5.エルドリーザは覚えている
イルゼカインにとっては一枚ペラの報告書程度の記憶なので分割なしで載せます。読み飛ばしていいってことだね!
突然修正することがあります。
今から二十年近く前。家を継ぐ前のイルゼカイン・エルドリーザ・ヘルロンドは王立学園に在籍していた。
エルドリーザは美しかった。男のような長身は目立つものの、体つきはすらりとしていて、腰の辺りまで伸ばされた黒髪は夜に流れる川のようだった。
白皙の顔と髪の色、氷河に似た色の瞳は母譲りで、左の目尻に双子の泣き黒子があるその容姿は吟遊詩人に「女神」と讃えられるほど美しいものだった。
その声は玲瓏としていて美しく、いつまでも聞いていたいと思わせる柔らかな響きを持っていた。
加えて学園での成績は良かった。共通科目における座学は勿論、武術や魔法の実技も彼女は常に最上位だった。
ヘルロンドの名のために、エルドリーザの周囲にはあまり人はいなかったが細々と交流することはあった。
同年生との会話では控えめな態度で聞き役に回って会話の流れを助けるように振る舞い、下年生達が困っているのを見かければ優しく話しかけ、教師達のところへ出向いて授業の補足を聞くような、その程度の交流だった。
それ故に彼女は「謙虚で物静かな、優しく慈しみの心を忘れない御方」として他者から見られていた。
気品と慈愛を常に忘れない振る舞いをエルドリーザは常に心がけていた。
王太子ノアベル・アレルクス・アントピアの婚約者として相応しいように。
アレルクスとエルドリーザは同い年だった。毎年、監査の時期になると父に伴われてエルドリーザは王都に滞在していたので二人は幼い頃から顔見知りで、それが縁となって二人は十歳の時に婚約を結んだ。
他の高位貴族ではなくエルロンド家を選んだのにはそれ以外にも理由があった。
婚約時、王太子には既に成人を迎えている腹違いの兄が二人もいたが、どちらも王の後継者には選ばれなかった。
第一王子であるソーラクスも、第二王子であるライトスも、母と正妃の立場を鑑みてアレルクスが産まれた時点で辞退していたのだ。
側妃は二人の息子を産んでいるが実家は伯爵家であり、公爵家出身の正妃より立場は低い。加えて本人達のそもそもの気質として争いに向いていなかった。
正妃になかなか子ができないためにやむなく召し上げた側妃、そして彼女が産んだ王子達には、王座に対して悪い意味での執着は無かった。
「正妃の子が男であるのなら慣習に従うべきである。万が一にでも現王が崩御され、また国難に際した場合は『代王』と成ることはあれど、やはり正統な王位は正妃の子にあるべきだ」
王家全員の意向として宮廷内にその旨が掲げられ、臣下達もそれを念頭に置くことを誓っていた。
しかしそれでも貴族達が一丸となるわけではなかった。全員が幼い王太子、そして兄王子達に忠誠を尽くすことを選ぶわけではなかった。
王家との結びつきが強い貴族家はいっそう自分達の力を強めることに注力しようとし、そうでない家は王太子、または王子達に近付き取り入ろうとしていた。そのために邪魔な存在を排除しようと思う者がいてもおかしくない空気になっていた。
王太子の警護に問題はないが、謀反や暗殺の疑念がないとは言い切れないそんな状況の中で、王家はエルドリーザを王太子の婚約者にすることをヘルロンド家に提案した。彼女の家が強力な防波堤になるのではないかと考えたのだ。
貴族内に番付が存在するとすれば、ヘルロンド家は正しく”番外”と言えた。
何処の貴族派閥とも繋がりが殆ど無く、いつ攻めてくるかも分からぬ隣国との境にある広大なディグレンゼ平原を支配する武家であり、宮廷内の地位はある意味では宰相よりも高く揺るぎようがない。
まず手を出そうと考える者はいないだろう。仮にそうなったとしても、貴族達の工作など容易く弾いて報復してくれるのではないか。国王と正妃はそう考えた。
事実、その目論見は当たり、ヘルロンド家当主は娘の害になるものを徹底的に排除して守った。
エルドリーザの母は娘が歩き始めた頃に病没しており、当主は後妻を迎えず娘を宝のように守り抱えて育てた。エルドリーザが特殊な魔術への適性が高いことがそれに拍車を掛けた。
娘への過保護が結果的にアレルクスを守ることに繋がり、宮廷内の統一が成されて内乱の恐れも無くなった。
国境では滲むような侵略の気配を感じ取りつつも国内は平和で、長年抱えている問題といえば緩やかに減少していく主食糧の生産量だった。
長い目で見れば食糧難になることは分かっていた。兄王子達は既に成人して王の補佐を努めてはいたものの、問題に立ち向かえる身の振り方をずっと模索していた。
学園か王城に有識者を集めて農政学を学びながら対策を検討するか、移動宮廷の如く国内外を回って貴族や商会に自国内の協力と団結、そして諸外国からの援助と輸入を求めるかしよう。自分達で分担すれば良い。そして末の弟ではあるが王太子でもあるアレルクスを助けていこう。
二人がそんな進路を考えていることは国王と正妃も知っていたし、感謝もしていた。側妃も喜んで頷いてくれていた。
王太子との婚約をエルドリーザの父は全く喜ばなかったが、少女は受け入れていた。
「ノアベルさまはお優しい方です。きっと善い王さまになられます。選ばれたのなら、いっしょうけんめいお手伝いします」
少年のほうも「見知ったエルとなら」と婚約を了承した。
「エルは他のご令嬢みたいに無理矢理くっ付いてこないし、俺の話をよく聞いてくれるから怖くないんだ」
こうして、二人は互いの婚約者となった。
アレルクスとエルドリーザは婚約してからずっと、手紙のやり取りや贈り物の交換、王家主催の茶会への参加によってゆっくりと関係を築いていった。
十三歳を迎えて社交界デビューし、王立学園に入学した後も互いを信頼して仲違いをすることもなく接していた。王太子は敬愛を、その婚約者は忠誠を忘れず捧げ合っていた。
人目があろうとなかろうと、彼等が恋愛感情を匂わせることはなかった。それでも端から見れば良好で親密な間柄だった。瑞々しい若いばかりの空気ではなく、自制した大人のような、長年連れ添った夫婦のような穏やかな空気を二人は伴っていた。
生徒会長であるアレルクスの予定に都合が付けば食堂で昼食を取ったり、王城へと帰っていく彼をエルドリーザが見送ったり、共に下校したりすることもあった。茶会や昼餐会、夜会などで見られる、そうした王太子と婚約者の節度ある姿は貴族の手本として貴族社会に知られていた。
このまま行けば二人は王太子と王太子妃に、そして王と王妃になる。公明正大な王と、それを扶ける慎ましい王妃となる。二人の間に生まれる子供もきっと才能に恵まれた子になるだろう。王家の血筋に嫁ぐのはあのヘルロンド家の、常人より二回りも大きな魔力嚢を持つ娘なのだから。
人々は明るい未来への希望をアレルクスとエルドリーザに見出していた。その風向きが変わったのは、新緑が輝き、日差しが強まる短い夏がもうすぐやって来る頃だった。
来年の冬が終わる頃には卒業と成人を迎えるというのある日、王都の神殿の中庭に「流浪者」が現れたのだ。
「流浪者」とは旅人や放浪民を指すのではない。異世界からやって来た人間を指す。十年単位の周期でこの世界には別の世界の人間が落ちてくる。
彼等または彼女等はこちらに落ちてくる際に環境に適応するために体の構造が造り変わり、特異な能力が芽生えることが殆どだった。
この世界では何処にでも現れる可能性がある流浪者は、発見され次第その土地の有力者に保護される。
エルドリーザ達の時代に、王都の神殿に現れた彼女の場合は王家の保護下に置かれることになった。
王国に流浪者が現れるのは十数年ぶりだった。栗毛色の淡い髪色と黒い瞳を持つ彼女は「ニホンノジョシコウセイ」の出で、キサラギ・サクラと名乗った。
彼女は膨大な魔力の持ち主であり、彼女の回復魔法は破格だった。適性が分かってからすぐに神殿に運び込まれていた怪我人や病人を全て治してしまったのだ。馬車に轢かれて千切れかかっていた手足さえ修復していまうほどだった。
治癒魔法の習得自体は難しいものではないが、普通の人間であれば自分の軽い怪我を治したり、病気の症状が軽い時に自己の治癒力を高めたりするのが精々だった。
しかし彼女の場合は十七歳という若さで、その回復魔法は既に長い研鑽を行った大司教に匹敵していた。
サクラの希望と、それまでの前例にあったことから彼女は王立学園に通うこととなった。
王城の奥で保護し続けることもできたが、見知らぬ大人ばかりに囲まれて監視される環境での精神的な負担を考慮して学園への入学を許された。
アレルクスが学園内での保護者ということになり、初登園は彼と同じ馬車に乗ってやって来た。臨時で開かれた全学園集会で流浪者の存在を生徒達は知り、彼女の姿を目にした。
大人数を収容できる大舞踏室の中で、彼女の姿は際立っていた。
王太子に紹介されて縁台に上がったサクラは緊張で体を強張らせていた。肩の辺りまで伸ばされた髪は柔らかで、幼さを強く感じさせる顔立ちは愛らしい。他の女生徒と体躯の差は殆ど無かった。
自分を鼓舞するかのようにサクラは両手を組んで強く握り締めて口を開いた。
「わ、私は、皆さんと違うところから来ました。身分で言えば、庶民の出になります。この世界のこと、何も分からないけれど…………私にできることがあるって、言ってくれる人がいました。その人のために、頑張りたいです! これから、よろしくお願いします!」
言葉を終えて頭を下げた彼女に向かって、王太子が激励の拍手を送れば教師と生徒もそれに続かないわけにはいかなかった。
細波のような拍手がやがて歓声に変わり、サクラは顔を上げて安堵した。
何も分からない流浪者の少女は四六時中アレルクスの傍を離れなかった。「親鳥の後ろをついて回る雛鳥のようだ」と微笑ましく思う者もいれば、「最低限の分別さえ無いのか」と眉を顰める者もいた。
婚約者であるエルドリーザは登園初日にサクラを紹介され、彼女が常に怯えていることを雰囲気から察していたために言及はしなかった。
サクラはある日突然、今まで暮らしていた場所でたまたま階段の踊り場から落ちて、気付けば理が全く違う世界に来ていた。
流浪者が元いた世界に帰還した例はある。だがそれはどんな方法を使えばいいのか、そしていつになるのかは分からない。
サクラからして見れば、そんな状況で、頼れる相手はアレルクスしかいないのだ。
そんな状態の少女に「アレルクス殿下が王太子であることを考えて身を弁えろ」と言うのはあまりにも厳しいと、エルドリーザは判断したのだった。
だが、それでも限度はあった。
異世界から少女が落ちてきてから三ヶ月が経ち、季節は夏の終わりを迎える時期に移り変わっていた。漸く心が慣れてきたらしいサクラは天真爛漫な振る舞いが目立つようになってきていた。
「この国の人の名前って不思議ね。名前が必ず二つあるなんて。洗礼名とか愛称みたいなものなの?」
食堂でアレルクスと共に昼食を取っていたサクラはそんな疑問を口にした。王太子の婚約者として親睦を深めるためにエルドリーザも同席していた。
王太子はその問いに首を傾げながら答えた。
「洗礼名というのは確か、聖教会が教徒に付けるものだったかな? この国だと貴族の子女には公的な名前と私的な名前を付けるんだ。だからそういったものや愛称とは違うね」
「そうなの?」
「うん、俺の場合だったらノアベルが公的な名前、アレルクスが私的な名前だね。領地名や称号があればそれも組み込んで、家名と共に名乗ったり署名したりするんだよ。公私共に約定を違えはしない、という意味合いになるんだ。たとえそれが口約束でもね」
