#90 されど希望はカナのこころに
翌日、放心状態のままカナは朝を迎えた。
あんなことがあったばかりだ。学校は休んだ。
起きるまえに、スマホを使って史録の居どころを探ろうとする。
後悔のない決別なんて無理だった。叶うことならば、マヤにもういちど会いたい。カナは史録に魅入られていた。
祈りを込めて、史録を召喚しようと呼びかける。
「来て――〝星天の史録〟」
資格がないのだ。当然のように失敗して、虚しい声だけが自室にひびく。これでは深淵くんを笑えない。
朝の十時くらいまで布団のなかで枕を濡らし、やがて涙が涸れるとカナはゆっくりと立ちあがった。なんか食べないと。
おそるおそる遮光カーテンのすきまから窓のそとを見ると、先日の事件をうけて報道陣がせまい路上にごった返していた。
現実感のない光景。あれだけ目立たぬように気をつけて生きてきたのに。
音を立てないようにリビングにいくと、カナの母親がソファでくつろぎながらテレビを観ていた。日中だが、カーテンは閉めきっている。
「カナ、おはよう」
母はいつもどおりにカナに接した。
涸れた涙がまた湧きでる。カナは震える声で「うん」と答えて、母の胸でひとしきり泣いた。
テレビでは昨日の夜中にあったことがもうニュースになっていた。メディアってすごいな。
『自然科学省大臣が高校生を誘拐。国会は関与を否定』
画面にはそう記されており、コメンテーターが不審な事件について自由に語っている。
とくにカナを助けに来た〝共通点のない集団〟に関しては、インターネット上でも話題で持ちきりだった。都市伝説というのはこういうところから生まれるのかもしれない。
ソウマはこの事件によって政界から消えた。油断のならない人物だ。きっと裏社会でうまく生きていくのだろう。
「なにか食べましょうか」
カナ母はテレビの音量を下げてそう提案した。
「うん」
少しずつでも日常を取りもどさなければならない。
カナはうなずき、目を覚ますために洗面所へと向かう。
鏡に映るその顔には、まだ紋様が残っていた。
*
カナは母親と向かいあって、うどんを食べていた。
消化に良いものを、という献立なのだが……物量で胃腸が破壊されそうだ。
「まさかこっちでカナが危険な目に遭うなんてね……。あなたが無事で本当によかった」
「うん……」
「少しずつでも元気になってね。カナ……」
カナの母は事件のショックでカナの箸が進まないのだと思っていたようである。
たしかにそれも一因しているが〝書架〟の資格をうしなったことに比べれば些細なものだ。
「おかーさん。わたし、敗けたんだよ」
ぼんやりとしながらカナはつぶやく。なんだか魂の一部が抜けてしまったかのような気分だ。
「敗けたって、だれに?」
「うーん……」
運命に、あるいは正義に。
そんな答えは浮きでるものの、口にするには至らない。曖昧な返事だけして、うどんの麺を一本すする。
ともあれ、サーベラスの目的は果たされた。カナというゆがみは異世界から追放されて、これ以上はもう関与できないのだから。
しかしそこから何百と続く〝暗黒の周期〟の存在に気づいたとき、彼はなにを思うのだろう。
「わたし、もう向こうの世界に行けないんだ」
それは母にとっては喜ばしいことなのかもしれない。
けれどカナの母はそれを悟らせようとはせず、暗い表情でうつむきながらエルフのカナのことを考えているようだった。
「あなたに成りかわってた向こうのカナね、故郷にお母さまがいらっしゃらないそうなの」
それはエルフのカナ本人が明かした彼女の素性だった。
カナの母は嵐のように過ぎ去った日々を懐かしむように思いだしながら続ける。
「その話を聞いた途端にね、娘を奪ったっていう恨めしい気持ちがすっと消えて、少しでもあの子のことを知ろうと思った。わたしはあの子の母親がわりになれたのかしら」
こころに残るちいさな未練を、母は明かした。
「もういちど会いたいって思う?」
カナが尋ねると母は「そうね……」とうなずく。
「でもね、会えなくてもいいの。夢のような出来事だったけど、わたしはきっと死ぬまで忘れない。そうすればずっと、つながってるように感じるから」
その言葉にカナはおどろいていた。かつてジンが屋敷で教えてくれたことと、まったく同じことを話したからだ。
「忘れるわけないよ。マヤたちがいなければ、わたしはここまで変われなかったもん」
「あ、自覚あるんだ。あなたすごい明るくなったもんね。お母さんそれは嬉しい」
母の言葉にカナは少しずつ元気になっていった。
友だちのマヤのこと。屋敷で過ごした日々のこと。王都まで野宿しながら旅したこと。
ほかにもいろいろ、たくさんのことをカナは話した。まるで本で読んだ物語を紹介するみたいに、奇想天外な出来事が流れるように記憶に浮かぶ。
それらすべてが、幻想的な現実だった。
母が親身になって聞いてくれたこともあり、気づけばうどんの器は汁だけになっていた。体重が心配だ。
「ところで、その目の下のアザはなんなの?」
「ゔっ……?」
話の途中で母が尋ねると、マシンガンのように放たれていたカナの言葉がピタリと止まった。
ハイドのことに関しては、正直言いづらい。古代の意志とは紹介したものの、その姿はなんとまるで自身の理想の男性のようですだなんて、口が裂けても言えん。
「あなたかなり落ちこんでたけど、思いこみって可能性はないの?」
「え?」
思ってもみなかった母の問いに、カナはきょとんとした。
「だって普通、異界とのつながりが完全に絶たれたら痕跡なんて残らないんじゃない?」
そう言われればそうなのかもしれない。
なぜならカナは、この世界にもどってからいちど魔法を使っている。ほかの〝書架〟の経験者は使ったりしないのに。
(……ハイド、いるの?)
まさかと思いながらも、こころのなかで呼びかけてみる。
『ああ』
淡々とした返答。手が震えるのは怒りのせいか、喜びか。
どうして気づかなかったのだろうか。疲労はひとの判断能力を鈍らせるものである。
「……作戦を練る」
「えっ?」
カナは速やかに立ちあがり、最短距離で自室にもどった。
ためしに召喚魔法を使ってみると、アザが消えて、魔法陣からハイドが現れた。
「ついてきちゃだめじゃん、ハイド――」
呆れてため息をつきながら、カナはつぶやく。
あれだけ世界の復興を悲願だと宣っていたのに、本人がその故郷に帰れないでどうする。
されど、こころのどこかで嬉しく思っていたのはまちがいない。彼の存在は、真実の証明にほかならないからだ。
ハイドはというと無感情な顔のままカナを見つめている。
その綺麗な黄金の眼にはまだ一筋の希望のひかりが残っているようで。
「――カノンからの伝言がある」
淡々と一言、カナにそう告げたのである。




