7.感謝される覚えがない
本格的にお仕事が始まりました。がんばえー。
突然修正することがあります。
王家専属財務監査官による監査の拠点は王城にある「盛夏の離宮」とすることが定められている。
この離宮は名前にある通り、短い夏の間のみ解放される小さな離宮で、来賓を呼んで周囲を取り囲む水堀に咲く花々を楽しむことを主としていた。
拠点として定められた理由は幾つかある。
まず、離宮は解放される期間が短く、客人のための広い厩があり、厨房があり、必要なだけの部屋数があり、氷が張るものの水堀があるために見晴らしが良い。
そして堀に掛かる勾配の緩やかな橋は二カ所のみ。幅は大型馬車が一台通るのが精一杯という程度。安全の確保が比較的容易で、宮殿から独立している。
不正や厄介事の可能性を僅かながら減らすことのできる立地と言えた。
イルゼカイン達は離宮に着くとモーラと馬を厩に入れた。離宮の中は秋の始まりに閉じられて以来誰も足を踏み入れておらず、掃除と安全確認を済ませなければ中には入れなかった。そのために朝食は馬車の傍で手早く済ませた。
朝食として配られた干し肉のサンドイッチは王都邸で準備したもので、あとは空の大鍋に魔法で湯を湧かせたバター茶があるぐらいだった。バターと刻んだ茶葉、大麦粉と合わせて練り固めた長期保存用のバター茶は飲料というよりもスープに近く、よく腹に溜まって身体を温めた。
朝食が終わると神殿が鳴らす朝礼の鐘を待ってから、侍女達には掃除を、軽騎兵姿の護衛達には資料の搬入を命じた。
この時間帯が所謂「一日の始まり」なので大臣や官吏達は既に出仕している。彼女の護衛達が宮内各所に顔を出して使用人達と共に離宮へと膨大な資料を運んだ。
監査官の行う業務とは、積み上げれば見上げるばかりになる量の資料を、一ヶ月半で精査して問題点や不正の有無を確認するというものなのだ。
昼前にひとまず作業を止めて、イルゼカインは全員を集めた。
「昼食の前ではあるが、今一度お前達に慣例の注意事項を伝えておきたい」
そう言って、監査官が告げたのは彼等自身の身を守るためのことばかりだった。
一つ。必ず二人一組で行動すること。
二つ。業務以外で王宮の人間に話しかけないこと。
三つ。非友好的な人間に業務以外のことで話しかけられたら監査官の名を出してその場から離れること。
四つ。些細であっても攻撃を受けた場合は即時報告すること。
五つ。個人の特定を避けるために頭部を布で覆うこと。
「それと、もし気に入った人間がいたら言いなさい。陛下に頼んで縁談を纏めてもらうから」
使用人達から笑い声が上がる。イルゼカインは締め括りにいつも真剣にそう言っているが、本人の欠落を知っている使用人達にとっては面白い冗談でしかなかった。
注意事項を終えれば昼食を兼ねた休憩時間になる。監査に従事する彼等の分の食材が王城へ搬入されるのはどんなに早くても明後日からになるため、三日分の食糧を持参していた。
常識的な貴族であれば内容の質素さに憤慨するだろうが、監査業務を行軍と認識している侍女達と護衛達にとっては贅沢な内容だった。
調理は侍女が担った。昼食はバターとパン、炙った燻製肉、細かく刻んだ根菜を豆や燕麦と共に煮込んだスープだった。
「どうぞ」
黒髪を複雑に編み込んで纏めているイツナが主人のために用意したのは、具を原型が無くなるまで細かく潰したスープだけだ。朝食もバター茶のみだった。
常人にとっては少なすぎるが、内臓が魔力嚢と半ば融合していて機能が落ちている彼女にとっては十分過ぎる量だった。
「ありがとう、イツナ。それでは頂こう」
晩餐会用の広間には大人数用の長卓があり、食事は大抵その広間で取ることになっていた。
配膳を終えて、全員が着席するのを確認してからイルゼカインはスプーンを手にして食事を始める。それからゲアハルトと使用人達は食事に手を付けた。
静かな昼食の後でイルゼカインは王に挨拶したいという旨の手紙を認めた。そして休憩が終わってから休憩侍女に命じて王の侍従宛に届けさせた。
返答を受け取って侍女が護衛と共に戻ってきた時、イルゼカインは水堀を跨ぐ橋の袂にいた。離宮側のほうに立って地面に打ち込まれている杭を確認していた。
戻ってきた侍女は主人に返答を伝えた。
「当代のご都合の良い時間に来てくれて構わない、とのことです。執政の間でお待ちする、とも」
「そうか。では向かおう」
ちょうど離宮内にある結界の再調整作業を終えたところだったので、彼女は自身の服を軽く撫でて汚れを消し去る。身嗜みを整えた彼女は橋を渡ろうとして向かった。