「国王陛下であれば王権保持者としての称号が、私の家の場合は辺境を意味する平原の名が組み込まれます。古くは呪い避けに用いられていた諱の名残だとか。私的な名前は親しい相手だけに呼ばせるのもそのためだそうです。逆に、貴族ではない者は私的な名前のみになります」
エルドリーザの補足にサクラは感心したように頷いた。それから思い付いたように声を上げた。
「じゃあ、殿下のことアレルクスって呼んでもいい?」
その途端、ざわめきに満ちていた食堂が静まり返った。アレルクスは困惑し、「あー、えーっと……」と上手く言葉を紡げずにいた。理解していないサクラに、エルドリーザは仮面のような微笑を浮かべたままだった。
「サクラ」
「えっ、なに? イルゼカインさん」
「この後、少しお時間を頂けますか? 先生達にはお願いして授業を自習にして頂きますから。私とお話をしましょう」
婚約者の言葉にアレルクスは「エル」と窘めるように愛称で呼んだ。彼女は視線一つでそれを退けて、真っ青な瞳を流浪者に向けた。
サクラは何も理解しないまま、それでも自分が何かを間違えたことを悟りながら頷いた。
昼食を食べ終えて、サクラはエルドリーザに促されて学園の庭園へと連れ出された。
晩夏に花を咲かす種類の薔薇が美しく生い茂り垣根を作っていた。その庭の奥にある四阿には少人数用のテーブルセットが置かれている。エルドリーザは予め侍女に頼んでいて、其処に茶の支度を整えさせた。
用意ができるとエルドリーザは侍女に人払いを命じてサクラに椅子を勧めた。
「お掛けになって」
「う、うん」
怖々と少女は椅子に座った。目の前に座るエルドリーザの顔を見ることができなかった。アレルクスに彼女を紹介されてからずっと、エルドリーザのことが少し怖かった。
綺麗で、優しいのに、なんだか人形のように思えてならなかった。本心を見せることはなくて、そもそも心があるのかと疑ってしまうくらい、その言動は理想的で模範的だった。
段々増えてきた、サクラともお喋りをしてくれる王太子の側近候補達もエルドリーザに対して強い友情を抱いているわけではないようだったし、怖い噂を聞くこともあった。
怯えているサクラに対して、エルドリーザは手ずから茶を淹れながら静かに話し始めた。
「こちらの世界に慣れてきたようですから、先送りにしていたことをいい加減しなくては、と。予め言っておきますけれど、私は貴方に対して怒っているわけではないの。ただ、知っておいて頂かないといけないことがあるの。貴方の身の安全を守るために」
「えと、うん、分かった」
「どこからお話ししましょうか……そうね、貴方がた『流浪者』に対して私達は過剰に過保護になってしまう。理由はお分かり?」
彼女の問い掛けにサクラは思案して答えた。
「私が、別の世界から来た人間だから?」
「そう。そして、とても特別な力を与えられた存在だからです。お友達の皆さんは貴方のことをとてもロマンチックな呼び方をされているのでは?」
その問いにサクラは心当たりがあった。「星の旅人」やら「世界渡りの聖女」やら、聞くと赤面してしまうような呼ばれ方を同級生にされることがあった。
頷いて肯定する。流石に呼ばれ方を細かく説明するのは恥ずかしかった。
彼女の様子から察したのか、それ以上は聞かずにエルドリーザは淡々と会話を進めた。
「まあ、色々とあるのでしょうけれど。基本的には『流浪者』と呼ぶのですが、これは通称なのです。我が国の正式文書においては『外来種』と呼称されます」
エルドリーザが口にした名称を、サクラは咄嗟に飲み込むことができなかった。
「貴方よりずっと昔に、こちらに落ちてきた流浪者が教えてくれた言葉です。『別の国からやって来た、その土地の固有種を脅かす可能性がある生き物』という意味合いだそうですね。ご存じ?」
「わかる、けど」
それは人間相手に使って良い言葉ではない、とサクラの顔に嫌悪が滲む。エルドリーザは目の前の少女がどう思おうと気に留めない。
「学園集会の時、サクラは自己紹介していましたね。自分は『平民』だと。ですが、こちらの世界では貴方はそもそも『人間』として扱われてすらいないのです」
蔑みも憐憫もない、ただただ凪いだ声で話し続けるエルドリーザの目には愕然としている少女が反射していた。それだけだった。
「貴方がた外来種は私達に向こうの世界に存在する技術や知識といった恩恵を与えてくれるのと同時に、脅威でもあるのです。絶大な力を持つ存在ですから。実際、貴方が落ちてくる前にいた外来種のうち数名は説得と対話を試みたものの、敵意が強く、攻撃性の高い特性を持つことから殺処分になりました」
「…………えっ? あっ、さつ、しょぶん、って、こっ、ころ、殺したって、いうこと?」
「人間として扱わないのでそのような言い方はしませんが。禁帯出書庫で外来種に関する記録を閲覧できますから、殿下にお願いしてご覧なさい」
一度、エルドリーザは優雅な所作でカップを持ち上げて視線を落とした。
「サクラ。貴方が振る舞いを間違えた時。それが国王陛下や外国の貴賓が御座す公の場であった時。この世界の人間に害を成すと思われてしまえば、貴方の死ぬ可能性は跳ね上がります」
かちゃん、と目の前の女がソーサーにカップを置いた音は、サクラの耳にはやけに大きく聞こえた。華奢な肩が跳ねた。
「現状、貴方が今も五体満足で生きているのは貴方が『無知』で『非力』な『可愛らしい少女』の姿をしていて、かつ「対話可能』で「攻撃に転用するのが難しい回復魔法の素養が高い』という特性を持つ『外来種』だからです」
異世界から落ちてきた少女はついに嗚咽を漏らした。死の恐怖を前にして我慢することなどできなかった。ただただ恐ろしかった。
慰める気もないエルドリーザだが、当然のように気遣う声色で尋ねた。
「ね、サクラ。血縁ではない他者を許しもなく、目上の方を私的な名で呼ぶのはとても無礼なことなのです。男女であれば一層ね。婚約者である王太子殿下からはともかく、婚約者である私でさえ、人目のある場所で呼べば礼儀知らずと誹りを受けるものなのです。貴方がそのことを知らなかったのは仕方がないとして……どうして、殿下をお名前で呼びたいと思ったの?」
その問い掛けに、泣きじゃくる彼女は涙声で「仲良くなりたかったの」と答えた。
「さい、最初、にね、こっちに来たばっかりの時に、優しくしてくれたのが殿下だったの……女官さん達とか、お城の人たちはみんな優しかったけど、すごく距離があるように思えて、でも、殿下は、私のことを…………」
「お優しい方ですもの、我が国の王太子殿下は」
感情がある程度落ち着くまで、エルドリーザはサクラにそれ以上何も言わなかった。啜り泣きが緩やかになるには少し時間が必要だった。
エルドリーザは二杯目の紅茶を注ぐ。そしてサクラの嗚咽が小さくなったのを見てから次の質問へと移った。
「サクラ、貴方はノアベル王太子殿下に想いを寄せているのではないですか?」
その質問にサクラは俯いたままで答えなかった。その様子自体が答えだった。
王太子の婚約者は「そう」と呟いて続けた。
「王族と流浪者が婚姻した前例はありますから、殿下と貴方の想いが同じであれば夫婦になることはできますよ。そうなった場合は、貴方を正妃にするか、側妃にするか、公妾に留めるか。その内のどれかになるのではないかしら」
説明書きを読むような感覚で彼女は言った。サクラは驚いて顔を上げる。エルドリーザの美しい顔に嫉妬や嫌悪を探すが何も無かった。
「イルゼカインさんは、殿下のことが好きじゃないの?」
サクラはエルドリーザにして見れば幼稚に聞こえることを尋ねる。それを笑うこともなく彼女は答えた。
「私は殿下を守るために選ばれたようなものですから。幼い時分には反発する貴族派閥から離反はおろか、暗殺される恐れもあったのです。それに対抗するために選ばれたのが我がヘルロンド家でした」
カップの縁をなぞりながら、エルドリーザは少女を諭すように続ける。
「実際のところ、想い合い、愛し合って結ばれることは貴族社会においては難しいものです。王族ともなれば殊更……そのことは殿下もお分かりだと思います。私達の間に恋愛感情は存在していません。ノアベル王太子殿下からは尊重を賜り、私からは忠誠をお捧げする。私達の関係にとってはそれが最善の状態なのですよ」
与えられた答えはサクラに飲み込めない感情を抱かせた。安全で安定した現代社会で今まで生きてきた彼女には、エルドリーザの語る二人の関係はあまりにも無機質なものに思えた。
「………………もしも、殿下が誰かを好きになって、その人とだけ結婚したいって言ったら?」
「殿下の御心に従うまでのことです。王太子の地位が揺るぎないものとなっている現在において言えば、私は既に役目を終えておりますから婚約解消になることは問題ありません。国益を損なう婚姻で無ければ国王陛下もお許しになるでしょう。殿下とは幼い頃から一緒でしたから、私としても幸せになって頂きたいですし」
「なんでそんなに、なんでもないことみたいに言うの? それに殿下は貴方みたいに思っていないかもしれないじゃない」
飲み下せないままに呻き呟く少女に対して、エルドリーザは「事実ですからね」と微笑む。
「長々とお喋りに付き合わせてしまいましたね、サクラ。私が言いたかったことは『貴方がとても危うい立場にある』ということなのです。単なる外来種ではなく、ノアベル王太子殿下に相応しい存在になりたいのであれば、血の滲むような努力が必要だということも」
真っ直ぐに、真っ青な青い二つの目がサクラを射貫く。涙を拭った異世界の少女は真っ直ぐと見つめ返した。
「今の貴方は家庭内である程度の躾を受けて入学する新入生達より物を知りません。まずは、彼等に混じって話し方や立ち振る舞いなどの基本的な礼儀作法を学ぶところから始めなくては」
鐘が響いて、授業の終わりを告げる。エルドリーザは紅茶を飲み終えると「先生方にご相談しに行きましょう」とサクラに言った。
学園で生徒達が学ぶのは貴族社会の仕来りと読み書き、計算、政治経済の概論を基本としている。それに加えて領内政、家政、魔術、軍事、歴史、外交、芸術、文化、語学、神聖学、儀式学、法律、経理等と様々な分野を家や本人の意向で選択して学んでいく。
異世界から落ちてきたサクラは会話こそ問題無かったが、文章の読み書きができなかった。そのため国の文化や慣習についての講義と合わせて、初等程度の読解と記述について学んでいた。
それでは足りないことを教えられた話し合いの後、サクラは教師達と相談して受ける講義を見直して増やした。
何も知らなかっただけで、教えられたことを理解する能力がサクラにはあった。所作や言葉遣いには訓練が必要ではあったが、半年間で高位貴族に対する手紙を読んで返信を書けるようになった。
魔術の講義を受けたことで彼女の治癒魔法に関する知識と技能は最高位に至った。学園を卒業したらすぐにでも聖職者の要職に就くことができると講師からお墨付きが出るほどだった。
それに友人もできた。読み書きができなかった時は隔離されて教師と一対一の状態で講義を受けていたが、受ける講義が増えたことで王太子や側近候補達以外と知り合う機会も増えたことが切っ掛けだった。
異世界からやって来た少女が知識を得て成長していく姿を、アレルクスとエルドリーザは素直に喜んだ。これで彼女の死ぬ可能性が減ったと。
