静かで厳かな空気に満ちていました。
焚き火の周りでは、健太が作った夕食のシチューを囲み、にぎやかな声が上がっています。
「うむ、美味い!今日の塩は、一味違うな、健太殿!」
「それは、さっき手に入れた『虹色の岩塩』を少しだけ削って使ったからです。ガルバス将軍、おかわりもありますよ」
「おお、本当か!」
「将軍、少しは落ち着きなさい。王としての品位が…」
「ゼノ様こそ、口の周りにシチューがついております」
「なっ…アラン、なぜそれを早く言わん!」
魔王も、人間王も、最強の将軍も、今はただ、一杯の温かい食事に心を和ませる、ただの男たちです。
私は、少し離れた岩の上に座り、その光景を静かに見つめていました。
(…信じられない)
今日の出来事が、頭の中で何度も再生されます。
健太は、ゴーレムを前にして、生地をこねるような真似はしませんでした。彼は、湖の水を汲み、そこに塩の結晶を溶かし、飽和状態の液体を作り出した。そして、果実をそこに浸し、瞬時に美しい塩の結晶をまとわせたのです。
あの『塩結晶の果実飴』なる奇妙な菓子を、ゴーレムは口にし、満足げに輝き、そして、試練の証を差し出した。古文書のどこをめくっても、そんな解決法は載っていません。あれは、冒涜のはずでした。神聖な守り人を、子供のようにお菓子で手懐けるなど…。
なのに、守り人は怒らなかった。むしろ、喜んでいるようにさえ見えました。
健太のやり方は、私の百年、いえ、私の民が数千年かけて受け継いできた「祈り」や「儀式」の意味を、根底から揺るがしていました。
(カイ…あなたなら、この光景を、どう分析しますか?)
脳裏に、もう一人の異世界人の姿が浮かびます。
私が、最後の望みを賭けて召喚した、天才料理人カイ。
彼の銀髪は月光のように冷たく、その瞳は、この世界の全てを解析すべきデータとしてしか見ていませんでした。
彼を、女神様が眠る「神聖な泉」へ案内した時のことを、私は決して忘れないでしょう。
私は、古の作法に従い、泉の水を汲み、祈りを捧げました。「この聖水が、あなたの料理に女神様のお力を与えてくださいますように」と。
しかし、カイは、その聖水を携帯用の分析器にかけると、無慈悲に言い放ったのです。
「不純物が多すぎる。硬度も高い。この水を使えば、食材の繊細な風味は全てマスキングされてしまうだろう。料理に使う水は、極限まで不純物を取り除いた『純水』であるべきだ。祈りなどという、非論理的な行為で水質が変化したというエビデンスはない」
彼は、私の祈りを、伝統を、信仰そのものを、「非論理的」の一言で切り捨てました。
そして、彼は去った。この世界の混沌とした食材と、私の頑なな信仰に、匙を投げて。
あの時の絶望感。世界でたった一人、女神様の消えゆく命の灯火のそばで、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった、あの無力感。
だから、私は魔王城へ向かったのです。
プライドも、伝統も、全てかなぐり捨てて。かつて、自然を顧みないと軽蔑していた魔族と人間に、頭を下げに行った。
健太、あなたに「二番手だ」と言い放ったのは、八つ当たりだったのかもしれません。私の最初の計画が、完璧に失敗したことへの、みっともない苛立ちの表れだったのでしょう。
カイは、鋭く、完璧で、一点の曇りもない、研ぎ澄まされた刃物でした。
ですが、その刃は、硬いものに当たれば、自らも砕け散ってしまうのかもしれない。
対して、健太は…なんと評すればいいのでしょう。
彼は、決して万能ではありません。時々、慌てふためき、情けない顔もする。彼の作る料理は、カイの言う通り、科学的には非効率で、場当たり的なのかもしれない。
なのに、なぜでしょう。
あのゴーレムは、健太の作った不格好な菓子を受け入れた。
そして、焚き火を囲む、あのどうしようもなく騒がしい男たちの顔は、私がこの数百年で見たこともないほど、幸せそうに見えるのです。
「リラ様」
呼ばれて、顔を上げると、健太がシチューの入った椀を手に、そこに立っていました。
「何も召し上がっていないでしょう?どうぞ。冷える前に」
差し出された椀からは、温かい湯気と共に、今日の試練の結晶である、虹色の岩塩のかすかな香りがします。
私は、無言でそれを受け取りました。
一口、すする。
温かい。
そして…カイが切り捨てた、様々な食材の「不純物」が、複雑に絡み合い、深く、そして優しい「味わい」を生み出していました。
完璧な「答え」など、この世界にはないのかもしれない。
だとしたら、私が信じるべきは、古文書に記された「正しい儀式」ではなく、目の前で起きている、この温かい「事実」の方なのでしょうか。
私の信仰が、今、激しく揺らいでいます。
この騒々しい一行との旅の先に、どんな結末が待っているのか。それは、女神様でさえ、まだご存じないのかもしれません。