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4.家族の形に不満はない

長男のアスカロンくんと次男のダインくんです。あんまり出番ないね。

突然修正することがあります。

 義母と従者の姿が廊下の奥へと消えたところで義兄の一人、正装姿のアスカロンがエントランスホールに入ってきた。

 彼もまたイルゼカインと同様に、白髪と褐色の肌を持つ美しい従者を連れていた。

「次代、ようこそお越しくださいました。領都から此処までの長旅、ご無事で何よりです」

 カーテシーをして見せた義妹に、アスカロンは優しげな顔立ちに笑みを浮かべた。

「我が義妹クロエカイン、出迎えをありがとう。所作がまた一段と美しくなったね。暫く世話になるが宜しく頼む」

 黒い長髪と真っ青な瞳の義兄は家名を知らない貴族の令嬢が挙って押し掛けるような美青年である。女顔と揶揄されることもある容貌だが、近衛騎士に劣らぬ体格と実力を持っていて魔法に秀でていた。

 学園を卒業した後はイルゼカインの後継者として領主代行の役目を与えられて、領都で義母の父親である先代の下で領政を行っている。

「家紋付きの馬車とモーラ達がいるということは、当代はもうお着きなのだね」

「ええ、つい先程。ゲアハルトと共にいらっしゃいました」

「そうかい。ああ、リリーベル。お前に土産があるのだった」

 儀礼的な空気から親しい家族としての空気に切り替えたアスカロンは、控えていた自身の従者を呼んだ。

「ナインレイン」

「はい。こちらは次代と先代から、姫様への贈り物でございます」

 そう言って、ナインレインと呼ばれた従者の男は小さな子供ならすっぽりと入ってしまうような大きさのバスケットを片手で軽々と持ち上げる。被せられた布がもぞもぞと動いていた。

「アスカロン義兄様?」

 リリーベルが眼前に差し出されたバスケットと義兄の顔をちらちらと交互に見ていると、アスカロンは悪戯っ子のような顔で布を捲る。バスケットの中にいたのは首輪を付けた黒い翼竜の雛だった。

 リリーベルと目が合った雛はくるくると喉を鳴らして首を傾げた。

「ワイバーン! 可愛い!」

 明るい声を上げて喜ぶ義妹にアスカロンは微笑む。

「少し早いけれど卒業祝いだよ。僕とお義祖父様からね。やっと養殖が安定してきて刷り込みもできたから、そのうちの一羽をお前にあげようと二人で決めたんだ。よく懐くしそこまで大型にならない個体だが、王都では飛ばさないように気を付けなさいね」

「ありがとう! お義兄様大好き! お義祖父様にもお礼の手紙を書かなくっちゃ!」

 雛の顎を指で撫でながら彼女は義兄を見上げる。アスカロンは肩を竦めた。

「お前くらいだよ、魔物を貰ってそんなに喜ぶご令嬢は。次はモーラを乗馬用に差し上げようか? お姫様」

「ホントに!?」

「義母上が良いと言ったらね。というか、本気で欲しいのか。確かに駿馬の五倍は足が速いし、強靱な上に魔法も使えるが、顔は不細工だし、何より性質がとことん下品な魔物だぞ?」

「あら、慣れたら可愛いと思うけれど。それに似たような人間は何処にもいるわ」

「我が義妹よ、人間と魔物を比べてはいけない。程度の低い連中と一緒にされてはモーラ達が怒る」

 黒翼竜の雛は男性使用人にバスケットごと渡されて、リリーベルの私室へと運ばれていった。名残惜しそうに雛に手を振って見送る彼女の横で、呆れた顔でアスカロンが溜息を吐いた。