共に茶会を楽しむこともあったし、読めない文字への恐怖が薄れたお陰で王都の街中を友人達と歩けるようになった。
アレルクスの目に守られるだけの存在として映りたくない。好きになってもらいたい。ただの異世界人で終わりたくない。好きだって言いたい。
そういった、サクラを突き動かす感情は彼女の成長を促し、努力は実を結んだ。
いつしかアレルクスは哀れむ存在でしかなかった少女に、健気さと野花の可憐さを見出すようになっていた。
王太子の婚約者は彼の心に変化が訪れていることを察していた。しかし彼女はなんとも思わなかった。
どうでも良かったのだ、王家の忠臣たるヘルロンド家の娘にとっては。エルドリーザは国と王家が存続し、繁栄すれさえすればそれで良かった。
そう自分に言い聞かせていた。
そうして一年が過ぎて、冬を迎えた。王と王妃、アレルクスの兄達、そして大臣達が危惧していた食糧難はその年になって初めて目に見えるものになった。
王都から遠い寒村での餓死者数は昨年より三割も増え、主食糧の流通は例年の平均を下回った。暗い雰囲気が国中に立ち込めていた。飢えに苦しむ貧しい民衆の不満が大きく膨らんでいた。
王家が対策に奔走する中、領民の募らせる不安を感じ取った貴族達は自分の息子や娘を通して王太子から王家の動向を聞き出そうと画策していた。中には付け入る隙や批判材料となる粗を探す輩も混じっていた。
優しいアレルクスは涙混じりに民衆の過酷な運命を訴える令嬢や、自身の無力者に憤りを覚える令息の訴えに耳を傾けた。善良な彼等、彼女等の助けになろうとした。
しかし結局、自分は王太子といえど所詮学生の身分であるために王家の公開されている情報以外のことを口にすることはできず、特別な計らいをすることもできなかった。
疲弊し消沈していく王太子に変わって、エルドリーザが前に立って彼を庇うようになるのは必然だった。
絶対的な法の遵守者であり、王家の忠臣でもある婚約者は集る蠅を払うように群がる青々とした善男善女達を冷淡な一瞥で追い払い続けた。
加えて、エルドリーザは父からある勢力の存在を示唆されていた。王権を奪取し、王族を殺し、聖職者を殺し、貴族を殺し、その全てを奪って平民に分け与えることを掲げた反体制派のことを。
反体制派の思想は既に王立学園の中にまで入り込んでいた。過激な思想と言動に惹かれる清い青少年達が理想を実現させようと奮闘していた。
連中は王太子を引き込めないと理解すると、次に目を付けたのは中途半端に知恵を付けた異世界の少女だった。
アレルクスに相応しい存在になるために、無知な外来種から脱却するために、必死になって勉学に励んでいたサクラに、反体制派は近付いた。善性が強い彼女の心に響くように文言を調整して彼等は訴えた。
貧民達は日々の貧しい暮らしにさえ苦しみ、王侯貴族達は飽食に耽り享楽に浸っている。持てる者は弱き者、貧しき者にその富を差し出すべきである。持てる者とは王家であり、貴族社会の”番外”に君臨するヘルロンド家である。
王家は己の傲慢さと無慈悲さを懺悔し、その首を含めた全てを国民に差し出すべきである。王さえ裁く平等と法を尊ぶ者であると自ら称するヘルロンド家は他の貴族家に先駆けて全ての税を撤廃し、溜め込んでいる物資を放出すべきである。
サクラにそう語って聞かせた反体制派の主張は事実が誇張され、虚飾されていた。初めはサクラも彼等を警戒していた。内容の過激さに腰が引けたのだ。
しかし彼等がサクラを学園から誘い出し、貧民街の現状を見せて実情を訴えれば、純真な少女の心は容易く揺らいだ。
痩せこけた母親が涙ながらに幼い息子を飢餓で失ったことを語るのを見て、サクラは正義感と恵まれた自身の境遇への後ろめたさを刺激された。
弱り、悲しみ、恨み言を吐く人間は幾らでもいた。大勢が彼女の前にやって来て悲惨な現状を罵るように語り、明るい未来が欲しいと訴えた。
この人達を救いたい、とサクラが思うのは当然だった。しかし彼女の自由になるものは自分の魔力による治癒魔法しかなく、生活費として王家から支給されている額は誰かを救えるほど多くない。
何もない異世界の少女が頼る相手として思い付くのは一人だけだった。
数日間も悩み、その間も友人に扮した反体制派に纏わり付かれ、結局サクラは王太子を頼った。
彼なら自分ではできない何かができるのではないかと、不確かな希望に手を伸ばした。
冬の半ば。ある日の授業終わりに人目を避けるようにして、生徒達がいなくなった教室でサクラはアレルクスに自身のもどかしさを話して悩みを打ち明けた。
想いが募り始めていた相手から相談を受けたアレルクスもまた悩んだ。
自分にもできることが無いのだと正直に言えず言い淀み、縋る少女の視線に言葉を詰まらせた。王太子として民衆の苦しみを思わない日はない。手立てがあればどうにかしたい。
しかし現状はどうにもできないのだと、彼は自覚していた。
謝罪の言葉を口にして、「君に頼み事をしてくる人間達からは距離を取りなさい」と忠告しようとした。
そこに、王太子の婚約者が現れた。
「殿下、それにサクラも。次の授業に向かわれなくてよいのですか?」
「エ、エル……」
何もやましいことなどしていないアレルクスだが、少しの後ろめたさを覚えたせいで力なく彼女の名を呼んでしまった。
「殿下に相談したいことがあったんです、イルゼカインさん。貧しい人々が辛い目に遭ってるからどうにかできないかって」
何も気付いていないサクラが悲壮な表情で話すのに対して、エルドリーザはいつものように美しく微笑んでいた。
「あらそう。サクラ、私もそのことで殿下を交えてお話ししたいことがあるのです。ノアベル王太子殿下、いつでも構いませんのでお時間を頂けませんか?」
「その口振りだと、すぐにでも話したいのだろう? 授業が終わったら迎えに行くよ。談話室の空いているところを借りて話そう」
長年付き合ってきた幼馴染みとしてアレルクスは婚約者の真意を汲み取る。エルドリーザは「ありがとうございます」と頭を下げて、自分の受ける授業へと向かった。
「俺達も行こうか」
彼に促されて、サクラは我に帰った。表情の変わらない婚約者の機微に気付いてその望みを叶えるアレルクスの姿は正しく王子様で、二人の間にある信頼関係を改めて彼女は思い知らされた。
それが悔しくて、少し妬ましかった。彼に対してイルゼカインは何の感情もないのに、と。
俯いた少女にアレルクスは気付いて声を掛けた。
「サクラ?」
「あ、ううん。ごめんなさい。何でもないんです」
気遣う彼にサクラは微笑みを浮かべて見せた。
授業が終わり、アレルクスとサクラ、そしてエルドリーザは談話室で小さな円卓を囲んでいた。
侍女にはお茶の用意をさせてすぐに退室させ、廊下から室内が見える位置に待たせた。男子生徒が王太子のみという状況なので、長く話し込むのであれば狭い談話室の扉を閉めるわけにはいかなかった。
サクラは二人の顔が自分に向いたのを切っ掛けにして話し出した。貧民街の現状、虐げられる人々、炊き出しの手伝いをするぐらいしかできない無力な自分、反体制派の主張、富の分配、平等、権力の横暴、明るい未来への渇望。
頷いて彼女の話を聞くアレルクスとは対照的にエルドリーザは仮面のような笑みを浮かべて何の反応もしなかった。
サクラは堰を切ったように話し続け、それが終わると不安を隠さない表情で「どうしたらいいの?」と彼等に尋ねた。
王太子はテーブルの上で握り締められていたサクラの手にそっと自分の手を重ねて、エルドリーザのほうを見た。
迷いながらも覚悟を決めた表情を彼は浮かべていた。
「エル、俺に割り当てられている王族費を貧民救済に使うことは可能か?」
そう問われた婚約者は笑みを崩さないまま首を傾げた。
「詳細は当代への確認が必要ですが、一定の金額以下であれば王家財務監査罰則規定には抵触しないかと。しかし殿下、貧民街の住人全てを春まで保たせるのは不可能です。不足した分はどうなさるのですか?」
「……君が許してくれるのであれば、交際費を使いたい」
「婚約者への贈り物や遊興に使うための費用ですが、解釈次第ではありますね。それでもやはり貧民全員を救うには足りないでしょう、ノアベル王太子殿下。殿下は国王陛下、王妃殿下、兄王子殿下方が大臣の皆様と共に奔走させれていることはご存じかと思います。領民を飢えさせまいとする貴族達の賢明な努力も。殿下の考えられた策は猛火に小さな杯の水を注ぐようなもの。根本的な解決にはなりません」
エルドリーザの答えにサクラは問いを重ねた。
「イルゼカインさんの家は、王様相手でも平民相手でも平等なんでしょう? それに食糧を沢山蓄えてるって。貧しい人々のためにお金を出そうとか、備蓄した物資を分けようとか思ったりしないの?」
無礼な物言いを注意するようにアレルクスは少女の名を呼ぶ。エルドリーザは怒るどころか一笑に付した。
「サクラ。我がエルロンド家は王家専属財務監査官……その対象が我が王であっても裁くことを義務付けられた御役目を初代国王から拝命しています。ですが同時に、辺境を外国と異民族から守るディグレンゼ領々主でもあります。我が家の資産と糧秣は国境防衛のためのものであり、王都の貧民を養うためのものではないのですよ」
溜息を吐いて、エルドリーザはサクラを呆れた顔で眺めた。
「お友達選びに失敗しましたね、サクラ。今日、私が殿下の同席をお願いして話そうと思っていたのはそのことについてなのです。殿下、サクラからの又聞きにはなりますが、"彼等"の主張を聞いてどう思われましたか?」
婚約者にそう尋ねられたアレルクスは悔しげに唇を噛んだ。
「自分の無力さを思い知らされるよ……俺が学生じゃなかったら、もっと何かできるんじゃないかって……」
それを聞いてエルドリーザの顔はまた仮面の微笑を形作った。
「いいえ、お優しいノアベル王太子殿下。"彼等"、いえ、"反体制派"の主張はただの大逆罪です。王家や貴族を倒せば民衆が助かるような妄言を垂れ流していますが、根本的な問題は不作と輸入量減少による食糧全体の不足です」
美しい子女の口から出たのは確固とした諫言だった。
「確かに不正を行う代官や領主の存在は否定できません。ですが『貧富の差』と称して王家と特定の高位貴族が富と食糧を独占しているように思わせる主張は無自覚ならば問題を理解しておらず、自覚があるなら悪質です」
彼女の言葉に、サクラは愕然としていた。エルドリーザが指摘した点を分かっていたのであろう王太子は厳しい顔をしている。
「君の言い分は正しいよ、エル。でも苦しんでいる人々には……」
「ええ、関係ありませんね。彼等は自分達の境遇が好転することを願っているだけ。そして憎しみをぶつけられる存在が欲しいだけ。全てはそれを煽る害虫達が悪いのです」
微笑む婚約者は異世界の少女に視線を向けないまま、淡々と言葉を続けた。
「殿下、サクラに反体制派が接触した段階で彼等を処すべきでした。彼女に付けていた護衛から報告と進言を受けていたはずですよ」
「それは、そうだが……」
「彼等が欲しいのは旗頭です。王家を打倒するためだけのシンボルが欲しいだけなのです。そうして、内乱が起きれば貧しい者が大勢死ぬことになるでしょう。それこそ、餓死者を上回るほどに」
エルドリーザは顔色が土気色になったサクラを一瞥し、年嵩の女が幼い女児を見て「困った子ねぇ」と苦笑する時のような表情を作った。
「もう貴方にできることはありません、サクラ。貴方は貴方ができる範囲で最大限の努力をしました」
断言し、言い聞かせようとする王太子の婚約者に、サクラの握っている拳は震えていた。
