1.その婚約破棄には未来がない
初カキコ…ども…
脆弱なので優しくしてください。突然修正することがあります。
花々の蕾が膨らみ、開花を待つ季節に王立学園の卒業式典は行われる。王城の大広間で開かれるその式典で、最高学年の彼等は卒業と同時に成人を迎えるのだ。
大広間の上部は吹き抜けになっている。天井で金と水晶で作られた華やかな大シャンデリアが列を成す下で、風の無い水面のように静謐で磨き上げられた大理石の床の上で、厳粛に、華やかに、慶事が行われる。
卒業生達は六年間の学びを無事に終えたことを祝い、成人を迎えることで新たに課される貴族としての役割に対する決意を固める。
後輩達は先輩達を尊敬と憧れを以て送り出し、自分達も貴い血に相応しくあろうと誓う。
今年も、そうなるはずだった。
「式典の前に、諸君には伝えておくべきことがある!」
彫刻が施された壮麗な大階段の中程に立ち、そう声高に言い放ったのは王太子フィアベル・ルミナント・アントピア。客観的に見ても「美しい」と評価される金髪青眼の彼はすらりとしたその長身に、王族らしい煌びやかな式典服を纏っている。
そんな美青年に身を寄せているのは垢抜けない赤毛と栗色の瞳をした少女。無垢さや純朴さを引き立たせる淡い色合いのドレスに身を包む彼女は、去年入学してきたシーナ・ヨーギという名前の元庶民だった。
王立学園には基本的に王族もしくは貴族の子女のみが、十三歳で社交界デビューすると共に入学する。
だがシーナは十六歳の時に男爵家の養女になったため、行儀習得を一年掛けて行ったのちに昨年の春から王太子の同級生として学園に通い始めた。
か弱げに身を震わせる少女は困惑と焦りを滲ませて王太子ルミナントを見上げていた。それを不安の表れと受け取ったルミナントは優しく彼女の肩を抱き、微笑んで見下ろす。
「ルミナント様……」
「大丈夫だ、シーナ。何も恐れることはない」
小鳥が囀るように可愛らしい声で馴れ馴れしく名を呼ばれて、決意を新たにするルミナントは視線を階下の同級生や後輩、教師陣に向けた。
「私は今この時を以て、狡猾で陰湿な悪女、クロエカイン・リリーベル・ヘルロンドとの婚約を破棄する! そしてこのシーナ・ヨーギ男爵令嬢を新たな婚約者に迎える!」
王太子の言葉を聞いた人々は動揺してざわめきが大広間の中に広がる。
混乱の最中に、カツン、と踵の高い靴が大理石を鳴らした。
海が割れるように道を開ける令息令嬢達。
「悪女」と名指しされたクロエカイン・リリーベル・ヘルロンドが、色めく人集りから現れた。
大階段の前へと進み出るリリーベルは、星の輝きに似た白金の髪、紅玉の瞳を持つ美しい淑女だった。式典のために誂えたドレスは王太子の婚約者としては控えめなほどに慎ましく清廉な造りで、彼の瞳の色である青を基調としていた。
リリーベルは開いた扇で、人形のように整った造りの口元を隠しながら問い掛けた。
「発言をお許しください、フィアベル王太子殿下。この件については殿下と私の個人的なものであったはずです。まずは殿下と私との間で話し合いをして、国王陛下、妃殿下、そしてヘルロンド家当代にお伝えすると。何故このような場で、そのように一方的に決定を下されるのですか?」
彼女は婚約者という立場であるはずなのにシーナよりも他人のようにルミナントを呼んだ。王太子と同じ卒業生ではあるリリーベルは十八歳であるが、既に他者に傅かれる風格を備えていた。
玲瓏で感情が抑制された彼女の声は喧噪を切り裂いて階上の二人へと届く。凍える美貌の淑女には何一つ責め立てる意図などない。だが王太子と男爵令嬢は恐ろしい魔物に対峙したかのように身を硬くする。
ルミナントはシーナを庇いながら婚約者を睨みつけた。
「貴様の悪行を俺が知らぬと思っているのか! 貴様は嫉妬のあまり我が愛するシーナを虐げ、孤立するように追い込んだ! そのくせ自分は邸宅に男を何人も囲い込むなど、なんてふしだらな女だ!」
激情を露わにする王太子にリリーベルは眉を僅かに寄せた。
「お待ちください。私には何一つ覚えのないことでございます」
王太子の言葉に対して婚約者ははっきりと断言する。
「ヨーギ男爵令嬢とは殆ど関わりがありませんでしたし、邸宅にいるのはヘルロンド家の使用人であり当代にお貸し頂いている護衛達です。そして殿下、それはこの場で婚約破棄の宣言なさる理由にはたり得ません」
「悪行を知らしめねば貴様は罰を受けずに逃げるだろう! 王族に楯突くあの目障りな断罪卿に泣きついてな!」
断罪卿、という言葉を聞いてリリーベルは顔色を変える。
「フォアベル王太子殿下。たとえ殿下であろうと初代アントピア国王陛下より拝命した『王家専属財務監査官』という御役目を、そのような蔑みの名で呼ぶことは許されません。撤回してください」
完璧な淑女として振る舞っていたリリーベルの態度に罅が入ったことを無邪気に喜ぶルミナントは唇を歪めて笑みを作る。
リリーベルは元々ヘルロンド家の分家筋である子爵家の生まれであり、シーナと同様に養子として辺境のディグレンゼ領領主ヘルロンド本家に迎えられていた。
貴族社会においてヘルロンド家は恐れられ、忌避される存在だった。当家は代々その当主が王家専属財務監査官を務めているが故の恐怖だった。
