第1話 魔王様の「おかわり」
「だから!どうしてこうなった!?」
俺、向田健太は、内心絶叫していた。
目の前には、巨大な寸胴鍋。その中では、紫色の液体がぶくぶくと不気味な泡を立て、時折、何かの目玉がこちらを向いては弾ける。魔王城の厨房。そこが、今の俺の職場だ。
数週間前まで、俺は日本の下町で、亡き母が遺した小さな洋食屋を継ぐために修行していたはずだった。それが、床に突如現れた魔法陣とやらに飲み込まれ、気づけばここにいた。理由は「若き魔王様の偏食を治すため、異世界から料理人を召喚した」だそうだ。人選、雑すぎやしないか?
「おい、人間!ぼさっと突っ立っている暇があるなら手を動かせ!貴様には本日、魔王ゼノ様にお出しする食事を作る大役があるのだぞ!」
背後から轟く、腹の底まで響くダミ声。振り返れば案の定、厨房の絶対支配者、料理長のボルカンが仁王立ちしていた。岩石のような筋肉に、頭からは二本の角。その威圧感たるや、そこらへんの鬼よりよっぽど鬼らしい。
「は、はい、ボルカンさん!今、メニューを考えているところで…」
「ふん、考えるだけ無駄だ。人間の作るような、ちまちまとした飾り物など、魔王様がお喜びになるものか。いいか、美味さとは力!力とはすなわちカロリーだ!男は黙ってドラゴンステーキ!これに尽きる!」
ドン!と彼が叩きつけた調理台の上には、昨日まで城の上空を優雅に飛んでいたドラゴンの足が一本。まだ生々しくうごめいているそれに、俺は顔を引きつらせた。
「(いやいやいや、完全に食材の鮮度という概念を履き違えてるから! そしてドラゴンって食べられるんだ…)」
表面上は「は、はぁ…勉強になります…」と曖昧に笑みを浮かべるが、内心のツッコミが追いつかない。
周囲を見渡せば、角や牙を生やした屈強な魔族の料理人たちが、巨大な肉塊を骨ごと断ち割り、青い炎で豪快に炙っている。それがこの厨房の日常風景。そんな中で、野菜の皮を剥いたり、魚の骨を丁寧に取り除いたりしている俺は、動物園に迷い込んだ草食動物のようなものだ。
「おい、見たか?」「また人間の向田が、草の根っこを煮るらしいぞ」「あんなもので腹が膨れるのか?」「人間とは、かくもか弱い種族なのか…」
ヒソヒソと交わされる会話が耳に痛い。うるさい、これは草の根っこじゃなくてニンジンだ。君たちが毒キノコと勘違いして捨てていたやつだけどな!
そんなプレッシャーの中、俺はこれまで幾度となく魔王ゼノへの挑戦を繰り返してきた。
ある日は、秘伝のデミグラスソースで煮込んだハンバーグを。
「…匂いが、きつい。下げろ」
またある日は、見た目も美しい七色の野菜を使ったラタトゥイユを。
「…目が、疲れる。下げろ」
渾身のオムライスに至っては、玉座に運ぶメイドの盆の上で、
「その黄色が気に食わん。下げろ」
と、一口も食べられることなくUターンだ。俺の心はもう、ふわとろの半熟卵みたいにズタズタである。
「(それにしても、おかしい…)」
今日も今日とて、新作の魚介のポワレを無言で突き返され、とぼとぼと厨房に戻る廊下で俺は考え込んでいた。
ゼノ様の拒絶の仕方は、単なる偏食のそれとは少し違う気がする。まるで、食事そのものが彼にとって苦痛であるかのような…。
その時だった。
厨房の入り口で、ボルカンが若い魔族の料理人を鬼の形相で怒鳴りつけているのが見えた。
「この愚か者めが!誰が魔王様のお部屋に新しい香を焚けと言った!」「も、申し訳ありません!ですが、気分が安らぐと評判の…」「黙れ!おかげで魔王様はまたご気分を害された!貴様はクビだ!」
香、か。
そういえば、ハンバーグの時も、ラタトゥイユの時も、ゼノ様は料理そのものを見る前に、まず匂いに顔をしかめていた。オムライスは…あの鮮やかな黄色に。