少女は激しい怒りを抱いていた。目の前の大貴族の娘にも、自分自身にも。
その震えをアレルクスも重ねていた手から感じていた。
「イルゼカインさんは、何とも思わないの? 沢山の人が苦しんでいて、辛い目に遭っていて……その人達のために何かしたいって、今の国の状態は、間違ってるかもしれないって…………」
彼女の言葉にエルドリーザは片眉を持ち上げた。それから王太子を見る。美しい青年の顔は曇っていた。
「サクラ、不敬ですよ。貴方は自分が何を仰っているのか理解しているのかしら」
「分かってる、分かってるって」
「何も分かっていません。それを他者に聞かれてしまえば、殿下は貴方を重く罰しなくてはいけなくなります」
サクラはエルドリーザの言葉にはっとしてアレルクスに視線を向けた。彼は何も言うまいと唇をきつく結んで、彼女の手からそっと自分の手を離す。
王太子の心が離れていくような気がして、少女は酷くショックを受けた。
紅茶を飲む気さえ無くなったエルドリーザだが、貴族として笑みを絶やすことはなかった。
「貴方や他の流浪者がいたあちらの世界では、民衆が選挙によって王を決めると聞いたことがあります。いずれ、こちらもそうなるのかもしれません。王権が民衆達に委ねられた、身分差のない時代が」
かちゃん、と彼女がカップをソーサーに置く音は、この世界に落ちてきた「お客様」の考えを砕くものだった。
「ですがそれは『今この時』ではありません。仮にこの瞬間に王家が倒れたとして、貧しい民衆に平等が訪れるとは思えません。平民の中にいる富と武力を持つ者が上に立ち、『貧富の差』が貧しい者をより苦しめ、そしてまた支配者を倒した者が新たな支配者を決める争いが長く続く…………今、飢えている者達がいる中でするべきことではありません」
エルドリーザの瞳は青さを増して凍てつく海のような色になる。泰然とした彼女が荒れ狂う激情を抑え付けていることを、王太子と異世界の少女は知らなかった。
「サクラ、彼等との関わりは全て断ちなさい。今の状態で摘発が始まれば、王家は貴方のことを罪に問わねばなりません。貴方が誰かの助けになりたいと願うことは間違いではありませんが、それに付け入る敵がいることを自覚しなさい」
言葉の底に「お前の愚かさは罪であり有害だ」と侮蔑を込めてエルドリーザはサクラを戒めた。
耐えきれなくなったのか、サクラは何も言わずに立ち上がって談話室から出て行く。
取り残されたアレルクスは椅子から立ち上がりかけて、悩んだ末に座った。婚約者は王太子のその姿に案じるような視線を向けた。
彼の優しい性質と「自分の裁量権を越える話し合いでは沈黙を選ぶ」という賢明さは、端から見ればただの逃げ腰に見えた。
「彼女を追いかけないのですか? 殿下」
エルドリーザにそう問われたアレルクスは額に手を当てて深い溜息を吐いた。
「俺がそれをしたところで、サクラをより追い詰めることになるだけだよ」
「それでも追いかけてあげてください。殿下が気に掛けてくれている、という事実が彼女の慰めになります。それとも、サクラへの想いはもう尽きてしまいましたか?」
アレルクスが息を飲んだ音は嫌に大きく響いた。怖々と青年は自身の婚約者を見た。
「エル……君は、いつから」
「あの娘が学園に来てからずっと。サクラは貴方に恋慕を抱いています。殿下が望まれ、国王陛下、王妃殿下がお許しになるのであれば彼女を伴侶にすることができます。私はそれでも構わない、と考えています。現状では公妾として召し上げるのが最上になってしまいますが、反体制派は掃討しつつ彼女の奉仕活動は続けさせて、」
つらつらと話していた婚約者にアレルクスは慌てて口を挟んだ。
「構わない? どういうつもりでそんなことを言っているんだ、エル。君は俺の婚約者だろう?」
「ええ。ですが、私は既に婚約者としての役目は終えていると考えております。ここ数年は宮廷内の勢力図は安定しており、殿下や王家の方々の暗殺を画策する者も全て処分を済ませました。恐るべきヘルロンド家の娘という『盾』としての役目を終えたのだと、当代に報告しても問題ないと判断します。サクラに纏わり付く害虫達を綺麗に駆除して、詰め込みで基礎教育を施せば彼女を婚約者とし、伴侶に迎える許可を得られるでしょう」
エルドリーザの静かに流れる川のような言葉の羅列に、王太子は呆然としていた。彼の家庭教師や侍従、側近候補でもある友人達から聞いていた「よくある婚約者の胸の内」とはかけ離れていた。
だから思わず、幼稚な質問をしてしまった。
「君は、俺を愛しているか?」
王太子の婚約者が返した答えは曖昧な微笑みだった。
「私にとって、ノアベル王太子殿下は父や家内の者達を除けば最も長い時間を共に過ごした方です。どんな時も幸福であって欲しいと願っています。これを愛情と呼ぶのであれば、私は貴方を愛しています」
「それはもしも俺が、君以外の女性を選ぶとしてもか?」
「…………それについては、私が思い悩み、この身を焦がすことはありません。私の不在が殿下の幸福に必要なのであれば、私はそれで構いません」
彼女の答えにアレルクスは寂しげな表情を浮かべて、困惑と諦めが混ざり合った悲しい苦笑を見せた。自分も同じだったからだ。
王太子は婚約者に断りを入れて席を立つ。そして、サクラの後を追った。エルドリーザは静かに彼を見送り、暫し紅茶のカップを見つめていた。彼女は自身の母を思い出していた。
「私はまちがえてはいけない。私はディグレンゼの娘なのだから」
小さな頃からのお呪いを小さく唱えてカップを口元に運ぶ。心は静かに凪いでいった。
まだエルドリーザが幼かった頃。ある日、自身の母親が突然胸を押さえて苦しみ、そのまま床に倒れて死んでしまう場面に彼女は出会した。
既に生死の概念を理解していた幼児は、死んでしまった母に生き返って欲しいと縋り付いて泣いた。死霊魔法が発現したのはその時だった。
家令から緊急の連絡を受けて帰邸したエルドリーザの父親が見たのは呆然と床に座り込んだ娘と、手足をぐちゃぐちゃと動かして藻掻く妻の死体だった。母本人の魂を呼び出すことに失敗して、複数の低級霊が死体に入り込んでしまったことが原因だった。
父は損壊していく妻の姿に言葉を失ったがすぐに適切な処置をし、泣きじゃくる小さな娘に言い聞かせた。「力の使い方を間違えてはいけない。お前はディグレンゼの娘なのだから」と、繰り返し、何度も。
以来、エルドリーザは愛情と執着の抑制を自身に課すことにした。
自分が母を愛していたからあんな真似をしたのだ。
もし父だったら? 爺やだったら? 乳母だったら? ばあやだったら?
もし、いつか現れる自分の伴侶だったら? いつか産まれるであろう子供だったら?
愛した者が死ぬ度にこんなことをするのか?
そうして、幼い魂には耐え難い恐れと強迫観念が刻み込まれた。
自分自身の力に対する怯えによって作り上げられた「未来永劫あんなことはしない」という彼女の誓いを、誰も知らなかった。
談話室で説諭されて以来、サクラは反体制派の人間を拒絶するようになった。
代わりに、王太子に断りも無くその場からいなくなるという無礼を働いたにも関わらず、追いかけてきてくれたアレルクスに相談して、神殿で行われている救貧活動に参加させてもらえるように取り計らってもらった。
神殿が行う救貧活動は炊き出しや診察、簡易手当を行う程度だが、絶対の安全が保障できないことから参加には制限を掛けられていた。それを王太子が自分に当てられている予算から援助するのと引き換えに、護衛付きでサクラと自身の参加を認めさせたのだ。
時にはアレルクス自身も参加する救貧活動にサクラはのめり込んでいった。倒れることも顧みずに限界まで治癒を施し、いつでも明るく炊き出しを手伝う姿は正しく聖女だった。この時点で既に彼女はこの国にいる誰よりも回復魔法に秀でていた。
異世界からやって来た少女の献身は神殿にいる神官達は勿論、平民達を大変に喜ばせた。王国の建国を祝う式典でサクラの奉仕に褒賞を与えようという王家の言葉に異議を唱える者はいなかった。
エルドリーザもまたそれに賛同と祝福を示した。
式典は晩冬の晴れた日に行われた。会場は昨年の秋頃に落成を迎えた神殿の会館だった。
平屋造りではあるが王城にも引けを取らない敷地面積があり、国内で最も大きい建物だった。内部もかなり広く作られていて移動するだけでもそれなりの時間が掛かる。
加えて、有事の際の避難所としての活用を前提に設計されているため、特殊な結界が張られていた。
結界は強い魔法阻害のもので、館内で魔法を使うには結界の対象外となるように術式を彫り込まれたメダルを身に付けている必要があった。
メダルは大人の男の掌と変わらない大きさで、着用者が魔法を使えば強い光を発するようになっている。模造はおろか製作自体が困難を極める代物で、式典に間に合ったのは十数枚だけだった。
そのため、当日は魔法阻害の対象から外れるためのメダルを持つのは王の近衛騎士や要所の警備兵といった十数名だった。
褒賞を受け取るに際し、この世界に落ちてきた時よりもずっと技量を増した治癒魔法を披露することになっているために、サクラにもメダルの一枚が与えられた。
積もった雪が白銀に塗り替えた地上を晴天の太陽が照らす中、エルドリーザは迎えに来た王太子にエスコートされて会館に入った。式典が始まるにはまだ早いが、式典に参加する王族への挨拶を父に代わって行うことになっていた。
もともと父も出席する予定ではあったが、巧みに騎馬を操って国境の村々を荒らす「平原の民」の問題やきな臭い隣国の動きのために、当主が領を離れるのは難しい状況だった。
どうにか数日前に領主邸から出立できてはいたが、到着する頃には既に式典が始まってしまっているだろうということでエルドリーザが名代として挨拶することになったのだ。
王族や高位貴族用に設けられた貴賓室でアレルクスに伴われた彼女は国王と王妃に謁見し、兄王子の一人である第二王子とその妃、そして先年産まれた長男にも紹介された。
もう一人の兄王子は臨月近い妃の体調に不安があるため王城で付き添っていると教えられた。
王太子の婚約者として、ディグレンゼ領々主ヘルロンド家の娘として相応しい挨拶をしたエルドリーザは王孫の誕生を言祝ぐ。
第二王子妃が静かに揺らす揺り籠の中で眠る幼子は両親の特徴をそれぞれ受け継いでいて綺麗な顔をしていた。
挨拶を終えて貴賓室を出た二人は会場に向かう途中で声を掛けられた。振り返ればサクラがいた。式典のためにと神殿が用意した白絹のドレスは女性神官が着る物のように露出が殆ど無い長袖長丈で、青い糸で裾と袖口、襟首に細やかな刺繍がある以外は装飾のないものだった。
彼女の首からは結界除外のメダルが下げられていた。
「サクラ、こんなところでどうしたんだ?」
アレルクスが問い掛けると少女は強張らせた顔で彼を見た。
「ごめんなさい、殿下。あの、少し話したいことがあるんです……二人だけで…………」
サクラから視線をちらりと向けられて、エルドリーザは片眉を上げた。
婚約者は言葉が淀んで曖昧な態度を取っている。未婚の男女が二人きりの状況になるのは拙い。それが三人共分かっているから一瞬の沈黙が酷く重苦しいものになった。
「式典の後では駄目なのですか? もう少ししたら始まってしまいますよ?」
エルドリーザの問い掛けにサクラは首を振る。
「五分だけでいいの! お願い! 殿下、イルゼカインさん!」
頭を下げる彼女に、王太子と婚約者は顔を見合わせる。困った顔でアレルクスはエルドリーザに頼んだ。
