最後の嘘と、最後の本当。
苦し気に呼吸を繰り返す。
息を一つ吸って、ようやく吐き出す。
生きるために必死にしている行為が、より自分を苦しめている気がした。
妻が泣きながら私の腕を握っているのを感じながらも、私は無力に目を閉じることしか出来なかった。
そんな時。
ふと、閉じているはずの瞼の裏に独りの少年が現れた。
麦藁帽を深く被っていて、私の目には彼の顔が見えない。
奇妙なことにどこか近しいものを感じる。
彼は私を見るなり舌打ちをして、唾をこちらへ吐きかけた。
「嘘吐きの馬鹿!」
あまりの言葉に私は一瞬、呆然とするがすぐに気を取り戻して彼に尋ねた。
「何故、そんなことを言うんだい?」
そう問いかけながら、私は奇妙なことに彼に一歩近づくことが出来た。
今、この瞬間も妻に手を握られ、必死に命を繋いでいるという現実を確かに理解しているのに。
身動き一つ取れない現実が虚しさを覚えるほどの滑稽さを持って、私は彼に尚も尋ねる。
「何故、君にそんなことを言われなければならないんだい?」
「お前が嘘吐きの馬鹿だからだ!」
繰り返される言葉に私は首を傾げる。
本気で彼が何を言っているのか分からない。
すると少年は近づいてきて、私のことを思い切り蹴飛ばした。
その瞬間、彼の麦藁帽が落ちた。
それを見て、私は思わず声をあげる。
「あっ!」
少年は私を強く睨んでいた。
私は彼を知っていた。
誰よりも。
何せ、それは幼い頃の私自身だったのだから。
「嘘吐き! 嘘吐き! 嘘吐き!!」
彼は。
幼い日の僕はそう言って私の身体を蹴り続けた。
ここにきて、私は何故僕がこうも睨んでいるのかを知った。
いや、思い出したと言うべきか。
「野球選手になるって言ったじゃないか!」
僕が泣きながら私を蹴る。
殴って、蹴って、また殴って……泣き叫ぶ。
「誰よりも強い選手になるって言ったじゃないか!」
ここにきて私はようやく悟る。
そうか。
目の前に居る僕は、私の内にある最期の思考なのか。
泣き叫ぶ僕の姿を見つめながら、私は過去の記憶や挫折を色々と思い出す。
現実とは残酷なものだ。
こんなにも夢に満ちていた僕は、数え切れないほどの挫折や要因、そして時には自分の意思によって私へと変わったのだから。
「ごめんな」
私は小さな僕の身体を抱きしめた。
「夢を諦めちゃって」
私の腕の中で僕が泣き続ける。
もっと、ずっと、抱きしめ続けてあげていたいほどに僕は哀れだった。
しかし、僕は私よりずっと偉かった。
「ねえ。後悔はしている?」
こう問いかけてくれたから。
私は僕の身体から静かに離れて告げた。
「悪いけれど、全くしていないよ」
私の答えに僕はまた泣き声をあげて、そしてそのまま走り去った。
「嘘吐き! このバカ!!」
そんな捨て台詞と共に。
その後ろ背を見つめたままでいた私の意識がふと現実に戻る。
私が微かに開いた目を見てすっかりと年老いた妻が泣き叫ぶ。
私の手を包んだ妻の手が力強いものに変わる。
「あなた」
妻の声が辛うじて形となって聞こえる。
「私と一緒で……幸せでしたか?」
きっと、これが最後だ。
私も妻もそれを悟っていた。
だからこそ、二つの言葉を告げた。
「一つも後悔はしていないよ」
一つは僕の嘘。
「君と一緒に生きられて良かった」
もう一つは私の本当。
長く、長く共に生きて妻はそのどちらも心穏やかに受け止めてくれた。
妻の顔はあまりにも涙でまみれて笑ってしまうほどだったけれど、それでも妻は言葉を返してくれた。
「愛しています」
その言葉に私もまた言葉を返す。
「僕もだよ」
子供染みた後悔よりも遥かに大きな愛に包まれたまま、僕は安らかに死の世界へと先立った。