王家専属財務監査官とは、王族の財務状況や王領の経営状況、王族が日常を営むための経費や品位保持に用いられる王族費の使い方などを毎年確認し、不備があれば指摘し改善を促す存在である。
そしてその不備が、不備ではなく悪質な不正であれば関わった者に処罰を与える権限が与えられている処刑人でもある。
罪人がたとえ王本人であろうと首を落とす権限が与えられた家。王を頂点とする貴族社会においては異質で禍々しい"例外"。リリーベルはそんな家の現当主の養女であり、同じ貴族令嬢達からは一定の距離を取られていた。
婚約者であるルミナントは彼女の現状を知っていて、それを汚点だと思っていた。
シーナのように周囲から愛されることもなければ、シーナのように自ら愛を振りまくこともしない。ただ粛々と学園での日々を過ごし、ルミナントに近付いてきたかと思えば諫言ばかり口にする。美しいのは見目ばかりで中身は陰険な女官のように思えた。
だからルミナントはリリーベルを捨て、優しく慈しむように自分に愛を捧げてくれるシーナを選ぶことにした。
ルミナントが意地の悪い笑みを浮かべているのをリリーベルは厳しい目つきで見上げていた。彼女の口元を隠していた扇子は閉じられ、白い手の甲の色が失せるほど強く握りしめられていた。
「フィアベル王太子殿下、婚約破棄については受け入れます。ですが謂れなき罪と当家への蔑みは撤回してください」
「王家を軽んじる断罪卿の義娘は罪を認めぬらしい! 貴様など貴族の風上にも置けぬ! 国外追放だ!」
怒りのままに王太子がそう叫んだ時、閉ざされていた大扉がけたたましく軋みながら開いた。
王太子達と群衆の視線がそちらへと向けられる。大広間と回廊を繋ぐ扉を開いた王城の兵士二人は青ざめた顔をして俯いていた。
冷たい風が薄暗い回廊から流れ込む。そして薄い金属が擦れ合う音と共に、真っ黒な影が室内へと入ってきた。
恐ろしい冬の夜が人の形を成して現れたのかと、それを目にした彼等は思った。あまりの恐ろしさに令嬢の幾人は気を失ってしまった。
「今し方、我が家名を蔑む声と何の根拠もない裁定を下す声が聞こえた。はて、私には覚えがない。蔑みを受ける理由も、何の権限もなく貴族子女を罰する愚かな王太子がいることにも」
天井から降り注ぐシャンデリアの光が反射しないほど黒い板金鎧を鳴らしながら、背の高い影のような存在は嗄れた低い声で言った。
黒い外套を身に纏った鎧姿の影は、腰に剣を下げていた。
王城内で戦場のように甲冑を身に付けたり武装したりすることが許されているのは王族達、警備を担う兵士や護衛を務める騎士達、事前に通告があった他国の客人である。それ以外の貴族はその爵位に関わらず佩剣での登城は許されていない。
例外は、王家専属財務監査官であるヘルロンド家当主のみだ。
当主の腰にある剣帯には、王家専属財務監査官としての身分を証明し、王城内に張られた結界内での魔法使用を可能にする金のメダルが括られていた。
監査官の顔は額から上唇の辺りまでを覆う黒い仮面によって隠されている。露わになった黒髪は肩に届くかどうかというような長さで、仮面の下から僅かに覗く顔の左側には醜い火傷の痕があった。
リリーベルは自分の傍までやって来た当主に対してカーテシーで迎え、そのまま目を伏せて謝罪した。
「当代、このような事態になってしまい申し訳ありません。ですが先日お伝えしたように、殿下と私の個人的な問題でございます」
義理の娘が言い募るのを聞いていた当主の返答は無情なものだった。
「控えろ、我が義娘クロエカインよ。もうお前にできることはない」
その言葉にリリーベルはびくりと肩を跳ねさせて、息を詰まらせた。
「も、申し訳ありません……お義母様…………」
今にも泣き出しそうなリリーベルを宥めるように、当主は彼女の背中にそっと手を当てる。指先までを守る鎧に包まれた手はすぐに離れたが、リリーベルの心を落ち着け、慰めるには十分だった。
当主は大階段の上にいる王太子と男爵令嬢に目を向ける。そして喉を引き絞って凍てついた声を出した。
「王家専属財務監査官イルゼカイン・エルドリーザ・ディグレンゼ・ヘルロンドが申し渡す。王太子フィアベル・ルミナント・アントピアは廃嫡とし、血統剪定のため断種とする。また、シーナ・ヨーギ男爵令嬢は斬首とする」
ヘルロンド家当主イルゼカインの言い渡した罰は王族に与えられる罰の中でもかなり重いものだった。
「異議ある者は覚悟を持って、我が前に立つがいい」
王太子の地位を剥奪し去勢すると明言されたルミナントは酷く狼狽し、死を宣告されたシーナは青褪めた。
「ふざ、ふざけるな! 断罪卿! いったい何の咎で俺とシーナを裁くというのだ! 不敬にも程があるだろう!」
恐怖を撥ね除けてどうにか吠えてみせる青年を見て、監査官は唇を歪める。
「ならば、ご説明して差し上げねば」
断罪卿と忌避される女は不遜な態度で罪人達を眺め上げた。
慌ただしい数多の足音がして、王の間にいた貴族達が広間に入ってくる。国王と王妃もまた、大階段を上った先の、王の間に繋がる回廊に姿を現した。
二人は不安と諦めの中にいて、それでも回廊に設けられた手すりに寄り掛かることはせず、息子である王太子へと視線を向けていた。
「面白い」と思ったらコメント欄で好きな岩波文庫を教えてください。ワイは赤N七〇三ー一です。