「エル、先に行っていてくれるか?」
それを聞いて彼女は仕方が無いと溜息を吐く。諫める気にもならなかった。
「分かりました。では私は席のほうに座っていますから、場所を選んで人の目に気を付けてください。サクラも」
エルドリーザの言葉に二人は頷いて、サクラの控え室があるのであろう方向へと廊下を進んでいった。婚約者を見送ったエルドリーザは不安を覚えながらも会場へと向かった。
「話したいことって?」
歩きながらアルレクスはサクラに尋ねる。一瞬の間があって、少女が答えた。
「私の控え室に、手紙が置いてあったの」
「手紙?」
「謝りたいから会館の裏にある備蓄庫のところに来て欲しいって、あの、最初に私を炊き出しを誘った子から……」
「炊き出し、って、あの連中か! すぐ警備に知らせなければ危険じゃないか!」
「そう思ったんだけど、なんで私の控え室に手紙が置いてあったの? 関係者以外入れないはずでしょ?」
サクラの言わんとしていることを王太子は理解した。警備がいるはずの会館内にあってはいけない手紙があるということは、侵入に成功しているという意味になる。警備が手引きをした可能性もある。
「なら、どうして俺を?」
「呼び出された場所が変だから、警備の人以外で信用できる人と一緒にあの子を探そうと思ったの。殿下の知ってる近衛の人とか、信頼してる兵士さんだったらあの子達の仲間になってる可能性は低いかなって思って……だけど、そういう人達に私が頼んでも聞いてもらえるか分かんなくて…………」
「確かにサクラが声を掛けるよりは俺のほうが良いだろうな。でもそれだったらむしろ、エルがいるほうが良かったんじゃないか?」
彼の言葉にサクラの足運びが鈍った。空足を踏むように舌の運びも悪くなる。それでも意を決して、彼女は答えた。
「イルゼカインさんは、たぶん、彼女を見つけたら犯罪者として捕まえるように言うと思う。でも、もし本当にただ謝りたいだけだったら私はそれを受け入れて、大事にならない内に会館から出て行ってもらいたいの」
「君は、彼女を庇う気なのか?」
アレルクスは真意を問う。それに対してサクラは「分からない」と答えた。
「今でも、騙されてたのかなって悲しくなる時もあるよ。だけど、友達だったなって思う時もあるの。そう思ってるから、何も考えないで捕まえてハイ終わり、ってしたくないの」
彼女の言葉を「甘い」と言って斬り捨てることが王太子にはできるはずで、そうすべきだった。
だがアレルクスという青年にはそれができなかった。
サクラの式典服には物入れがない。一人で脱ぎ着できないその服を着た状態では手紙を持ち出すことはむしろ危険だと判断し、見咎められるのを恐れて控え室に置いてきたままだった。
二人は近衛騎士の協力を王へ願い出る前に手紙を回収することに決めた。彼女の訴えだけでは近衛隊の助力を渋られるかも知れない、という懸念からだった。
控え室には侍女や神官を残していないし、手紙自体は式辞の覚え書きや魔法の勉強用に自作した冊子の束と一緒にしてしまっているので、意図を持って卓上を漁らなければ目には付かないだろう。
控え室までやって来て、サクラは「すぐ持ってくるから」と扉を開ける。アレルクスも彼女の後に続いた。
質の良い調度によって清潔さと静謐さが保たれた控え室の中央に、一人の女生徒が立っていた。
「マ、マイラン?」
動揺を隠せないサクラが彼女の名前を呼ぶ。異世界の少女に貧民救済を説いた反体制派の少女、ニンナ・マイラン・ペンルー子爵令嬢は濃い茶色の長髪を二つ結びにして垂らし、神殿にいる侍女見習いの服装に身を包んでいた。
小柄な体躯の彼女は地味で凡庸な顔立ちをしていて、細い眉と険しい眼差しは何処か神経質な印象を受ける。
目の下のクマが酷いマイランは、サクラに向かって後ろめたそうな表情のまま微笑んだ。
「サクラ! ああ、良かった。会えないって思ってたから……」
マイランはそう言ってふらふらとサクラに歩み寄り、そこで漸く王太子の存在に気付いて即座に頭を垂れた。
アレルクスは二人の間に入り込むように立って彼女に問い掛けた。
「ペンルー子爵令嬢、面を上げることを許す。君に聞きたいことがある」
「おこ、お言葉をお掛け頂き有り難き幸せにございます。な、なんなりと。王太子殿下」
頭を上げても視線を合わせようとしないマイランに対して彼の眼差しは厳しく警戒するものだった。
「君はなぜこの控え室にいる? 会館には招待された者や関係者しか入れないようにしているはずだ」
「父方の遠縁に当たる者が神官見習いをしており、本日も式典の手伝いをしております。私は彼に頼んで中に入れてもらったのです。サクラに、聖女様にどうしても謝りたかったんです」
「この控え室にいるのはどうしてだ? 別の場所で会いたいと手紙に書いていたと、サクラに聞いたが」
「はい。人のいない間に手紙を置いてすぐに部屋を出ようとしたのですが、サクラが侍女の方々と廊下を歩いてくるのに気付いて……つい咄嗟に予備用の衣装棚の中に隠れてしまいました」
つまり、マイランはずっと衣装棚の中に隠れていたのだ。今の今まで。
アレルクスは内通を恐れて警備を伴わずにこの控え室に来たことを後悔した。
王太子に庇われていたサクラは、彼の手にそっと触れてから前に出る。そして友人だった少女に向き合った。
「謝りたいって、何に対してなの? マイラン」
サクラの眼差しは真っ直ぐで、強い意志を灯していた。眩しげに聖女を見つめるマイランは答えた。
「貴方に、すごく迷惑を掛けたこと。そうよね、サクラは『世界渡りの聖女』だもの。立場があるもの」
うろうろと、マイランの瞳は揺れる。高熱に魘されているように見えて、サクラは病気を疑った。
「マイラン? ねぇ、大丈夫?」
「貴方に声を掛けなければ良かったの。貴方が立場を捨てられないって分かってれば、貴方が助けてくれるかもしれないって思わなければ良かったの。そうすれば同志達が捕まることはなかったのよ。私が馬鹿だったのよ」
これは謝罪ではなく聖女を詰る言葉だと、アレルクスは気付く。王太子の彼でさえ知らされていないところで反体制派の取り締まりが始まっていたらしい。
サクラは唖然としてしまい動けずにいる。
アレルクスは彼女の体に阻まれ、サクラは自分だけが友情を覚えていたことに意識が硬直した。
だから、マイランが一歩前に出て、聖女の首に下がるメダルに触れるのを阻むことができなかった。
眩い閃光が二人を襲った。
友人になったばかりの頃、学園で昼食を一緒に食べた時、「私、今の学年に上がって初めて精神干渉系魔法の講義を取ったんです」と彼女が話していたことを思い出しながら、サクラは意識を失った。
もうすぐ式典が始まる。エルドリーザは少し焦りながら目立たないように視線を周囲に巡らせた。
会場として使用される講堂はかなり広く、天井も高いために五百人を越える招待客がいるにも関わらず窮屈さを感じさせなかった。縁台の前に並べられた多くの椅子は全てが埋まっていた。
いったいアレルクスは何をしているのか、と婚約者の胸の内に不安が満ちていく。彼は約束事を破らない人だと自分に言い聞かせ、王太子と聖女の身に何かあったのではないかと別の不安が出てくる。
警備を呼んで確かめてもらうべきか、自分が探しに行くべきか、と彼女が悩んでいる内に刻限を迎えて鐘が鳴らされる。神官長、そして国王夫妻、第二王子夫妻の入場を知らせる鐘だった。
場内の人間達は立ち上がって頭を垂れた。エルドリーザも同様に、隣が空のままなのを気にしながら最敬礼で神官長と王族達を迎えた。
二人の席は最前列にあり、縁台の端に設けられている貴賓席に一番近い席だった。聖女の学友代表として、アレルクスが神官長と王の挨拶を終えた後に入場するサクラを迎え、縁台上へと連れて行くことになっていた。
王族は案内された席へと腰掛ける。第二王子の長男はいなかった。聖女が登壇して褒賞の授与を終えてから紹介する予定だが、それまでは乳母が貴賓室で世話をしているのだろう。
王の許しがあって全員が着席すると、神官長が挨拶を始めた。アレルクスがいないことに気付いた国王達の視線がエルドリーザに向く。婚約者は俯いて「探しに行くべきだった」と反省することしかできなかった。
長々と続いた挨拶が終わり、次に王が立ち上がった時。エルドリーザは屋内にいる内には殆ど感じることのない強い魔力反応を背中で感じ取った。
思わず振り返る。近衛兵や警備も、同じく席に着いていた人々も、それを感じ取って振り向いた。
彼等が目にしたのは、会場の一番奥で、両手を縁台に向ける侍女見習いらしき少女だった。彼女の首からは結界除外のメダルが下がっているのが見え、刹那、眩い光を発した。
魔法が発動し、少女の両手から業火が吹き出す。天井を焼き、壁を焼く炎に人々が飲み込まれた。
咄嗟にエルドリーザは席から飛ぶように駆け出して王に体当たりした。すかさず近衛の中にいたメダル持ちの騎士が駆け寄って魔法による防御壁を展開する。
炎は防御壁に阻まれ、地に伏せる格好になった王と彼女の頭上を舌先で舐めるだけだった。
大量の魔力を消費する魔法のために魔力を使い果たしたのか、すぐに炎は納まった。だが講堂のあちこちに火が燃え移り出している。他の兵達も王の下へと駆けつけて、他の王族達も連れて避難誘導を開始した。
防御壁の展開は縁台の付近ばかりであったために多くの人々が熱と煙に苛まれた。魔法を使ったあの侍女見習いの付近は特に酷く、助けようがなかった。
炎に飲み込まれた人間の悲鳴が講堂の中に響いた。
エルドリーザも近くにいた招待客達に声を掛けて出口へと誘導し、共に外へ向かおうとした。その時にある疑問が浮かんだ。あの侍女見習いが持っていた結界除外のメダルは、いったい誰のメダルなのかと。
気付けば彼女は外へと向かう方向とは逆方向に走り出していた。
避難誘導を行っていた兵達が制止の声を上げるがエルドリーザは振り返らなかった。
炎が天井を伝い、煙が立ち込める会館内を進む。何処を探せば良いかは分からないが、エルドリーザは婚約者を探した。
身を屈め、通路を進む。煙を軽く吸っただけで酷く咳き込んだ。聖女に宛がわれている控え室にはいなかったが、争った形跡は残っていた。
「殿下! ノアベル殿下!」
エルドリーザは婚約者を探し続ける。とうとう貴賓室のある区画にまでやってきた。
廊下には血痕があり、死体があった。騎士や神官、粗末な民兵のような服装の者。アレルクスの死体は無かった。
彼女が焦りに顔を歪めた時、甲高い悲鳴が聞こえた。廊下の奥からだった。騎士の死体から剣を引き抜いてエルドリーザは走った。
貴賓室が見えた。扉の前には必死にこじ開けようとしている民兵らしき男が二人いた。その後ろに似たような装備の男がもう三人。扉は部屋の内側から抑えられているようだった。
怒号を浴びせている男達を即座に敵と判断したエルドリーザは、足を止めることなく彼等に斬りかかった。彼女から見て一番手前にいた男の背に刃を振り下ろす。
粗末な鎧は斬撃を完全には防げず、首の付け根に深く刃が食い込んだ。致命傷だった。
男達が振り返る。一人、首から結界除外のメダルを下げている者がいた。エルドリーザは剣を引き抜き、構える。斬りかかってくる彼等は正規の訓練を受けているようには見えなかった。
大振りの動きを容易く躱し、エルドリーザは的確に急所を狙って切り返し、また男を斬り殺す。
ヘルロンド家の家紋と共に掲げられている「我は殺す者」というモットーにある通り、殺人者となることを定められたこの家に産まれた者は男女問わず人間を殺す訓練を受ける。