 そんな時にもう一人の義息子がエントランスホールに入ってきた。リリーベルの顔が即座に切り替わり、褒められたばかりの所作でカーテシーをして出迎えた。

「お忙しいところお越しくださいましてありがとうございます、カインレオン義兄上。ご壮健そうでなによりです」

 短く刈り込んだ煤けた銀色の髪が精悍な戦士のような風貌をより強くしている二人目の義兄、ダインは騎士団の式典用制服を着た姿で現れた。

 真っ赤なカメリアの花束を持った彼は義妹に敬礼を返した。

「出迎え感謝する、我が義妹クロエカイン。先月の夜会から訪問の間が空いてしまって申し訳なかった」

 騎士である彼には従士が付いているが今夜は一人で屋敷に訪れていた。王都で暮らしている彼はリリーベルのエスコート役をすることが多く、そうでなくても折を見て訪問するようにしていた。

「次代、お久し振りでございます。先代はご健勝であらせられますか?」

 ダインは花束を侍女に渡してアスカロンにも敬礼する。それに対して義兄は貴族らしい微笑を浮かべ、自分よりも上背のある彼を見上げた。

「先代は相変わらずお元気だとも、我が義弟カインレオン。王都に蔓延っていた強盗団を壊滅させたというお前の活躍は領都にも届いている。先代もお喜びでね、いずれお前に預けるつもりでいる領軍を鍛えているよ」

「それは、また…………いえ、光栄であります。先代を失望させぬよう、これからも精進します」

 硬い表情がより硬くなるダインは帰省の度に未だ見舞われる義祖父の鬼稽古を思い出していた。

 従者であり、軍事面においても義母の副官であるゲアハルトがダインに剣の手解きを授けたことを、義祖父は「義理とはいえ孫を盗られた」というふうに感じているらしい。

 義祖父はその意趣返しとしてダインを鍛えに鍛えて大陸最強の騎士にすることを生涯の目標に打ち立てているのだ。

 自分の今の力は、思い出すだけで吐き気を催すほど過酷なゲアハルトの手解きと地獄のような義祖父の鍛錬の賜だとダインも分かっている。お陰で近衛隊と憲兵隊を含めて総員千五百名の団員が常備兵として在籍する王国騎士団の、上位幹部である十番席次以内にまで一気に駆け上がれた。だが本当に辛かった、と目が茫洋としてしまう。

 義弟の意識が遠退いていることを察したアスカロンが手を一度叩いた。そして咳払いをして二人の意識を自分に向けさせる。

「ダイン、それにリリーベル。既に義母上はご到着されているのだから、私も彼も応接間に向かったほうが良いんじゃないか?」

 それを聞いてリリーベルが悲鳴を上げた。養子達のやり取りを生温かい目で見ていた護衛達は、家族しかいない場に限り、子供達の作法等について指摘しないことをイルゼカインから命じられている。甘やかしているのではなく「互いに注意して気を付けなさい」という意味だった。

「私としたことが! 申し訳ありません義兄様方! すぐにご案内致します! イース! 笑わないで!」

「ママ怒ってないよな!? そんなに待たせてないよな!? 大丈夫だよな!?」

「ダイン、随分前にその呼び方を直せと義母上に言われたのを忘れたのかな? 今すぐやめろ」

「はい! ごめんなさい義兄上殿!」



 王都邸の晩餐室は来客用と親族用の二室あり、今回は親族用のほうが選ばれた。

 その晩餐室の壁は落ち着いた深緑色で、金の蔦模様が描かれている。精緻なその装飾画に燭台の光が反射して、室内全体がぼんやりと明るかった。

 部屋の中央には白いクロスを掛けられた、長方形の黒卓が置かれている。卓は長辺側に五名の席を作ることができる程度に大きい。

 ダインの持ってきたカメリアが飾られた卓の上座には家長であるイルゼカインが座り、右手にアスカロン、左手にダインが着いた。リリーベルの席は義母の対面だった。

 晩餐は正式なものに倣い、九皿が順序立てて供された。食前酒にはディグレンゼ領の修道院で作られた白ワインが選ばれた。

「こちらのワインは王都でも人気があります。次代の施策により生産量を増やし、また醸造と保管に掛かる費用を削減したことで値が下がり、平民達の酒場でも取り扱われるようになりました。透き通るような軽い口当たりに、柔らかな酸味と瑞々しい香りが後味に広がるのが特徴です」

