#95
手に持っていた小瓶が転がり落ちる感覚で、カナは目覚めた。一時間ほど眠り、幻覚の症状は嘘のようになくなっていた。
落ち着きを取りもどし、現実にもどってきてしまったことを自覚する。
ゆっくりと上体を起こし、椅子から落ちかけていた小瓶を確認した。
「は……?」
「カナちゃん、起きたのね」
その正体を知ると同時に、千条教授に声をかけられた。
「嘘じゃないですか! リュウ先輩をもどす薬なんて!」
手元にあったのは小瓶でもなんでもなく、それらしい形状の玩具のキーホルダーだった。
「言ったろう。大切なのは、空想することだと……」
脳波のモニタリングをしていた首藤博士が、いたずらげな笑みを浮かべながらそう告げる。
意地悪な発言なのに、残っていた科学者たちは顔色ひとつ変えやしない。
「カナちゃん。向こうに行ったのね? なにを見てきたか教えてくれる?」
千条教授にうながされ、カナは幻想に見た記憶をたどる。そこに登場したのはたしかになんらかの魔法薬だった。断じて玩具のキーホルダーではない。
「わたしが空想したからってこと……?」
首藤博士はうなずく。
「そのとおり。そもそも実験で送ったのは単なる電気信号だ。脳波の動きから、きみがなにかを見ていたことだけはわかる。我々が知りたいのは、きみがそこで見たもの。そしてそのなかにきみの記憶にないものがあったのなら――実験は成功だ」
そうでなければ景色そのものも空想に過ぎない可能性があると、首藤博士は補足した。
「初めて見たもの――ありました」
カナはそこでほんのわずかだが〝キャラバン〟のいとなみを目にした。張られていたテントの模様まで、正確に思いだせる。
ひととおり向こうで見たものを伝えると、科学者たちはおおきな一歩に歓喜を分かちあった。
最初の実験は成功らしい。
されどカナは落ちこんでいる。自分の目的はなにも果たせなかったのだ。せめてだれかに伝言でも伝えられればよかったのだが。
「失敗だよ、こんなの……」
「カナ、元気出しな」
自販機で買ってきたスポドリを差しだしながら、気さくに声をかけたのは如月さんだった。
各分野の権威が集まる場で、大学中退の彼ができるのは差し入れといった雑務だけらしい。一応、千条教授の助手ということで面目は保っているようだが。
「ありがとうございます……」
如月さんはカナの横顔を不思議そうな表情でじっと見つめる。
「んん……? カナ、なんか……顔色変わった?」
「へ?」
「なんかもうちょい、体調悪そうな感じだったんだが……」
紋様のことはみんなに伝えている。それを普段の生活では隠していることも。
「ちょっと……お手洗いいってきます」
途端に不安になり、化粧室の鏡で自身の顔を確認する。石鹸を混ぜたお湯でおそるおそる顔を濡らし、ちからを込めて指でこすってみるものの、出てこない。
目元の紋様が消えている。
如月さんの言ったとおり、来たときよりも血色がよくなっているように見えるからまちがいない。
「……ハイド? 返事して!」
返事はなかった。つながりを感じないわけではないのだが。
こんどは精神を集中させ、変身を試みる。
魔法陣が出てこない。髪のいろも変わらない。
(うそでしょ……ハイドがいない……)
カナはちからなく膝から崩れ落ちた。異世界との唯一のつながりをうしなった。
『カナ、我はいるぞ。だが少し状況がちがう』
そんな絶望感を他所に、こころのなかにハイドの声がひびいた。
「どういうこと……?」
カナは茫然としながら問う。しかしやはり返事がない。
(まさか……)
――こころの声は届くけど、音は届かないということか。
『そうだ。我は偶然にも〝エリュシオン〟に残ってしまった』
カナの推測にハイドは答えた。
もとよりハイドは向こうの世界の存在だ。異分子として追放されなかったのかもしれない。
――それってすごい奇跡なのでは。
『ああ。カナと我にかぎり、異界間の交信が実現している。深層意識が思念の中継地点になっているようだ』
それは事実上、カナを介したメッセージのやりとりが可能になったということだ。未練のある〝書架〟たちもまとめて救えることになる。声を伝えられることが、どれだけおおきな支えになるかなど語るまでもない。
『――みんなに伝えてくる』
『カナ、慎重にな。キミのちからを悪用しようとする者はかならず現れる』
現実世界で暗躍していた〝後援会〟のように。そうとなるとこれは極秘中の極秘かもしれない。
ひとまず千条教授に教えることにして、それからの判断は彼女に委ねることにした。
『それともうひとつ、試したいことがある』
『試したいこと?』
『危険をともなうから、身の安全を確保したら教えてくれ』
ハイドの言葉にきょとんとしながら、カナは院内を早足で進みながら実験室へともどった。
*
その日の実験は終了して、カナは自宅に帰ってきた。
久しぶりに家族三人でご飯を食べた。風呂も済ませたし、あとは寝るだけ。
『もう寝るけど、試したいことってなんなの?』
『布団に横になれ』
首をかしげながらも、ハイドの言うとおりにする。
『……なったけど?』
そう伝えてから数秒後、カナの視界に映る景色が一瞬で草原に変わった。
すぐそばにはハイドがいて、二人で魔法陣の上に立っている。変身した状態で、着ているのはサーベラスとの対峙で錬成した煌びやかなドレスだ。
どうやら〝エリュシオン〟に転移したらしい。あまりの呆気なさに目をぱちくりさせて、喜ぶ暇もない。
「成功したか」
「どういうことっ!」
ハイドは無表情のまま、カナの顔を引っぱったりして感触をたしかめている。
「もどすぞ」
彼が淡々と告げると、一瞬でカナは自室の布団にもどってきた。眩暈がするあたり、現実の身体は強制的に気をうしなっていたらしい。
『もどってきた……』
『具合はどうだ』
『眩暈』
なんか玩具みたいに扱われて無性に腹が立ったので一言だけ伝える。
『なら眠っているときにしたほうがいいな。影響が計り知れん』
『ちょっと待て待て待て。なにをしたのいったい!』
『カナがこれまで我を召喚してきたように、それと逆のことをしたまでだ』
淡々と答えているが、それはカナにとってはあまりにもおおきな前進だった。
科学者たちとの協力がなくとも、向こう側で活動する手段を得たのである。
かくして、カナの旅はふたたび幕を開けようとしていた。
――ただし今後は、眠っているとき限定で。