漏れなく幼い頃から受けている彼女にとって、訓練など殆ど積んでいない男達は簡単に殺すことができた。
白刃が煌めく。踊るようにエルドリーザは敵の攻撃を躱し、騎士の剣を軽々と奮う。喉や太股の内側を裂き、四肢の関節に切っ先を突き刺して捻る。男達は苦悶の叫びを上げて次々と倒れていき動かなくなる。
瞬く間に死体は増えて、残るはエルドリーザとメダルを下げた男だけとなった。最後になった男も剣を構えている。その切っ先は細かく震えていた。死ぬことを恐れていた。
殺す、とエルドリーザの殺意は一貫しているが冷静でもあった。相手が魔法を使えるはずであるのに使わない。その一点が彼女の踏み込みを留めている。
渦巻く炎が壁と天井を伝って近付いてくる。黒煙の量が増える。長引けば自分も男も、貴賓室の中にいる誰かも死ぬことをエルドリーザは自覚している。だから賭けに出ることを選んだ。
エルドリーザは踏み出す。男の首を切り落とすために剣を横薙ぎに振る。瞬間、男の首に下がるメダルが眩い光を放つ。同時に魔力反応を感じる。
男が魔力切れになっているほうに賭けたのだが、彼女は賭けに負けた。だがそうなった時の覚悟もしていた。
激しい光に目が眩んだエルドリーザだが即座に顔を思い切り逸らした。顔の左側に激しい熱を感じたが、そのまま剣を振り切った。手応えがあった。
メダルの光が失われて、真っ白になっていた視界が徐々に明瞭になっていく。エルドリーザは焼け焦げた顔の左側が訴える痛みに獣のような声で怒りを吠えた。
喉を切り裂かれた男は転がり、物言わぬ死体となっている。首から提げられていたメダルは紐が断ち切られて少し離れたところに落ちていた。
それを見付けた彼女は、治癒魔法を自身に掛けるために痛みを堪えながら手を伸ばして触れた。
だが、何も起きなかった。
「……………………ぁ?」
一瞬思考が止まったが、二度三度と試してやはりメダルは無反応のままだったことでエルドリーザは治癒を諦めた。恐らく紐自体も何らかの役割があって、それが断ち切られてしまうとメダルは機能しなくなるのだろう。
轟々と炎の燃え盛る音が聞こえる。彼女は激痛に耐えながら貴賓室の扉の前までやって来た。
「どなたか、いらっしゃいますか? 私はイルゼカイン・エルドリーザ・ヘルロンド、ディグレンゼ領々主の娘です。敵は無力化しました。もう火の手が迫ってきています。脱出を」
彼女の言葉からやや間を置いて、扉の鍵が開いた。エルドリーザは扉で身を隠すようにしながらゆっくりと扉を引く。中にいる人間に斬り掛かられたら一溜まりも無かった。
開いた扉の間から、乳母が倒れながら現れた。どうにか彼女を受け止めたエルドリーザだが一緒に座り込んでしまった。
声を掛けようとして、彼女は乳母の腹部が夥しい血で汚れていることに気付く。あの民兵の誰かに刺されたのだろう。手遅れなのは目に見えていた。
瀕死の乳母は何処も見ていない目を宙に彷徨わせながら、口をぱくぱくと動かしている。微かに声が聞こえる。
「なに? 何を伝えたいの?」
エルドリーザは耳をその口元に近付ける。乳母は今際の際で伝えるべきことを彼女に伝えた。「メアベル様を助けて」と。そして息絶えた。
確かに乳母の言葉を聞き取り、エルドリーザは彼女の体をそっと下ろして開いたままになっていた瞼を閉じた。それから立ち上がって貴賓室に入る。奥に揺り籠があった。
気絶してしまいたいと訴える体を引き摺って駆け寄った。
籠の中を見ると第二王子の長男、メアベル・アステリトス・アントピアが泣きじゃくっていた。揺り籠は彼女でも持ち運びできる大きさだが、両手で抱えなければならない。剣は持って行けない。
不安を抱きながらも武器を手放したエルドリーザは揺り籠を抱えて、出口へと向かった。
火の中をエルドリーザは身を低くして走る。時折、泣いているアステリトスに笑いかけてあやしながら、ひたすらに出口を探す。
敵が現れないことを祈りながら先を急ぐ。あまりにも心細くて泣きたくなって誰かに助けを求めたかった。だがそんなことに意味が無いことは彼女自身が一番よく知っていた。
幸運にも敵はいなかった。その代わりに炎と黒煙がエルドリーザの行く手を阻む。彼女は自分の体で塞ぐようにして、揺り籠の中に煙や飛び散る火の粉が入らないようにしながら先へと進んだ。
背中が熱い。着ている礼装には火の粉で所々に穴が空いていて煤けていた。火が会館の梁を焼き尽くそうとしている。一部が焼き切れた。支えが脆弱になったことで天井のあちこちが落ち始めていた。
出口が見えた。食糧や祭壇などを搬入するのに使う搬入口らしかった。
助かった、とエルドリーザは安堵した。その瞬間、頭上が崩れ落ちた。
崩落する天井の大きな破片が彼女の頭を砕いた時、直感的に両手に抱えていた揺り籠を放り出した。籠は運良く転がることなく地面を滑っていき、エルドリーザの体を潰す崩落から逃れた。
燃える瓦礫の下敷きになったエルドリーザは朦朧としながらも左足が完全に潰されていることを何となく感じ取った。
上半身はまだ両手が自由になるし、背中にも重い残骸はない。だが腰から下は瓦礫に埋まっている。一人では抜け出せそうにない。頭から血が流れて小さな水溜まりのようになっていた。
アステリトスの泣く声が聞こえる。
ああ、メアベル殿下が死んでしまう。助けなくては。誰か。助けて。誰か。誰か。泣いている声が聞こえないの? 助けて。
声を出すこともできず、身動きすることもできないエルドリーザができることは祈ることだけだった。誰かの足音が近付いてくるのを鼓膜が捉えた。
「エル!」
婚約者の、アレルクスの切羽詰まった声が聞こえた。彼の声を聞いて、エルドリーザは「殿下が無事で良かった」と思った。もう一人の声も聞こえた。
「殿下! 赤ちゃんがいる!」
「アステリトス! 良かった、無事だったのか!」
サクラがいた。アレルクスは揺り籠の中から甥を抱き上げて彼女に渡す。
「サクラ、君はアステリトスを連れて行ってくれ。俺はエルを助ける」
彼の言葉は消えかかった意識の中のエルドリーザにも聞こえていた。少女がそれを止める声も。
「無理よ! あれじゃ、もう……!」
ひと目で分かるほどの重傷なのだろう、とその言葉からエルドリーザは自分の姿を理解する。それなら早く二人で逃げて欲しかった。
乳母と騎士たちが命を掛けて守り、自分が必死になって連れ出した王家の子供を連れて、早く逃げることが最善の選択だと思った。
逡巡の間にも会館の崩壊は進んでいく。二人の足音が走り去っていくまでにそう時間は掛からなかった。
アレルクスが正しい選択をしたことに、死にかけている婚約者は安堵した。途端に死の気配が彼女に圧しかかった。
燃え盛る炎の中にいるというのに、体はどんどん冷えていく。
さむい。寒い。寒い。痛い。死ぬ。行かないで。怖い。死ぬのが怖い。置いていかないで。怖い。痛い。誰か。誰かたすけて。おとうさま。アレルクスさま。
エルドリーザの心は恐怖に飲み込まれる。だが、やがてそれも分からなくなった。
気付くと、エルドリーザは薄暗い部屋にいた。
見覚えのない部屋に一人、怪我のない姿で立っている。
部屋といっても柱と床があるだけで、天井は遙か頭上に赤い燭灯が見えるから「あの辺りが天井だろう」と推測するしかない。壁があるはずの場所からは星も月もない夜の海が見えた。
違和感しかない部屋にいる彼女の目の前には黒塗りの扉が一枚、壁もないのに立っていた。
異常な状況であるはずなのに、何の疑問も抱いていないエルドリーザはその扉に見覚えがあった。母が死んだ時に、目の前に現れた扉だった。
この世界の魔法の殆どは、誰もが学んで習得できる。「基礎魔法」と呼称される、火、水、土、風に分類される属性魔法、そして引斥力の魔法がそれに該当する。人によって得手不得手が変わるものの、生活の中に根差したものであるために習得しやすいと考えられている。
しかし例外的に、基礎魔法とは異なる系統の術式があった。血統によって遺伝するものや本人の才能によって目覚めるもの、知識や修練を元に獲得できるもの、他者から継承されるものなど様々だが、そういった魔法のうち、より特異な魔法を会得する際には「扉」が出現するとされている。
「扉」は自身を通った者に特別な力を与える。代償と引き換えに。ただし、代償を選ぶことはできない。そして逃げることもできない。
「扉」を開けた先にいるモノが、"それ"を奪い、"それ"を与えるのだ。
今、エルドリーザの目の前に現れたものこそがその「扉」だった。
エルドリーザは扉に付けられている複雑な造形の取っ手に触れた。
恐ろしい予感がある。
だが開けないという選択肢は何故か思い浮かばなかった。
有り得ないと分かっているくせに、開けた先にはひょっとしたら母が立っていて、自分のことを許してくれるのではないかと、そんな淡い期待さえあった。
扉を開ける。優しい闇が溢れてくる。彼女はその中へと誘われるままに倒れていく。懐かしい温かさの泥濘に俯せとなって、何も見えないまま静かに沈んでいく。
四肢が溶けていく。耳も鼻もぐずぐずに溶けて、眼球は眼窩から落ちて、舌も口腔から外れて落ちた。
全てが温かい泥の中へと溶けていく。全てを忘れていく。自分が何者であったかでさえ。
強い眠気に襲われる。彼女は酷く安らいだ気持ちで全てを受け入れていた。
頭蓋が半分以上溶けて、浮遊感と共に意識が薄れていくのを受け入れていたエルドリーザは、いきなり激しい痛みを覚えた。
遙か遠いところから届く星の光のように、現実に置き去ってきた彼女の肉体が引き起こした魔力暴発の激痛は今になって漸く届いたのだ。
辺境から式典会場へと駆け付けたカインシルト・レーヴァト・ディグレンゼ・ヘルロンドが見たものは、懸命な消火活動にも関わらず燃え盛る会館の姿だった。
脱出できた人間たちは怯えと共に会館を見上げている。王族も近衛騎士たちに守られながら、少し離れた場所で見ていた。娘の姿は何処にも無かった。
彼は急ぎ馬から下りる。本当は王都邸に一度寄って正装に着替えるはずだった。しかし王都には入った時点で建国式典強襲の知らせを受け取り、旅装のまま騎馬で式典会場へと向かったのだ。
辺境を守る男の、肩に届くまで伸ばされた白金の髪は土埃によってくすみ、深い血色の瞳には疲れが浮かんでいた。
最愛の娘を避難者達の中に見付けることができなかったレーヴァトは、騎士達に守られている王太子の元へと向かう。
王太子の傍には娘ではない女が寄り添っていた。服装からして神殿関係者、恐らく異世界から落ちてきた流浪者なのだろうと彼は見当を付けた。
「殿下! ノアベル王太子殿下!」
彼の名を飛びながら辺境守護を務める男は向かう。婚約者の父に気付いたアレルクスは、壮年ながらも美しい勇士の顔が疲労と混乱を浮かべているのを見て目を見開き、俯いた。
隣にいる女はアレルクスとレーヴァトを交互に見ては怪訝そうにする。王太子の表情に不穏なものを感じてレーヴァトの脳裏には最悪の想像が浮かんだ。
アレルクスの前に立ち、エルドリーザの父は彼に問い掛けた。
「挨拶なく声を掛けることをお許しください、王太子殿下。ですが我が娘イルゼカインの姿が見当たらないもので……娘が貴方のお傍を離れることは無いはずですが、いったい、何処に…………」
婚約者であるはずの青年は今にも泣き出しそうな子供のように苦しげな呼吸で、謝罪の言葉を吐いた。
「すまない、すまないっ、カインシルト殿!」
その言葉の意味を、レーヴァトはすぐには理解できなかった。無自覚に脳が理解を拒んだ。