 給仕によって順にグラスに注がれていくワインをリリーベルが説明する。食事中でも仮面を外さないイルゼカインは卓上に置かれた照明に酒を翳し、淡く薄いその色を眺めた。

「酒場でも取り扱うとなると、かなりの販売量になるのではないか? 修道院の負担にはなっていないか? カインベルン」

 義母に問い掛けられた義息子の一人、現領主代行であるアスカロンは微笑んで頷く。

「はい。毎月二回ほど修道院を視察するようにしていますが、修道女達の生活や修道院の運営に対して支障を来すような過度な労働にはなっていませんし、これ以上の生産はしない予定です。作業日誌の確認や院長からの聞き取りも実施しての視察ですので、兆候があればすぐにお知らせします」

 会話の終わり際に前菜が給仕される。薄黄緑色のオリーブ油がかかった白くて丸い拳大のチーズと、塩漬けにされたオリーブとトマトを組み合わせた冷菜だった。柔らかくもったりとした感触の白いチーズは王の直轄領から、塩漬けは国外からの輸入品だった。

「こちらのチーズは最近開発されたものだそうです。通常のチーズと違い、熟成期間が殆ど無いもので作りたてのものを食べることが主だとか。当代と義兄上方にご賞味頂きたく取り寄せました。このチーズと合うのが聖教領とその周辺国で栽培されている食材ということでしたので、塩漬けですがオリーブとトマトを合わせました」

 リリーベルの説明を聞いて三人はナイフをチーズに入れる。通常のチーズのように硬い抵抗があるかと思えばするりと切れてしまった。

 もう一人の義息子であるダインは「おおっ」と声を上げる。アスカロンは塩漬けとの組み合わせを気に入ったのか味わうようにゆっくりと咀嚼していた。

 イルゼカインもナイフを入れた感触に目を瞬かせて驚いた。

「クロエカイン、心遣いをありがとう。確かに柔らかい。聖教領といえば、教皇が呼び掛けた東方遠征の話は何か聞いているのか? カインレオン」

「東方遠征への参加は王城内では反対の意見が多く見られます。それに陛下は民の暮らしに重きを置く方です。主食である小麦などの自給率が増えたものの、豊かになったとは言い難いかと。この状態で軍事行動を起こすことはできないと思うのですが……次代、如何でしょうか?」

「カインレオンの指摘は正しいですね。当代からお貸し頂いた四万体の屍兵で大規模な土壌改良と輪作農法を行った結果、平原の一部を穀倉地帯へと作り替えることに成功しました。ですが、大軍の長期遠征を可能にする収穫量かと言われると現時点では難しいところです」

 二人の意見にイルゼカインは頷いた。

「暫くは食糧生産と貯蓄に専念するようになるだろう」

「もし、陛下から屍兵の動員を命じられたらどうされるのですか?」

 リリーベルの問いに彼女は少し思案して「有り得ないな」と答えた。

「聖教会は死霊魔法を公式には認めていない。そんなモノを遠征軍として出したら別の戦争が始まる」

 古来から大陸に広く存在し、様々な神の信仰を受け止める神殿に対して、新しい宗教であり唯一神信仰を掲げる聖教会の規模はこの二百年の内に急速に発展した存在だった。今では小さな国のようなものまで築いている。

 修道院は聖教会の管轄ではあるが、イルゼカイン達が治めるディグレンゼ領内にある修道院は女性の生活困窮者を保護する役割のほうが大きく、原則的な戒律以外は教義を押し付けるようなことはしなかった。

