第10話 戦場での奇跡
シチューの温かさは、まだ大食堂の空気の中にたゆたっていた。派閥を越えて酌み交わされる酒、肩を組んで笑い合う兵士たち。俺、向田健太が夢にまで見た光景が、そこにあった。
だが、その温もりは、たった一言で凍てついた。
「―――人間連合軍が、侵攻を開始!」
伝令兵の絶叫が、全ての音を奪い去る。
即座に、城の雰囲気は「祝宴」から「臨戦」へと切り替わった。大食堂は作戦司令室と化し、ゼノ様を中心に、ガルバス将軍をはじめとする幹部たちが集まる。
「迎撃部隊の編成を急げ!敵の目的はなんだ!」
ガルバス将軍の怒声が響く。斥候部隊の長が、困惑した表情で首を横に振った。
「それが…全くもって不明にございます。捕虜にした兵士は、ただ『“希望”を奪いに行け』と命じられたの一点張りで…」
「希望だと?訳の分からんことを!」
ゼノ様が、静かにその会話を制した。
「待て。おかしいと思わんか?なぜ、今なのだ。我が軍が、健太の料理によってかつてないほど士気が高まり、一つにまとまった、このタイミングで…」
その言葉に、俺はハッとした。そして、幹部たちも顔を見合わせる。
誰もが、その疑問に行き当たっていた。なぜ?どうして?この侵攻には、大義名分も、勝算も見えない。あまりにも不可解で、唐突すぎるのだ。
ただの領土欲や、積年の恨みによるものではない。だとしたら、一体何が彼らを、無謀な戦争へと駆り立てているのか。
この中央の疑問に答えが出ないまま、ただ敵を殲滅するだけで、本当に良いのだろうか。
俺は、気づけば会議の輪の中に進み出ていた。
「あの…!」
全員の視線が、場違いな料理人に突き刺さる。
「もし、彼らが、何か僕たちも知らないような、よっぽどの理由で戦うしかないのであれば…ただ戦うだけでは、その理由は永遠に分からないままじゃないでしょうか」
「小僧、貴様に何がわかる!」とガルバス将軍が吼える。
俺は、必死に言葉を続けた。
「わかりません!わからないから、知りたいんです!彼らがなぜ、死を覚悟で攻めてくるのか!その理由を知らずに、憎しみだけで剣を交えるのは、あまりにも悲しすぎます!」
俺の訴えは、青臭い理想論だったかもしれない。だが、健太の料理によって心を開かれたゼノ様には、その言葉が違う意味で響いていた。
「…健太の言う通りやもしれん。敵を知らずして、真の勝利はない。だが、どうやって知る?敵は、問答無用で剣を向けてきているのだぞ」
そこで、俺は生涯で最も馬鹿げた提案をした。
「だから、作るんです。戦場のど真ん中で。話をするための、テーブルを」
◇
かくして、人類史上、最も奇妙な光景が、紅錆の平原に現出した。
「なぜ戦うのか」。その答えを得るため、俺は戦場の最前線に、厨房を設置するという狂気の賭けに出たのだ。
「罠だ!」「妖術に違いない!」
人間軍が混乱する中、俺は黙々とシチューを煮込み始めた。立ち上る湯気と香りが、風に乗って敵陣へと流れていく。
そして、その奇跡のような、あるいは滑稽な作戦には、最高の協力者がいた。
俺がシチューの味見をしようとした、その時だった。無言で、俺の持つスプーンをひったくった者がいた。
「ボルカンさん…?」
「どけ、小僧」
ボルカンは、俺を押しやるように前に出た。
「魔王軍が口にするものの安全を確かめるのは、料理長たる俺の役目だ」
彼は、敵味方、全ての兵士が見守る中、鍋からすくったシチューを、ゆっくりと口に運んだ。そして、咀嚼し、飲み下した後、全軍に響き渡る声で、ぶっきらぼうに言い放った。
「…毒はない。ただのシチューだ」
それは、あの頑固な鬼料理長が、俺の「戦い方」を公に認め、その安全を自らの身体で証明した瞬間だった。
その光景を、人間連合軍の将軍は、信じられないという面持ちで見ていた。
敵は、何を考えている?なぜ、戦場で飯など作り始める?
だが、彼の軍はもう限界だった。疲弊し、飢えた兵士たちは、風下に流れてくるシチューの香りに、もはや正気を保つことすら難しい。
罠かもしれない。だが、このままでは戦う前に自滅する。
それに、もし…万が一、あの不可解な行動の先に、この絶望的な状況を打開する何かがあるのだとしたら…。
「…全軍、待機!」
将軍は、覚悟を決めた。
自ら馬を降り、ただ一人、武器を持たずに、戦場の真ん中にある俺の厨房へと、ゆっくりと歩き始めたのだ。
平原の風が止まり、全ての兵士が、その一挙手一投足に息をのんでいた。
俺たちの、奇妙な「対話」が、今、始まろうとしていた。