「どういう意味です、それは? なぜ、殿下は娘と一緒ではないのですか?」
遠巻きにしている招待客や国王達の視線に気付かないようにしながら、父親は愛娘の婚約者に問いを重ねる。
偉丈夫の見下ろすような視線からアレルクスを遮ったのは聖女扱いされている流浪者だった。
「待って! 殿下を責めないでください! 私が、私が全部悪いんです!」
「駄目だサクラ。俺が、俺が自分で言わなければ、」
「助けようとした殿下を止めたのは私です! でもイルゼカインさんは、あの時にはもう……手遅れで…………」
王太子は彼女を下がらせようとしたが、サクラは決して動かなかった。目の前にいるイルゼカインの父を見上げ続けた。
彼の表情が困惑と恐れから、顔色が黒ずむほどの絶望と憤怒に塗り変わるのを怯えたまま見ていた。
レーヴァトが腰の剣に手を掛けようとした時、爆発音が響いた。全員の視線が音の発生源である会館へと向いた。
会館の一部の壁が大きく吹き飛んだ。崩れた壁の穴からは濛濛と黒煙が吹き上がっている。その中から火達磨の何かが這い出てきた。それが人間であることなど、誰もすぐには分からなかった。
助けを求めるように、炎に包まれたそれは雪の上を這って彼等へと向かっていく。
やはり、一番最初にそれが誰であるのかを察したのは父だった。
「エルドリーザ!」
悲鳴に近い声で娘の名を呼んだレーヴァトが駆け出す。彼に着いてきていた従者もその後を追った。
火達磨になっている娘は力尽きたのか、踏み躙られて泥混じりになった雪の上に転がって丸まった。
傍まで辿り着いた二人は自分の外套を外すと叩きつけるようにしてその火を消そうとした。魔法を使おうにも結界に阻まれていた。
「医官! 神殿医官はいないのか! 領姫様が死んでしまう!」
「誰でも構わん! エル! エルドリーザ! すぐ消してやるからな! 誰でもいい! 早く来てくれ!」
振り返った従者が避難している人間達に向かって声を張り上げた。レーヴァトも必死に火を消し続けながら助けを求めた。そこで漸く数人が駆け寄ってきた。
アレルクスは彼女の元へは行けなかった。足に太い根が張ったように固まって走り出すことができなかった。
サクラは彼女の元へは行けなかった。やむなく見捨てた人間が生きていた事実に対し錯乱状態に陥っていた。
エルドリーザは一命を取り留めた。彼女は王都の屋敷に運ばれて治療を受けたが、見る影もない姿になった。
王立学園の卒業式典後、王城の議場で建国式典襲撃に関する査問会議が開かれることとなった。
今日開かれたこの査問会議は審議事項を王の前で確認することで全員が合意に至っていることを再確認するための儀式であり、査問対象への懲罰を宣告する場だった。
査問対象は神殿長や神官達、近衛騎士、警備を担当した兵士、反体制派の摘発や襲撃犯達の取り調べを行っていた憲兵隊、そして王太子と異世界から落ちてきた流浪者の少女である。
アレルクスは査問会議に出席していたが、先んじて謹慎を命じられているサクラは卒業式典にも出席せずに王城の離宮にいた。
殆どのことが王と選定された議員達の間で事前に決まっているために、査問会議は淡々と進んでいった。
襲撃犯達については実行犯の殆どが死に、生き残りは全て捕縛している。
建国式典の流れには問題無かった。
結界除外の機構には欠点がある。
警備計画は神殿への阿りが目立つ。
神官見習いの手引きが無ければ襲撃は起きなかった。
手引きした者は死罪が確定している。
憲兵の取り調べと調書に誤りはないか。
事件当時までに検挙されていた反体制派側への捜査と逮捕、及び取り調べは法に則って行われていたか。
王太子殿下と聖女の行動は正しいものと言えるのか。
ディグレンゼ領々姫、王太子の婚約者であるイルゼカイン・エルドリーザ・ヘルロンドの行動は正しいものだったのか。
アレルクスは発言する時以外は自分の席で俯いたままでいた。査問会にはレーヴァトも出席しているが、濃いクマのある目は落ち窪み、憔悴しきっていた。
幼馴染みでもあった婚約者の父の、死人のような姿を見て同情する資格はないと彼は分かっていた。背中がじっとりと汗で湿った。
王太子ノアベル・アレルクス・アントピアと流浪者キサラギ・サクラは共にいたところを襲撃犯の一人であるニンナ・マイラン・ペンルーに襲われ、結界除外のメダルを奪われた。
流浪者の友人を名乗ったその襲撃犯は精神干渉魔法を二人に使用し、国王を殺害させようとした。しかし使用者が初年講習を終えた程度で技量が未熟であったこと、王太子と流浪者のほうが襲撃犯より魔力嚢が大きく、それに比例している魔法耐性を打ち破れなかったことで精神を操るまでには至らなかった。
異変に気付いた侍女と警備兵が控え室を訪れて確認しにやって来たため、気絶した流浪者からメダルを奪っただけで彼女と王太子を放置した。逃亡は間に合わず、その場に駆け付けた警備側と襲撃犯側の手勢による混戦となった。
警備兵の数名が王太子と流浪者を救出して脱出し、ニンナ・マイラン・ペンルーを含む数名の襲撃犯がその場から離脱して会館への放火を始めた。
残っていた警備兵数名が襲撃犯達を追ったものの、やはり魔法の有無が大きく彼等に死を齎した。
そしてあの惨劇が起きた。
意識を取り戻したアレルクスとサクラは王太子の婚約者が逃げ出さずに彼を探していると知って、避難者への対応に追われていた兵士達の目を盗んで会館内へと戻った。
結局、救えたのは取り残されていた第二王子の息子だけで、婚約者イルゼカイン・エルドリーザ・ヘルロンドの命は諦めるしかなかった。
だが婚約者は生きていた。生きたまま焼かれた。
火達磨になっても生きていた。
彼女の体内にある常人より二回りも大きな魔力嚢が魔力暴発を引き起こしても、生きていた。
神の奇跡か、度重なる死の危機を全て耐えたのだ。十八年間培ってきた美貌と知性と記憶を全て失いながらも。
暴発後に大きく膨張した彼女の魔力嚢は内蔵の大半を飲み込んだ。そして意識を失ったままであるにも関わらず、脳を瞬時に治癒し体内に防護膜を展開して生き延びた。神殿に張られた魔法阻害の結界は体内までをその効果範囲に指定していなかった。
あの日からずっと、アレルクスは自分の未来だけではなく聖女と婚約者の未来も閉ざしてしまったことに深く後悔していた。
部屋の隅で膝を抱えて動けなくなったサクラは彼を見る度に泣き出し、苦しげな懺悔を繰り返すようになってしまった。エルドリーザへの見舞いは断られ、手紙や花を送っても全て送り返された。
一度だけ、先触れを出せば断られることが分かっていたアレルクスは王城を抜け出し、供も付けずに婚約者が療養しているヘルロンドの王都邸を訪れたことがあった。
門前で止められ、エルドリーザにひと目会うどころか中に入ることさえできなかった。
「どうぞお引き取りください、王太子殿下」
締め切られた鉄柵門の向こうから、老境に差し掛かった険しい顔の家令がアレルクスを拒絶した。家令は火達磨になった婚約者の火をレーヴァトと共に消していたあの従者でもあった。
アレルクスは「少しで良いから彼女に会いたい」と食い下がった。
途端に家令も、門の両側で立哨していた騎士達も、激しい怒りの眼差しを彼に向けた。それは当然のことだと分かっている王太子だったが、辺境で長い時間を殺し合いに費やしていた男達の殺意にたじろいだ。
しかし踵を返す様子のないアレルクスに対し、家令は剣呑な視線のまま言葉を吐き捨てた。
「お引き取りを。ノアベル王太子殿下。領姫様は未だ傷が癒えず、何方であろうとお会いできる状態ではありません」
「俺は、エルの婚約者だ。扉越しでも構わない。彼女に謝りたい。そして、アステリトスを救ってくれたことに礼を言いたいだけなんだ」
「それは貴方様以外誰も望んではいません。我が主は大切に育てた、唯一の妻とされた御方様が遺された愛娘を『燃え滓』にされたことに今も狂乱しております。御身が目の前に現れたならば八つ裂きになさるでしょう。そして私共も、それを止めることはしません」
「…………っ、分かっている。当然だ。俺は、それだけのことをしたんだから」
「では命のある内に王城へお戻りなさい、王太子殿下。貴方様を殺めてしまえばたとえ当家と謂えどもお取り潰しになるでしょう」
「領姫様だけでは飽き足らず、ヘルロンド家そのものも破壊したいのですか?」と家令に問われてしまえば、アレルクスは頭を垂れて王城に戻るしかなかった。
そうして、王から死を言い渡してもらえたらどれだけいいかと思いながら今日の査問会を迎えたのだった。
査問会の終盤に差し掛かり、進行を務める議長役の宰相が躊躇いながらも最後から二つ目の審議事項を提示した。
「それでは皆様、外来種キサラギ・サクラの処分についてですが……当初は殺処分が妥当かと思われましたが、反対意見が出ました。意見者は、ディグレンゼ領々主カインシルト・レーヴァト・ディグレンゼ・ヘルロンド殿」
その名を聞いて、場内に軽い緊張が走った。王は案じるようにレーヴァトのほうを見る。
名を呼ばれて起立したレーヴァトの昏く淀んだ赤い瞳は王に、次いで宰相、最後にアレルクスへと向けられた。その瞳には何の熱もなく、真冬の嵐の海のように荒れ狂っていた。
「既に合意が成されている事項について、当日になって反対意見を申し上げることを皆様にはお許し頂きたく」
深く重々しい声でレーヴァトは初めに謝罪してから語り出した。
「建国式典襲撃により、多くの犠牲があり、それに対する懲罰が与えられました。神殿長は交代し、近衛騎士長は減俸及び降格。捜査に当たっていた憲兵隊は緊急で全体監査を受けることが決定し、警備計画の責により兵士長は懲戒免職。騎士団員や当日の警備を務めた兵士達にもそれぞれ懲罰を与え、手引きした神官見習いは斬首。襲撃犯の生き残りは姻戚筋を含め三族までを連座で死罪とし、墓も与えない。その責を鑑みれば妥当でしょう。そして私の娘にも、既に罰が与えられています」
あれだけ娘を愛していた父親とは思えぬ発言に人々は動揺する。どう考えてもエルドリーザは被害者だった。婚約者である王太子のせいで、死んだほうが良かったと思えるほどの被害を受けた哀れな少女だった。
レーヴァトの言葉は乱れることなく続いた。
「我が娘イルゼカインは、愚かにも危険の中へ自ら飛び込んでいきました」
その場にいた誰もが、愛する娘を愚者と断じる男の放つ凍えた殺気に恐怖を抱いた。
「王太子の捜索は兵士達に任せ、避難するべきでした。第二王子殿下御子息の救出は娘が行わずとも可能だったはずです。そもそも、娘が王太子を日頃から諫めていれば襲撃を軽微な侵入事件に留められたか、発生を防げたやもしれません」
アレルクスの息が乱れた。静まり返った議場に不似合いな音が、彼の喉から飛び出した。
聞こえていないのか、それとも無視をしているのか、婚約者の父親は言葉を続けた。
「ご回覧頂いた報告書簡の内容を繰り返す形になりますが、娘の燃え残っていた視神経と蝸牛から魔法によって記憶を読み取った結果、娘は外来種に教育を施して人権を獲得させ、王太子の婚約者を譲るつもりでいました。王太子の想いを汲んで…………全く、我が娘のことながら大愚の極みでした」
響くのはカインシルトの渇いた笑い声だけで、聴衆は沈痛な雰囲気に沈んでいる。王も宰相達も、理知のある勇士として知られた彼が狂気に陥っているのだと思った。
「イルゼカインは王太子への忠誠を履き違えておりました。真に忠誠心を持つのであれば、王太子に盲従しその望みばかり叶えようとするのではなく、最側近として諫言し外来種を排除すべきだった」