 そのために周辺住民や神殿との関係は良好であり、死霊魔法を使う領主やその義息子である後継者に対する嫌悪感も殆ど無かった。むしろ彼等によって得られる生活の糧と修道院の運営資金が増えたことに感謝していた。

 前菜が終われば次の皿が出された。料理が出されるたびにリリーベルは説明し、その度に話題が変わる。

 女主人であればゲストを楽しませるために会話を回すことも役目に含まれる。だが今回は主導権を義母に譲って細やかな情報の確認を主とした。

 ジャガイモのポタージュが出されたら来年の救荒作物の作付けについて。

 メカジキの揚げ焼きが出されたら領に港を開発する計画について。

 柔らかな仔牛の赤ワイン煮込みが出されたら騎士団内の風紀について。

 蜂蜜とリンゴの氷菓子が出されたら学園生活について。

 血の滴る鴨肉のローストが出されたら宮廷内の細やかな政治闘争について。

 新鮮な葉野菜をふんだんに使ったサラダが出されたら新しく開発された冷却魔法具について。

 今では洋菓子の主流となったカスタードクリームのタルトが出されたら領内に外来種が現れた場合の対策について。

 領地邸の温室で品種改良されたオレンジが出されたら先代ヘルロンド家当主の様子について、等々。

 そうして、全員が九皿の料理を全て食べ終えた。



 晩餐は締め括りに温かい飲み物が出る。通常であれば同じ卓で最後の一杯を愉しむものだが、ヘルロンド家内の場合に限り、いったん談話室に移動することになっていた。

 儀礼的な食事は果物の皿までにして、最後は家族の団欒にしたいというイルゼカインの希望だった。

「リリーベル」

 談話室へと向かう途中でイルゼカインは義娘を呼び止めた。緊張感と儀礼ではなく、家族としての気安さで接しても良いという許しだった。

「はい、お義母様」

 声を弾ませて返事をするリリーベルにイルゼカインは「少しいいか?」と廊下の途中にある客間を示す。義息子達は先に談話室へ向かわせた。

 イルゼカインと共に客間に入ったリリーベルは、義兄達に聞かれたくない話なのだろうかと少しだけ不安になった。

「先に、お前に見せてから相談しようと思って」

 そう言ったイルゼカインの姿は瞬きの内に変わった。

 肩に届く程度の長さだった黒髪は腰の辺りまで艶やかに伸びて、着ていた男物の正装は肌を殆ど見せない貴婦人のドレスに変貌した。繊細なレースで作られたヘッドドレスで頭部を飾り、真っ白な顔には優しい微笑を湛えている。

 イルゼカインの顔には、その代名詞ともなっている仮面が無かった。

 仮面を失った顔の、絹の肌には傷が一つも無く、顔面の左側を覆っているはずの火傷痕は無かった。

 額を晒し、形の良い柳眉の下には黄金の虹彩を持つ大きな目が一対。その左の目尻には黒子が二つ横に並んでいる。優美な曲線を描く鼻があり、慎ましげな口元には慈母のような笑みが浮かんでいた。

 神聖さのようなものさえ感じさせる美女が、そこにいた。

 あまりの変わり様とその美しさにリリーベルは言葉を上手く紡げなかった。

「お、おかあ、さま…………?」

「驚いてくれたということは、上手く幻術が作れたということだな。良かった」

 殆ど動かない唇から義母の低く嗄れた声が出てくる。幻覚を作り出して自分の体の上に被せているのだと理解できたが、やはり違和感が強かった。

 リリーベルはまじまじとイルゼカインの美しい顔を見つめるばかりだった。

 義母は首を傾げる。さらさらと長い黒髪が流れた。

「母と、私の昔の肖像画を参考にしてみた。動かすのが難しくて表情は固定になってしまうんだが。普段の姿は婚礼には似合わないだろうから、こういう姿のほうが良いかと……あ、いや。お前や、相手の家が嫌がるなら参加はしない。用意だけしておこうかと思っただけだ」