歩きながら頭の中で「ゲアハルト」と副官の顔を思い浮かべた。それだけで厩のほうから件の男が足早に現れた。
「出掛けるのか?」
察しの良い男はイルゼカインに尋ねながらも護衛の一人から手袋の替えを受け取り、主人の外出に備えた。
「うん。陛下のところへご挨拶に」
二人は連れ立って王の下へと向かった。
執政の間は王宮の奥に近い。議場や謁見の間、外からの賓客を持て成す客室などがある区画よりも王族の居住区画に近い位置である。そのために離宮とは距離があった。
道中で擦れ違う官吏達、メイド達はイルゼカインの姿を見ると緊張した顔で頭を垂れる。
彼女はそれを当然のように受け取り、ゲアハルトもまた慣れた態度で無視した。彼が下手に反応すると今度はその容貌の美しさに心を奪われる者が出てきて面倒が増えるのだ。
王宮内でも副官として随伴するため、準貴族の地位が与えられているが故に顔を隠せない男は、そうでなくても女達の視線を一身に受けるので機嫌は降下するばかりだった。
大臣職や上級官吏の政務室がある区画に入る大扉の前は警備がより厳重になる。大扉を守る近衛兵はイルゼカインを見て騎士礼を取り、扉を開けた。執政の間は緋色の絨毯が敷かれた長い通路の終わりにあった。
執政の間に入るまでにも近衛兵達が並んでいる。彼等は監査官を見ても恐怖心を見せることはしない。
ひと目で王の権威を示す精緻な金細工に飾られた扉の前で待機していた侍従長も、同じように美しい角度で礼をして迎えた。それから「少しお待ち下さいませ」と言って、扉を開けて王へ彼女の到着を伝えに行った。
然程待たされることなく二人は執政の間への入室を許可された。
「やあ、イルゼカイン。よく来てくれたね」
光沢のある大きな執務机は巨大な老木から切り出された一枚板で作られていて、初代国王の御世から置かれていると言われている。
国王は平均的な体つきの壮年ではあるが、机が大きいあまりにその横に立っていると小柄に見えた。
イルゼカインは身内を迎えるように親しげに笑みを向けて歓待する国王に対して、臣下の礼を取る。深く頭を下げ、片膝をついて挨拶を返した。ゲアハルトも彼女に従って礼を示した。
「お久し振りでございます、我が王。ご壮健そうで何よりでございます。ご多忙にも関わらず拝謁を賜り、感謝の言葉もありません」
「ありがとう。君も、身体は何ともないかい? まあ挨拶はこれくらいにして、どうぞ座ってくれ」
執務机から少し離れた位置に、足の短い長方形の卓を挟んで二脚のソファが向かい合わせに置かれていた。
王はイルゼカインを立ち上がらせて着席を勧める。促されるままに彼女は座り、その向かいに王は腰を下ろした。護衛として共に来た副官は少し離れて待機の姿勢を取っていた。
王が尋ねて、イルゼカインがそれに言葉を返すという形で二人は近況について話した。穏やかな物腰の王は友人の娘に向ける優しい眼差しを彼女に向けていた。
和やかで静かな会話が続く中で、扉前で待機していた侍従長が室内に入ってきたかと思うと王の元に来る。
王は一度彼女に断りを入れてから従僕の伝達を受けて、再びイルゼカインを見た。
「イルゼカイン。君に会わせたい人間がいるんだが、良いかな?」
王からの問い掛けに少しだけ間を置いて、彼女は答えた。
「はい、構いません」
その返答を受けて王は傍に控えて待っていた侍従長に頷いた。意図を伝えるのはそれだけで十分だった。侍従長は扉まで戻り、来訪者を迎え入れた。王の執務室を訪れたのはセイル大公である王の年若い甥、メアベル・アステリトス・セイル・ユストピアだった。
アステリトスは室内に招き入れられると、侍従長に示された先に王がいて、その向かいにイルゼカインがいることに目を見張った。そして歓喜を顔いっぱいに浮かべて彼等に歩み寄った。
王族の特徴を色濃く受け継いだ美しい青年は、王の前に片膝をついて深く頭を垂れた。
「国王陛下、この度は私の願いを聞いて頂きありがとうございます。不肖の我が身に余るご慈悲、決して忘れません」
彼の言葉に王は苦笑して立ち上がらせ、伯父甥の関係に戻って返した。
「随分と来るのが早かったね、アステリトス。もしかして待ち構えていたのか?」
「…………実は、仰るとおりで」
甥の答えに王は笑い、イルゼカインに彼を紹介する。
「監査官よ、我が甥を紹介させてくれ。セーリュ公国の代理統治者、メアベル・アステリトス・セイル・ユストピアだ」