忠臣の手繰る言葉に対する重苦しい溜息が、王の口から漏れた。それに背筋を震わせたアレルクスはエルドリーザの言葉が脳裏で繰り返されて目眩を覚える。
"私にとって、ノアベル王太子殿下は父や家内の者達を除けば最も長い時間を共に過ごした方です。どんな時も幸福であって欲しいと願っています。これを愛情と呼ぶのであれば、私は貴方を愛しています"
あれは、エルドリーザの本心であり、最大限の愛の言葉だったのだ。それをアレルクスは、自分が抱いていた親愛の感情と同じだと勝手に決めつけていただけだった。
レーヴァトの言葉は憎しみと怒りの限り続く。
「娘はその愚かしさ故に、此度の罰を受けました。最早あの子は外界を知覚する手段を持たず、記憶と言葉を失い、魔法による処置で痛覚を遮断しなければ一日に数百回は激痛によって気絶と覚醒を繰り返す地獄に放り込まれました」
王太子の息の根を止めてやりたいと願う男は一度息継ぎをして、慈悲とは懸け離れた致命の一撃を放った。
「確かに、娘は過ちを犯しました。しかしこれほどに、苦しまなければならないほどだったのでしょうか?」
まるで王太子に尋ねるように、視線をアレルクスに留めたままレーヴァトは一旦そこで話を終えた。青年は男の目を見たまま、今にも死んでしまいそうなほど青褪めるばかりだった。
意を決した宰相が問いを発した。
「それでは、ディグレンゼ領々主殿は…………外来種については殺処分が決定していますが、個人的な私刑を与えたいということですか?」
そう尋ねられて、恐るべきヘルロンド家の男は優しく微笑んだ。
「いいえ。我が娘イルゼカインの願いを汲んで外来種キサラギ・サクラに御慈悲をお与え下さるよう、国王陛下に私からもお願い申し上げます」
沈黙に支配されていた議場にざわめきが広がる。にこにこと、レーヴァトは王を見てから騎士の礼を取り頭を垂れた。
「我が王よ、どうかあの外来種に人権と王国民権をお与えください。私の娘が願ったように」
玉座の王は己に最も近い臣下の言葉に頷いた。
「相分かった。国王ジルアベル・サンテラス・ドミナンテ・アントピアの名においてそなたの望みを、イルゼカイン嬢の望みを叶えよう」
王の裁可にレーヴァトが礼を述べる。それから宰相へと顔を向けた。
「それでは宰相殿。現状口頭のみではありますが、以降は陛下の御裁可により外来種から王国民となったキサラギ・サクラへの処罰について改めて再考することになった、という認識で宜しいですか?」
「はい。王国民キサラギ・サクラへの処罰については、今までの奉仕活動の実績と王族救出の功績が認められるので王国法最上位の死罪は自動的に否決されます。しかし襲撃事件が発生した要因の一部でもありますので無罪放免にすることもできません。ですからまずは、後遺症が最も重いイルゼカイン嬢の保護者、ディグレンゼ領々主殿のご意見をお聞かせ頂けますか?」
宰相は安堵していた。王家専属財務監査官として、常に隣国や平原の民という外的脅威を牽制し続ける辺境領主として、ヘルロンド家の当代は苛烈にして冷徹であると周囲に知られている。だが一個人としては善良で娘想いの優しい父親なのだと、昔から交流のある彼や、王、その重臣達は知っていた。
知っていたはずだった。
笑顔のまま、レーヴァトは言った。
「厳罰を求めます。死罪の一段階下、肉刑を」
忠節と平等を掲げるヘルロンドの男は娘のために慈悲を求めたのではない。楽に殺すことはせずに、長く、長く、時間のある限り長く苦しめるために願ったのだ。
肉刑とは、両腕か両足のどちらかを選んで切断する刑である。彼が口にした刑は、ある意味では死罪よりも重い、高貴な身分の婦女子に下せば貴族達から批判されるほどのものだった。治癒魔法によって繋ぎ治すことは許されているが、治癒が間に合わないことのほうが多かった。
国王以下議場内の人間が彼の言葉に呆然として顔色を失う中、アレルクスは思わず立ち上がった。
「カインシルト殿!」
「王太子が想いを寄せる女は治癒魔法の才があるとか。イルゼカインへの癒やしは精神不安のために拒まれましたので私自身はその力量を知りませんが、聖女と呼ばれるほどの腕があれば肉刑など激痛を与えられるのみで大した罰にはならないでしょう」
「だが本人が治癒するなど無理に決まっている! 歴戦の騎士が痛みのあまり死ぬことだってある刑を、サクラが耐えることなど不可能だ!」
「貴方の婚約者である私の娘は顔を焼かれてなお、敵を皆殺しにした上で第一王子殿下の御子を火の粉から庇いつつ、会館奥の貴賓室から出入り口まで退避しましたが?」
アレルクスとレーヴァトのやり取りに危険を感じた宰相が割って入る。
「ディグレンゼ領々主殿のご意見は理解致しました。後ほど、国王陛下と我々で協議させて頂きます。次の審議事項に移りますのでお座り下さい。ノアベル王太子殿下もご着席願います」
興奮冷めやらぬ王太子は礼儀作法も忘れて椅子に座って頭を抱えた。対してレーヴァトは静かに腰を下ろす。そして目を瞑り、最後の審議事項には興味が無いと言うように両手の指を組んで沈黙した。
この査問会議で最後に話される事項は王太子ノアベル・アレルクス・アントピアの進退であった。国王が含む全員が合意して、王太子廃位と王籍の剥奪が決定した。
アレルクスは異議を唱えずに受け入れた。
査問会議後に追加された会議ではレーヴァトの要求通り、サクラには肉刑を与えられることとなった。「今後、治癒魔法を行使するのに障りがあってはいけないから」と、両足を切断することに決定した。
春の日差しが麗らかな日。立太子の儀が行われ、第一王子テルアベル・ソーラクス・アントピアは王太子となった。
元王太子のアレルクスは王族籍を失って臣籍降下となり、儀礼厩舎長という宮廷内の役職が与えられた。国の式典に用いられる王の馬の世話をするだけの役職である。
立太子の儀の同日にキサラギ・サクラへの刑が執行された。執行役は本日限り任命された男であったために、サクラの足を切り落とすのにかなりの時間を要した。
彼女はどうにか自分の足を繋ぎ治そうとしたが傷口の損傷が著しく、加えて激しい痛みと恐怖によって上手く治癒魔法を使えなかった。
結局、サクラの足は繋がらなかった。切断した足は慣例通りに罪人の縁者、身寄りなどが引き取って埋葬する。
王家の管理だったサクラの場合はアレルクスが埋葬することになった。
御役御免となった執行役は王都にある邸宅へと戻った。出迎えた家令の表情は硬直していたがその下には怒りが蟠っていた。
「当代。外来種の両足なんぞが、領姫様の苦しみに対する購いになるとお思いですか?」
「ならんさ、なるわけがない。だがこれ以上は無理だ。分かるだろう? ムナガノシカ」
「…………王家から離れるべきではありませんか? 始祖以来捧げてきたこれまでの献身を軽んじられ、踏み躙られるのであれば、忠を誓う価値はありません」
長年使えてくれている家令ムナガノシカの言葉に、レーヴァトは苦く笑うだけで何も言わなかった。侍従に上着と剣を預けた彼は屋敷の奥にある愛娘の部屋へと向かった。
エルドリーザの私室の前には二人の騎士が立哨している。騎士礼を取る彼等にヘルロンド家の当主は軽く手を上げて応えた。
騎士の片割れが静かに扉を叩き、父親の来訪を告げる。少しの物音がしてから扉は開かれ、レーヴァトは室内へと足を進めた。
昼間であってもカーテンで窓を塞ぐ部屋の中は薄暗かった。
看護役を買って出た家政婦長は医療器具や包帯、軟膏など様々な物が置かれた作業台を押して移動させて寝台の傍に椅子が置ける空間を作る。
幼い頃には彼女を「ばあや」と呼び慕ってくれていた美しい娘が変わり果てた姿で横たわる寝台の傍へと、老女は静かに椅子を置いた。
レーヴァトは椅子ではなく寝台の縁に腰を下ろして包帯に覆われた愛娘の頭に触れる。
「変わりないか?」
「はい、当代。領姫様の五感は依然として回復しません。お食事も……味や食感が分からないせいか上手く飲み込めなかったり吐き出してしまったりで…………」
枯れ果てても涙声が直らない家政婦長はそう答えた。
エルドリーザは神殿から派遣された回復魔法に長けた高位神官達と、技術として医療行為を施す医官達による治療を未だに受け続けていた。顔や体の火傷痕は残ったが、欠損した左足と魔力暴発の後遺症以外の傷は殆ど癒えた。
着替えが簡単な袖のない簡素な病衣に身を包んだ彼女の体は殆どが火傷の痕に覆われていた。火傷に覆われていない部分も黒い葉脈のようなものが幾重にも浮かんでいて、鳩尾の辺りと、両手の肘より先、右膝より下は真っ黒に変色している。皮膚は硬く、爪は全て失われていた。
臓器の大半は魔力嚢に飲み込まれた際に溶け合ってしまっていて、透視によって診察した医官はその場で朝食を吐き出した。
レーヴァトは娘の名前を呼ぶ。起きているが反応は無い。「エルドリーザ」と呼んでも反応しないのだ。
耳に掌を押し当てて、内耳部分に魔力で干渉しながら声を掛ければ聴覚を失っても音声は伝わる。だが反応は無かった。
神官と医官の診断によれば、脳は完全に再生していて、記憶を司る部分は無事だった。単なる記憶障害ではなかった。記憶の存在自体が無くなっていた。
魔力嚢の状態と変貌から見て、エルドリーザは新たな例外魔法を獲得したことが分かっている。それによって魔力暴発を生き延びることができたのだろう。
そして、代償として「エルドリーザ」という名前とそれに付随する人格や記憶、そして五感を失った。
欠けた精神には虚無が充填され、それは二度と戻ることはない、というのが診察した者達の見解だった。
「二人きりにしてくれ」と家政婦長に頼んで退室させたレーヴァトは、痩せて元より更に軽くなった娘の体を抱き上げた。
膝に乗せると、感覚は無くても自分の体が不自然な状態にあることは分かるのか、彼女はもぞもぞと身動ぎをして唸った。
両脇を紐で留めているだけの病衣が開ける。父親はその裾を直して慎みを取り戻してやった。
「うううう、うううううううう、ううううう」
焼けた声帯は癒えると低く嗄れた音しか出さないようになってしまった。腕の中の愛娘を見て、もう二度と元には戻らないことをレーヴァトは直視する。
愛した妻の面影は半分も欠けて、瓜二つだったあの青い眼差しは失われた。なにより、彼女の中から朧気でも残っていた母親の記憶が消え去ってしまったことが父としては耐え難いものだった。
「エルドリーザ、私の可愛いエルドリーザ。今日、お前のお父様はお前をこんな目に遭わせた女を地獄に堕としたよ。お前を見捨てた男も、きっと長く苦しんでくれる。必ず苦しませる。お前と、お前のお母様に誓うよ」
「うう、ううううう、ううう、うううう」
唸る娘が僅かな身動ぎを繰り返す。それが彼女が産まれたばかりの頃にしていた仕草と同じだった。
生涯愛すると誓った妻であるエヴァリリスが産んだ娘は、レーヴァトが抱くとその抱き方が気に入らないらしくて、頻りにもぞもぞと動いては小さな口を震わせて泣いた。
妻は出産を終えて酷く憔悴していたが、狼狽する夫の様子に声を立てて笑った。
彼が父になった日のことだった。
忘れられないあの時の幸福を思い出した男は娘を掻き抱き、噎び泣く。
五年以内に娘の身体機能がある程度まで回復せず、自立の目処が立たないようであれば、レーヴァトは娘を殺して自分も死ぬことにした。
それ以上長い時間を、生き地獄を娘に強いることなど彼にはできなかった。
「面白い」と思ったらコメント欄で好きな画家を教えてください。ワイは白髪一雄です。






