#91 イセカイズ
「カノンさんが、伝言……?」
このタイミングでその名前が出てきたことに、カナは首をかしげる。いったいなにを。そもそも、いつ――。
記憶をめぐらせたとき、ひとつ心当たりが浮かびあがった。
カノンの家に行ったときだ。
あの日ハイドは勝手にカナを屋敷に転送して、ひとり居残ったのを思いだした。
「――奴はこの時代の天才だな。祝福の知識こそ乏しいが、知性は常軌を逸している。……カナがこうなる状況を予見していたのだから」
ハイドはカナの勉強机から適当なノートを引っぱり出して、適当なペンでなにか書きはじめた。
そっと横から覗きこむ。部屋がうす暗くて見づらいが、そこに書かれているのは、埼玉県にあるどこかの住所だった。
「……なんの住所?」
「カナが会わなければならない人間が、ここにいる」
会わなければいけない人間。
意味もわからずにカナはその言葉を反復する。
住所のあとには、キサラギ ヒロトという聞き覚えのない名前。
「それがカノンさんからの伝言……?」
「そうだ」
「……だれがいるの?」
「それは知らない。だが――彼を頼れば、カナは〝エリュシオン〟にもどれるかもしれない」
ハイドが告げた突拍子もない可能性に、カナはただ目を丸くするほかない。
「あの世界に、もどれる――」
マヤたちにもういちど会える。
根拠も理屈もない夢のような話に、されどカナのこころは晴れ渡っていった。
希望はまだあるのだ。
思いたったが吉日である。カナはハイドをしまって自分の姿をもとにもどすと、すぐさまリビングにもどり、そして母に土下座した。
「ち、ちょっとカナ。急にどうしたの?」
「おかあさま。……おこづかいください」
*
カナは私服に着替えたのち、報道陣とのやりとりを避けながら車に乗りこみ、母に駅まで送ってもらった。
目的の場所は新幹線と電車を乗りついで三時間ほどのところにあるボロいアパートだ。急げば日帰りできる。
「……ほんとにここなの?」
目的地にたどり着いたカナは独り言のようにつぶやきながら、ポストをひとつずつたしかめていく。たしかに如月という人物は住んでいるようだ。
放置されたでっかい蜘蛛の巣を避けながら、部屋の前に立つ。いちど深呼吸をしてから、チャイムを鳴らし――こわれてて鳴らないのでノックをした。
やがてゆっくりと扉を開き、そこから顔を覗かせたのは――無造作に伸びた髭の手入れすらしていない、痩せ型のおっさんだった。灰色のスウェットを上下に着ていて、みるからに小汚い。
『すまない、ひとちがいのようだ』
ハイドの言葉にたまらずカナは一歩あとずさる。
だけどたしかにこの部屋が如月で、つまりこのおっさんは如月さんのはずで……。
「――ほんとに来やがった」
カナがテンパってあたふたしていると、みすぼらしいおっさんが吐き捨てるようにそうつぶやいた。
「えっと……如月ヒロトさん、でしょうか……?」
「そうですね。ではさようなら」
ばたん。閉められた。
「こういうときはどうすれば?」
『突き破れ』
それだけはちがう。
ひとまずもういちどしつこくノックしてみると、如月さんはまた顔を出した。
「んだよ……」
怠そうな大人の態度に、カナはビビってかしこまってしまう。
「あの、えっと……あっ、カノンさんの知り合いです!」
そう言えば話を聞いてもらえるかと思ったが、如月さんは余計に不機嫌になった。
「イラつくぜ……。だれの差し金だ! 警察呼ぶぞ?」
『カナ、時間の無駄だから我を出せ』
「えっ、わかった……」
「は?」
カナの姿が変わり、こんどは如月さんが目を丸くしてビビっていた。魔法陣にもそこから出てくる男にも言葉をうしなうあたり、魔法を目にするのは初めてのようである。
「あんたら……なに? 強盗……? うちに金目のものなんてないんですけど……」
「カノンからの伝言だ」
「……っ!」
ハイドは弱腰になる如月さんを見下ろしながら、淡々と言葉を紡ぐ。
『私はたしかにここにいる。ヒロくん、私を探しにきて』
「バカな……ありえねえよ。悪趣味ないたずらはよしてくれ……」
「カナ、身分証を見せてやれ。わざわざ三時間かけていたずらしに来ると思うか」