イルゼカインはソファから立ち上がり、騎士の礼を取った。
「お初にお目に掛かります、セイル大公殿下。王家専属財務監査官イルゼカイン・エルドリーザ・ディグレンゼ・ヘルロンドがご挨拶申し上げます」
彼女がそう挨拶すると、王とアステリトスは寂しげな笑みを浮かべた。予期していた悲哀が訪れたことに笑うことしかできないというような、そんな表情を浮かべた伯父と甥はやはりよく似ていた。
どうして二人がそんな顔をするのか、イルゼカインには分からない。
「如何しましたか?」
尋ねれば王が答えた。
「イルゼカイン、君は彼に会ったことがあるんだ」
王にそう言われたものの、イルゼカインにはアステリトスと会った記憶が無かった。
他者と会って言葉を交わすような機会は国の式典であろうと殆ど無い。その上セイル大公が相手となると、考えられるとすれば春の芽吹きを祝って王への祝辞を述べる慶賀の儀ぐらいのものだった。確かに先代のセイル大公には亡くなる数年前までその場で声を掛けられていた。
「それは……大変失礼なことをしました。先の大公殿下が御父君であらせられるなら、新年の場か何処かでお声掛け頂いたかもしれませんね」
「いや、もっと前に会っているよ。君がまだ、イルゼカイン・エルドリーザ・ヘルロンドだった頃に。この子は君が命懸けで救ってくれた子なんだ」
王の言葉に彼女は少し考えたが、やはりそんな覚えは無かった。どう返答しようかと思案するイルゼカインの前に王甥は歩を進めた。
「改めてご挨拶させてください、ヘルロンド監査官殿。アントピア国王陛下よりセーリュ公国代理統治を拝命したメアベル・アステリトス・セイル・ユストピアです」
美貌の青年は血色の良い頬をひときわ紅潮させ、影のような女に輝くような笑みを向ける。
「今日は貴方が挨拶に来られたら知らせて頂くよう陛下にお願いしたのです。自分の口で貴方に伝えたかったものですから」
そう言ってはにかんだアステリトスは優雅に彼女の手を取ると、おもむろに跪いた。
「貴方がたとえ覚えていなくとも、貴方は私の命の恩人です。想像を絶する危険の中でお救い頂き、ありがとうございました」
手袋に包まれたイルゼカインの手の甲に美しい青年は唇を寄せた。騎士が忠誠と心を捧げた高位の貴婦人に対して行う感謝の礼だった。
「…………え? あ? はい? どうぞ? お立ちください?」
思い出そうと足掻いたところで覚えがないイルゼカインはとりあえず頷いてアステリトスを立たせる。彼女だけに聞こえるが、壁際で待機しているゲアハルトの不満と怒りの罵声が頭蓋の内に響いていた。
監査官が副官の機嫌を気にしているとは露とも知らない王とその甥は喜色満面だった。
立ち上がった青年は彼女より少し背が高い。恐れの色を一切浮かべず、僅かな恥じらいと強い歓喜の籠もった眼差しでイルゼカインを見下ろしていた。
「ヘルロンド殿。お身体の件は承知しているのですが、貴方を観劇に誘うことを許して頂けますか? もちろん監査業務を終えた後で、お時間を頂けるのであれば。年の終わりには王都の歌劇場で特別講演が行われるのですよ。良ければ……」
まさか自分の子供ぐらい年齢が離れている美青年にそんな誘いを受けるとは思わなかった。
衝撃で思考が固まったイルゼカインは、ひとまず「難しいとは思いますが、機会があれば」と言ってその場を乗り切るしか無かった。
「何かあれば何でも仰ってください。必ず力になります」と熱く迫るセイル大公と希望的観測に基づく再会を約束して、イルゼカインはどうにか離宮へと戻ってくることができた。
「命を助けたとはいえ、私はともかく大公殿下だって覚えていないだろうに……どうしてあんな大袈裟なことをしたんだろう?」
「知らん」
「? なにを怒ってるんだ、お前」
「怒ってない。あのクソガキにムカついてるだけだ」
「じゃあ怒ってるだろ」
副官の機嫌は地の底を這っているが、彼女には理解できなかった。
中天から大きく傾いた陽が全てを赤く染め上げる中、膨大な資料の運び込みは滞りなく進んでいた。
冬の日は短い。既に日没が近く、間も無く晩鐘の音が響いてくる頃合いだった。夕礼を告げるその鐘の音は「一日の終わり」を知らせるものでもある。人々はそれを合図に仕事を終えるのだ。
今日は朝が早かったこともあって、その鐘が聞こえてくる前にイルゼカインは業務の終了を侍女と護衛達に告げた。
「面白い」と思ったらコメント欄で好きな古龍を教えください。ワイはヴァルハザクです。