第11話 渇望の味
我が名はアラン。人間連合軍を率いる将軍である。
かつて、俺は王国の守護者として、民の笑顔と豊かな大地を誇りに思っていた。だが、今の俺は、死地へと自らの民を率いる、ただの罪人に過ぎない。
一歩、また一歩と、敵陣の中心へと向かう。
風が運んでくる、あの芳醇な香りが、俺の空っぽの胃を締め付ける。背後からは、我が兵たちの、腹の虫の音が聞こえてくるようだった。彼らは兵士である前に、父であり、息子であり、飢えた民なのだ。
(許せ…みんな…)
心の中で、何度目になるかわからない謝罪を繰り返す。
原因不明の疫病が、我らの大地を蝕んだ。作物は黒く枯れ、人々は力を失い、赤子たちの泣き声さえもか細くなっていく。そんな地獄の中で、我らが掴んだ最後の蜘蛛の糸。それが、「魔王軍が開発したという、兵士を強化する魔法の兵糧」という、真偽も定かでない噂だった。
それを“薬”として奪う。
そのために、滅びゆく国のけじめとして、最後の力を振り絞って戦を仕掛ける。それが、我ら指導者が出した、狂気の結論だった。負ければ、どうせ滅びる命。ならば、万に一つの可能性に賭ける。愚かと罵られても、他に道はなかったのだ。
やがて、奇妙な厨房にたどり着く。
そこにいたのは、鬼のような形相の料理長と、そして、拍子抜けするほど普通の、若い人間の男だった。彼が、この狂気の作戦の中心人物だというのか。
「…ようこそ」
若い料理人――健太が、こくりと喉を鳴らして言った。
「どうぞ、召し上がってください。お腹が空いているでしょう」
差し出された椀からは、湯気と共に、抗いがたい香りが立ち上っていた。
毒見は、魔族の料理長が済ませている。罠ではないと、頭ではわかっている。だが、心が理解を拒む。なぜ、敵が、飢えた我らに飯を振る舞う?
俺は、震える手で椀を受け取った。中には、ゴロゴロとした肉と野菜が入った、ただのシチュー。魔法の光も、禍々しい気配も感じられない。
俺は、覚悟を決めて、スプーンを口に運んだ。
その瞬間―――俺の世界は、変わった。
熱い。温かい。そして…美味い。
ただ、それだけだった。魔法の力で体がみなぎるような感覚はない。だが、それ以上に、もっと根源的な何かが、乾ききった俺の心と体に染み渡っていく。
じっくりと煮込まれた肉の旨味。野菜の、優しい甘み。そして、どこか懐かしい、大地の香り。
(ああ…これは…)
思い出したのは、まだ平和だった頃、収穫祭で妻が作ってくれたシチューの味だった。家族で、村のみんなで笑い合いながら、豊かな実りに感謝した、あの日の味だ。俺たちが、この戦争で、失ってしまった全てのものが、この一杯の椀の中に詰まっていた。
気づけば、俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちていた。
もう、駄目だった。
張り詰めていたものが、全て、ぷつりと切れた。俺は、その場に膝から崩れ落ち、椀を取り落とした。カシャン、という音が、静まり返った戦場に虚しく響く。
「…将軍!」
部下たちの声が遠くに聞こえる。だが、俺はもう、顔を上げることができなかった。
「我々は…」
嗚咽混じりの声が、自分の口から漏れた。
「我々は、侵略者ではない…。助けを…乞いに来たのだ…ッ!」
俺は、全てを告白した。
疫病のこと。枯れた大地のこと。民が、赤ん坊が、次々と死んでいく地獄のことを。そして、藁にもすがる思いで、魔王軍の「魔法の兵糧」を“薬”として奪うために、この無謀な戦争を仕掛けたことを。
静寂が、平原を支配した。
魔王軍の兵士たちも、将軍たちも、そして魔王ゼノも、ただ呆然と、膝をついて号泣する俺を見つめている。
若い料理人、健太が、ゆっくりと俺の前に歩み寄ってきた。
彼の顔には、驚きと、苦悩と、そして、深い、深い慈悲の色が浮かんでいた。
彼が作った、ただ温かく美味しい一杯のシチューが、戦争を止め、そして、想像もしなかった、残酷な世界の真実を暴き出してしまったのだ。