カナは慌てて財布から学生証を取りだして、如月さんに見せた。そこにある住所にはたしかに静岡県と書かれている。
「歌音は――三年前に死んだんだよ。だから、ありえねえって……」
如月さんは弱々しく首を横に振り、まるで聞く耳をもたない。彼からしてみれば幽霊の存在を信じろと言われているようなものだった。
「先ほど我々が来ることがわかっていたかのような口振りをしていたな。以前にもだれかの干渉があったのだろう。それが答えだ」
ハイドがそう言うと、如月さんはついに観念したかのように頭を掻きながら「とりあえずあがれよ」と告げた。
「お、おじゃまします……」
カナはおそるおそる部屋にあがった。
予想はできていたことだが、なかはゴミだらけでとにかく汚い。視界のすみに黒光りするものが動いた気がして、たまらずみじかい悲鳴をあげる。
リビングには最低限、ひとが動けるスペースは確保されており、部屋の角には高性能なパソコンが置かれている。表示されているのはよく知らないゲームの画面。
「まあそのへんに座れよ」
無駄におおきなリクライニングチェアに腰かけながら、如月さんはうながす。目線はすでにパソコンのほうを向いている。
「いや、長居する気はないから立ったままでいい」
遠回しに座りたくないとハイドは言っている。激しく同意。
「そ。で、用件は?」
「汝のちからを借りたいのだ。学者なのだろう? ……そうは見えないが」
「それも歌音から聞いたのか?」
「ああ。とても素敵な物理学者になっているはずだ、とな」
それを聞いた如月さんは、悲しそうに、自嘲気味な笑みを浮かべた。
さりげなくあたりを見渡すと、たしかに本棚には物理学や天文学の難しそうな本が丁寧に並べられている。
本棚の上には幸せそうな男女の写真。ニット帽をかぶった色白の女性が、まぶしい笑顔をカメラに向かって振りまいていた。
「ご覧のとおりさ。学者の道なんてとっくにあきらめたよ。なんの協力か知らんけど、ほかをあたるんだなー」
「たしかにそのほうがずっとマシだろう。……だが、カノンは汝を所望している。借りがある以上、逆らうわけにはいかない」
ハイドはそう言いながら、指先から煤のようなものをにじませて、しろい壁紙に頭が痛くなるような数式をえがきはじめた。
「あっ、こら!」
「黙って見ていろ。水で拭けば消える」
勝手なことをするなという怒りに満ちた如月さんの表情は、少しずつその数式に惹かれていく。理数系の性というものかもしれない。
「――ありえねーって……」
ハイドがカノンから託されていた数式を書き終えると、如月さんは言葉をうしなって、指でデスクをなぞっていた。まるで検算しているかのように。
「可能か?」
「……たぶん計算はまちがってない。けどあんたらこの式の意味わかってねーだろ。有り体に言えば好きなものを好きな場所に生成する式だ。なにする気だよ」
如月さんは苦笑しながら「そもそも専門外だわ」と突っぱねた。なおもハイドは引き下がる気はないらしい。
「可能かと聞いている」
「できるだろーね。百年と、百兆円があれば。地球全土が停電になるから、賠償金もいるな。はははっ」
「動力源があれば良いんだな」
ハイドはそう言って、如月さんの眼前でとくに意味のない魔法陣をくるくると回転させた。
「魔法……――」
すなわち、無償で未知なるエネルギーである。
如月さんは揺れていた。理学者としての矜持が、彼のこころをかつてないほどに躍動させる。
「カノンは汝に会いたがっている。その気持ちに応えてやれ、キサラギ ヒロト」
「歌音……本当なのか……。本当にお前は、異世界で生きてるってのか……。もしそうなら――俺だって会いてえよ……!」
そうつぶやきながら、如月さんはたしかな足取りでどこかに向かおうとした。
「どこへ行く」
「風呂。出かける支度をするから外で待っててくれ」
「出かける……? どこにですか?」
「仲間を集める。名づけて――〝チーム・イセカイズ〟だ!」
だせえ。カナは真顔のまま、こころのなかでつぶやいた。
それがのちに〝エリュシオン計画〟と歴史に語られ、人類の発展に多大な貢献をすることになるのだが、それはまた別の話。




