第16話 天才は論理の夢を見る
その瞬間、俺、カイの世界はノイズに満ちた。
寸分違わぬ温度で管理された俺のキッチン。真空調理器の静かな駆動音、遠心分離機の微かなモーター音、完璧な調和が、突如として未知の素粒子とマナとかいう非科学的なエネルギーの奔流に引き裂かれた。
気づけば、俺は土と草の匂いがする、薄暗い石室に立っていた。
目の前には、緑の髪を持つ女。彼女は自らをリラと名乗り、女神の巫女だと語った。
「あなたを、異世界より召喚いたしました。天才料理人、カイ」
「召喚、ね。興味深い物理現象だ。で、要件は?」
俺は恐怖も驚きも感じなかった。ただ、この非日常的な事象を、冷静に分析すべきデータとして捉えていた。
リラが語った要件は、あまりに馬鹿げていた。
「大地の女神様が、お食事に飽きて、ヘソを曲げられた。ついては、あなたの料理で、女神様のご機嫌をとってほしい」
クライアント:神格存在一体(推定、精神年齢は低い)。
与件:長期間のマンネリにより、食への興味を喪失。
目的:斬新かつ美味な料理を提供し、「満足」という精神状態へ誘導すること。
…なるほど。前代未聞の、最高にやりがいのあるコンサル案件じゃないか。
俺は、この世界の食材を分析するため、自前のポータブル分析キットを取り出した。スペクトロメーター、糖度計、分子構造スキャナー。これらは俺の、もう一つの「調理器具」だ。
「リラ。まずは、現状使用されている『供物』と、これから使用を検討する『食材』のリスト、および、それらの成分データの提出を要求する」
「せ、せいぶん…?」
「組成、テクスチャ、アミノ酸含有量、糖度、酸度、その他、味覚を構成する全ての要素のデータだ。それなくして、論理的なレシピの構築は不可能だ」
リラは、困惑した顔で俺を「神聖な泉」や「古代樹の森」へと案内した。
そこに生えていたのは、食材と呼ぶには、あまりに混沌とした代物だった。
「これが、女神様が好まれる『月光茸』です。月の光を浴びることで、そのお味が…」
「待て」
俺は、月光茸を一片採取し、スキャナーにかける。表示されたデータに、俺は眉をひそめた。
「話にならない。個体によって、糖度も水分含有量も誤差が大きすぎる。第一、この発光現象は、酵素とルシフェリンの単純な化学反応に過ぎん。神聖さなどという、非論理的な要素が味に影響を与えるエビデンスはない」
俺は、リラに調理法の改善を提案した。
「このキノコは、まず52.5℃の低温で8時間、真空調理し、細胞壁を破壊せずに旨味成分を均一化。その後、液体窒素で急速冷凍し、粉末状に加工。それを再構成して、完璧な球体状のムースに仕上げるべきだ」
「き、液体窒素!?神聖な食材を、そのような機械にかけるなど、冒涜です!月光茸は、月の光の下で、清らかな湧き水で洗い、祈りを捧げながら手で裂くのが古来からの…」
「祈り?祈りが、グルタミン酸の数値を上げるとでも言うのか?君のやり方は、非科学的で、汚染のリスクを増大させるだけの、ただの感傷だ」
この問答が、数日続いた。
俺が「理論」を説けば、リラは「伝統」と「儀式」を語る。俺が「データ」を示せば、彼女は「食材の心」などという、計測不可能なものを口にする。
そして、俺は結論に達した。
このプロジェクトは、失敗する。
目的は明確なのに、使用できる素材は欠陥品だらけ。そして何より、プロジェクトマネージャー(リラ)が、成功のための論理的なプロセスを理解しようとしない。これでは、完璧な一皿など、到底創り出せない。
俺は、簡潔に事実だけを記した置き手紙を残し、彼女の元を去った。
『論理的結実の可能性、皆無。よって、任務を棄却する』
これは、裏切りではない。無駄な努力を避けるための、合理的な判断だ。
だが、この世界そのものには、興味が湧いた。
この混沌とした食材たちは、俺のデータベースを拡充するための、最高の研究対象だ。俺は、この世界の全ての食材を解析し、その法則性を解き明かし、完璧な「異世界ガストロノミー大系」を完成させるという、新しい目的に切り替えた。
そんな折、例の巫女が、新たな料理人を担ぎ出したという噂を耳にした。
向田健太。俺と同じ、異世界人。
興味が湧いた俺は、「ため息の塩湖」へと足を運んだ。新たなデータポイントの、実地観察のためだ。
そこで俺が見たのは、あまりに稚拙で、原始的な光景だった。
科学的根拠のない、ただの思いつき。食材への敬意という名の、非効率な感傷。
(果実を、塩水でコーティングしただけ…?なんと、野蛮な…)
だが、ゴーレムは、その「野蛮な菓子」に、確かに反応した。
なぜだ?糖分と塩分による、単純な味覚への刺激が、古代の守護者のプログラムに、予期せぬバグを引き起こしたとでもいうのか?
…興味深い。実に興味深い、エラーケースだ。
俺は、思わず拍手を送っていた。
そして、彼に告げたのだ。君のやり方は、まぐれ当たりに過ぎないと。
「コミュニケーション、か…」
去り際に、彼が叫んだ言葉を、俺は反芻する。
馬鹿馬鹿しい。料理とは、至高の問いに対する、唯一無二の完璧な答え(パーフェクト・アンサー)を提示する、科学であり、芸術だ。そこに、曖昧な感情が入り込む余地などない。
「二番手くん」
俺は、そう彼を呼んだ。
それは、煽りではない。俺からすれば、ただの事実だ。
天才(俺)が匙を投げた案件を、後から来た凡人(彼)が、感傷でどうにかしようとしている。その滑稽な実験の経過を、もう少しだけ、観察させてもらおうじゃないか。
彼の「心」とやらが、この世界の、より複雑な法則の前で、どう打ち砕かれるのか。
そのデータが取れるのなら、この旅も、あながち無駄ではないだろう。