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第12話 伝説になったシチュー

 紅錆の平原に、奇妙な静寂が満ちていた。

 憎しみも、戦意も、今はもうない。あるのは、膝をついて号泣する一人の将軍と、その悲痛な告白によって暴かれた、残酷すぎる世界の真実だけだった。


 敵だと思っていた人間たちは、侵略者ではなかった。

 彼らは、疫病と飢餓という、抗いようのない絶望に打ちのめされ、最後の助けを乞いに来た、ただの病人だったのだ。


 この異常事態に、最初に動いたのは、魔王ゼノ様だった。

 彼は静かに玉座から立ち上がると、ゆっくりと俺たちの前まで歩み出た。その瞳には、もはや敵意はなく、君主としての、深い慈悲と決意が宿っていた。


「将軍アランよ、顔を上げよ」

 ゼノ様の凛とした声が、平原に響く。

「そなたたちの敵は、我ら魔王軍ではない。そして、我らの敵もまた、そなたたち人間ではなかった。我らが真に戦うべき相手は、そなたたちの国を、いや、この世界を覆う『絶望』そのものである」


 ゼノ様は、高らかに宣言した。

「全軍に命ずる!これより我ら魔王軍は、『食料支援部隊』と名を改める!武器を置き、調理器具を取れ!我々は、人間界を侵略するのではない!救いに行くのだ!」


 その言葉は、常識を、種族の壁を、歴史さえも覆す、あまりにも衝撃的な決断だった。

 ガルバス将軍をはじめ、兵士たちは一瞬呆気に取られたが、やがて、その顔に闘争心とは違う、新たな使命の炎が宿るのを、俺は見た。


「健太」

 ゼノ様に呼ばれ、俺は顔を上げた。

「そなたの料理で、彼らを救えるか」

「…はい、やってみます!いえ、やってみせます!」


 俺は、母が遺した薬膳ノートを、まるで聖書のように胸に抱きしめた。

 だが、疫病に効く料理を開発しようにも、情報が少なすぎる。人間界の薬草学だけでは、この未知の病には太刀打ちできないかもしれない。俺が一人、厨房で頭を抱えていると、ぬっと巨大な影が差した。


「小僧。人間の知恵だけでは限界があろう」


 ボルカンだった。

 彼は、分厚く、年季の入った一冊の古書を、ドン!と俺の前の調理台に置いた。

「これは、我が料理長一族に代々伝わる秘伝の書、『魔族薬草学大典』だ。腐敗を浄化し、生命力を活性化させる魔界の薬草の全てが記されている」


 ボルカンは、俺の薬膳ノートと、彼の大典を並べて置き、ぶっきらぼうに言った。

「…使え。これも、魔王様を、いや…腹を空かせた者を救うための、料理長の務めだ」


 俺とボルカン。人間と魔族。二人の料理人の知識が、初めて一つになった瞬間だった。

 俺たちは、昼も夜もなく厨房にこもり、試作を繰り返した。俺が母のノートから薬膳の理論を説き、ボルカンが魔族の薬草学で、より強力で、的確な素材を提案する。


 そして、ついに俺たちは、一縷の希望を完成させた。

 生命力を活性化させる「竜の涙」というキノコをベースに、数十種類の薬草と、滋養に満ちた野菜を煮込んだ、究極の薬膳スープ。

 俺たちは、それを「生命いのちのスープ」と名付けた。


 魔王軍改め「食料支援部隊」は、人間たちの先導で、彼らの国へと足を踏み入れた。

 そこは、まさに地獄だった。大地は枯れ、家々からは呻き声が漏れている。

 俺たちは、村の中央に巨大な鍋を設置し、炊き出しを開始した。恐るべき魔族と恐れられていた兵士たちが、今はただ、必死の形相で病に苦しむ人々のためにスープをよそっている。


 最初は、遠巻きに見ていた人間たちも、やがて、その温かい香りに誘われて、おそるおそる集まってきた。

 やせ細った母親が、ぐったりとした子供の口に、スープを一口運ぶ。

 すると、死んだように土気色だった子供の頬に、ほんのりと、本当に、ほんのりとだが、赤みが差したのだ。


「ああ…」


 母親の目から、涙がこぼれた。

 その小さな奇跡は、瞬く間に絶望の大地を駆け巡った。

 かつて憎しみ合っていた二つの種族が、手を取り合い、協力し、ただ一つの「絶望」という敵に立ち向かう。ガルバス将軍は、その怪力で巨木を薪にし、人間たちは、その薪で火を焚いた。ボルカンと俺は、並んで鍋の前に立ち続けた。


 長い、長い戦いの末、疫病はついに終息した。

 枯れた大地には、再び緑の芽が吹き始め、人々の顔には笑顔が戻った。


 ◇


 一年後。

 魔王城の大食堂は、魔族と人間が入り乱れ、陽気な笑い声に満ちていた。

 玉座では、ゼノ様と、人間界の王となったアランが、平和の盟約を祝して杯を交わしている。テーブルでは、ガルバス将軍が人間たちの騎士と、どちらが肉を多く食えるか、楽しそうに競争していた。


 そして、その全てを支える厨房で。

 俺は、山のような注文票を捌きながら、隣のボルカンに怒鳴っていた。

「ボルカンさん!そっちのソース、火が強すぎますって!」

「黙れ小僧!俺のやり方だ!それより貴様こそ、塩の分量を間違えるな!」


 そんな言い合いさえも、今は心地良い。

 俺は、汗を拭い、活気に満ちた大食堂を見渡した。

 一杯の温かい料理は、憎しみさえも溶かす力を持つ。母さんの言葉は、正しかった。

 俺の料理は、いつしか伝説になったらしい。世界を救った「魔法の薬」だと。


 だが、俺はただの料理人だ。

 伝説になっても、英雄になっても、腹は減る。

 さあ、次の注文だ。世界一幸せな客たちのために、腕を振るわなくちゃ。


 俺は、ニッと笑って、愛用の牛刀を握りしめた。

 平和になった世界で、俺の戦いは、まだ始まったばかりだ。

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