「婚礼?」

「お前の婚礼だ。アスカロンもダインも予定どころか相手もいないが、お前のほうはひと月後には王太子と共に成人を迎えて、婚約を続けるなら当然いつかは結婚するだろう?」

 晩餐の最中は敢えて触れなかったことを義母は口にした。リリーベルの顔が曇り、俯いてしまう。

 婚約者である王太子ルミナントとの関係は冷え切り、改善の余地はない。それはイルゼカインにも分かっていた。

「お義母様。フィアベル王太子殿下とのことですが、あまり良い状態ではありません。卒業式典後に話し合いの場を設け、今後のことを話すことになっています。殿下からも了承を得ています」

 義娘の顔色が悪くなっていくのを見て、イルゼカインは静かに尋ねた。

「想定はしていたがやはりか。リリーベル、辛いか? 明日にでも婚約解消を国王に願おうか?」

「いいえ。これは殿下が王となるために必要なことです。その責任と誠意を示すために、虫けらのように嫌う私との話し合いを冷静に行い、結論を下すいうことを、殿下は行わなければならないのです」

「…………そうか、分かった。お前がするべきだと思ったことをしなさい。話し合いの結果がどうなろうと私はお前の選択を支持しよう。アスカロンにもそのように頼もう」

「アスカロン義兄様はお義母様の言葉に嫌とは言いませんよ。ただ、お義母様には私の婚礼のためにそのお姿をご用意頂いたのに、無駄になってしまうのは大変申し訳ないのですが」

「機会なら幾らでもあるだろう? お前は賢くて美しい我が家の姫だ。他の家の男が嫌なら、アスカロンかダインをお前の夫にしても良いんだよ? なんなら、結婚しなくてもいいんだ」

 真剣にイルゼカインは言うがリリーベルは吹き出して笑った。そして喜びが込み上げるままに義母を抱き絞めた。

 精神が虚ろで穴だらけであるために、自分を引き取ったこの女が他者にも自身にも何の感情も抱けないことを、リリーベルは知っている。

 そんな女が何も分からないまま、養子にした子供達を愛する真似を必死になってやっていることも知っている。

 おままごとの延長線にある真似事であっても、真摯に取り組んでいる姿を知っている。

 そして、リリーベルがその行為を「愛」と呼べばそれだけで本物になるのだということも。

義理の祖父と一番目の義兄のように贈り物を持って来るような、嬉しい驚きを思い付かなかったとしても、「この方の養子に迎えられた自分はとてつもなく幸運で幸福な人間なのだ」と彼女はいつも心の底から思っていた。

 イルゼカインも両手をうろうろさせてから、怖々と義娘を抱きしめ返した。

「アスカロン義兄様もダイン義兄様も旦那様にはしたくありませんわ。大好きな義兄様達だもの」

 ぎこちない返礼に、少女は苦笑しながらも言葉を続ける。

「でも、ありがとう、お義母様。いつかある私の結婚式に絶対お呼びします。もし未来の旦那様やその家族が嫌だと言うなら破談にするだけです。それにいつだって、どんな姿をしていたってお義母様は私の自慢のお義母様よ」

 義娘の言葉を聞いて、イルゼカインはあまり理解できないながらも頷いた。

 「でも折角だからお義兄様達にもそのお姿を見せて差し上げて」とリリーベルに言われて彼女は手を引かれるまま、共に談話室へと向かった。二人とも義母の幻術を見て飛び上がるほど驚いた。



 湯浴みの準備ができたことをメイドから知らされて、幻術を解いたイルゼカインは自分の従者であるゲアハルトを呼んで浴室に向かった。

 邸宅で働く侍女が介助のために浴室にいたが退室させた。配された侍女を断るのはいつものことだった。

 イルゼカインは自分の体にある傷を他人、特に女に見せるのはあまり良くないことだと思っている。見せると大抵は怯えられたり哀れまれたりするし、侍女に余計な心労を掛けるのはなんだか申し訳なかった。