俺の脳裏に、雷に打たれたような衝撃が走った。
バラバラだったパズルのピースが、一気に組み上がっていく。
強い匂い、鮮やかな色彩、そして今日の、香。
――『健太。病気の時はね、普段は何でもない光や音、匂いが、ナイフみたいに心に突き刺さってくることがあるのよ』
病床でか細い声で語ってくれた、母の言葉が蘇る。
そうだ。母さんもそうだった。味覚や嗅覚が、病によって極度に鋭敏になっていたんだ。
「…そういうことか…!」
俺は無意識に呟いていた。
魔王ゼノは、我儘を言っているんじゃない。彼は、苦しんでいるんだ。
この世界に溢れる、あらゆる強い刺激に。
「(だとしたら…俺が作るべき料理は、たった一つだ)」
俺の中で、何かがカチリと音を立てた。
踵を返し、厨房に駆け戻る。
「ボルカンさん!」
「なんだ人間、まだいたのか。とっとと故郷に帰る準備でもするがいい」
「雪解けカブを、いくつかいただけますか!最高の料理を作ってみせます!」
俺の真剣な眼差しに、ボルカンは一瞬たじろぎ、やがて鼻で笑った。
「…またあの白い根っこか。それで魔王様を満足させられるというなら、やってみるがいい。だが、これが最後の機会だと思え」
最後の機会。望むところだ。
俺は他の魔族たちが訝しげに見守る中、調理台に向かった。
雑念を振り払う。これから俺が向き合うのは、魔王でも、ボルカンでもない。ただ一人、刺激に苦しむ青年のための、一皿だ。
雪のように白いカブの皮を、光が透けるほど薄く、薄く剥いでいく。雑味の元になる繊維を、一本たりとも残さない。ただひたすらに、無心に。
静かに、優しく煮込んでいく。味を引き出すのではない。カブが持つ、本来の柔らかな甘みが、自ら溶け出してくれるのを、ただ待つ。
最後に加えるのは、岩塩をほんの少し。そして、母の薬膳ノートにあった、心を落ち着かせるハーブを数滴。それだけ。
やがて、乳白色の滑らかなポタージュが完成した。
見た目は地味で、香りもほとんどない。魔族の料理人たちが「なんだ、あれは」「白湯か?」と失笑している。だが、それでいい。これが、今の俺が出せる最高の答えだ。
再び、魔王の私室へ。
ボルカンも「その目で結末を見届けてやる」と、腕を組んでついてきた。
俺は震える手で、深皿をゼノの前に差し出した。
「魔王様。これは…ただの、温かいスープです。お疲れの心と体を、少しでも休めていただければと…」
それは、ゼノ様にというより、病床の母に語りかけるような声になった。
ゼノは、いつものように無関心な目でスープを見下ろし…そして、わずかに目を見開いた。立ち上る湯気から、何の刺激も感じないことに気づいたのだろう。
部屋にいる全員が息をのむ中、ゼノは初めて、自らの意思で銀のスプーンを手に取った。
おそるおそる、白い液体をすくい、唇に運ぶ。
時が、止まった。
ゼノの瞳が、ゆっくりと、信じられないというように大きく見開かれる。
固まっていた彼の表情が、ほんの少し、和らいだように見えた。
ボルカンが、しびれを切らしたように口を開く。
「どうだ!やはり人間の作るものなど…」
その言葉を遮るように、ゼノがポツリと呟いた。
「……おかわり」
「へ?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。隣のボルカンも、角が取れるんじゃないかというくらい目を丸くしている。
聞こえなかったと思ったのか、ゼ-ノはもう一度、今度は少しだけはっきりとした声で言った。
「聞こえなかったのか。おかわりだ、と言った」
その一言で、魔王城の冷たく張り詰めた空気が、ぱきん、と音を立てて砕けた気がした。