 そんなことになるくらいなら、長年連れ合った副官に介助を任せたほうが気楽だった。

 広い浴室の中で二人きりになる。上着を脱いで手袋を外したゲアハルトは袖を捲ると、彼女の仮面を取って棚に置いて主人の服を脱がせ始めた。剥がれた服はランドリーメイドに渡すための籠に入れられていく。

 ぼんやりとしていたイルゼカインは浴室に置かれた大きな鏡に映る自分と目が合った。顔の左側が火傷痕に覆われた、痩せた女が落ち窪んだ目で彼女を見ていた。

 上衣を脱がせ終えるとゲアハルトは用意されていた椅子に主人を座らせ、その目の前に膝をついた。

 肌着や足衣などを脱がし、彼女の義足を外す。イルゼカインの左足は膝下から下が失われていて、それを補うための義足を装具している。膝上に巻かれている固定ベルトを外してしまえば義足は外れて、肉の盛り上がった断面が現れた。

 傷だらけのイルゼカインが身に付けている物は全て無くなった。

「持ち上げるぞ」

 断りを入れてからゲアハルトは自分よりも体格が劣る女を軽々と横抱きにする。

 湯が張られた大きな浴槽へと近づいて、浴槽の縁に彼女をいったん座らせると湯に手を入れて温度を確かめた。丁度良い温かさだった。

 再びイルゼカインを抱き上げてその体をそっと湯の中へと沈める。彼女が溺れないように気を付けつつ、服が濡れるのも構わずゲアハルトは石鹸を泡立てる。爽やかな精油の匂いが広がった。

 今にも鼻歌を歌い出しそうな機嫌で男は櫛を手にし、泡を主人の髪に纏わせながら梳かすようにして洗い始めた。

 されるがままのイルゼカインは湯の中に沈む自分の体を眺めていた。

 男のように背が高く、骨と筋ばかりで女らしさなど欠片もない体は殆どが火傷の痕に覆われていた。

 火傷に覆われていない部分も黒い葉脈のようなものが幾重にも浮かんでいて、鳩尾の辺りと、両手の肘より先、右膝より下は真っ黒に変色している。皮膚は硬く、爪は全て失われている。

 葉脈のような模様と手足の変色は魔力暴発の後遺症によるものだった。

 人間や魔物の体には血管と同じように魔力の流れる管が全身に張り巡らされている。大元は心臓の隣にある魔力嚢という臓器であり、そこから全身に魔力が流れている。

 魔力暴発は魔力の逆流や、特別大きな魔力嚢を持った人間が死に瀕した際に起きる過剰な防衛反応などによって発生する現象だった。

 魔力暴発に魔力嚢が耐えられない場合は体内で破裂し、心臓を含む多臓器がそれに巻き込まれて死に至る。魔力嚢が強靱だった場合、稀にだが暴発に耐え切って死なずに済むこともある。

 だが魔力嚢が暴発に耐えられたとしても魔力管が集中している手足の末端に魔力が流れ込み、死んでしまいそうになるほどの激痛に襲われる。手足の指が破裂するか、壊死することも多い。そして魔力管は焼きつき、肌を変色させ、葉脈のような痕になるのだ。

 醜い傷痕ばかりがあり、五感は鈍く、魔力で動かすことで漸く人並みに生活できるようになる体。

 浴室内に広がる石鹸の香りも、浸かる湯の温かさも、出された料理や酒の味も分からない体。

 口の中を火傷しないようにと、適度に冷めた物を用意されていても知覚することができない体。

 愛情を込めて肌に触れてくる男の熱を感じられない体。

 そうなった原因を、今から十八年前のことを、イルゼカインはあまりよく覚えていない。

「面白い」と思ったらコメント欄で好きな角川映画を教えてください。ワイは第一作目「犬神家」です。

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