#89 暗黒の周期より
「はあっ!」
カナがもどってきた場所は、知らない屋上だった。
隅から地上を見下ろすように立っており、たまらず叫びながら背後にある鉄柵にしがみつく。
どうやってもどるんだろう。今のカナの運動神経では柵を乗り越えるのは危なくて無理だ。
「ていうか、ここはどこ!」
おそらく閉じ込められていた部屋から脱出したのだろうが、状況がまるで読めない。地上にはアスファルトで舗装された広い場所に、軍用車が数台停まっている。どこかの基地のようだ。
身動きがとれずへたりこんでいると、上空を飛んでいたヘリコプターに強いひかりで照らされた。顔をしかめながら両腕でそれを隠す。
見つかったと思ったら、背後から二十名ほどの武装兵たちがやってきて、一瞬にして包囲される。テレビでよく見る防弾シールドをよもや自分に向けられようとは。
「なんなの、もう……」
カナは資格をうしなった絶望で、弱々しくむせび泣くことしかできないでいた。
そんなことなどお構いなしに、兵たちは少しずつ距離を詰めてくる。
保護しよう、という雰囲気ではないのが見てとれる。
「別れを悔やむことすらさせてもらえないわけ……?」
こころのなかに、火が灯った。
ふいによくない考えが浮かんでしまう。自覚すれば一瞬だ。カナのこころを暗くてふかい闇が覆っていく。
ダメだ。踏みとどまれない。
その証拠と言わんばかりに、前髪が銀に染まっていくのが見える。
『――わたしに近寄らないで……!』
怒りにかまけて、カナは一線を超えてしまった。
足元に広がっていた魔法陣から黒いオーラが波打つと、兵士たちが次々に倒れていった。その単調な音でわずかにも冷静さを取りもどして、自分のしたことに目を丸くする。
「ああ……」
なんの魔法を使ったかも定かではない。
ただカナが気づいたころには、周囲を包囲した兵士たちは全員が眠っていた。
魔法、まだ使えるんだ。
そんなことをぼんやりと考えつつも、少しずつ焦燥感が湧いてきた。
「逃げないと……」
いったいどこに。逃げ場なんてないではないか。よもや飛びおりるのが最善なのではないか。三階の高さならいけるようにも思える。
地上を覗きこみながら、よからぬ考えをめぐらせていることに気づき、慌ててそれを振りはらう。
恐怖に、絶望に、悲嘆に、罪悪感――。
波のように押しよせる感情により、カナは錯乱状態に陥っていた。
「どうしたらいいの……。だれか助けてよ……」
このままでは、気がどうかなってしまいそうだ。
そのときだった。ヘリのライトや、地上の喧騒が別の方向を向いたのである。
弱々しくも顔をあげてその方角を見る。そこにはカオスが広がっていた。
パトカー、救急車、軽トラ、回送中のバス、チャリで爆走する不良グループ――。あまりにも共通点を見出せない大多数の民間人が、基地に乱入して暴れまくっている。
「なんで……なに、これ……?」
カナは困惑するほかない。のちにニュースで知ることになるが、その数じつに三百名。
地上にいた兵士たちが武器を構えてそれを止めようもするものの、民間人である手前、たやすく発砲できずにいる。あ、犬に噛まれた。
そのなかには見たことがある顔もあり、直後、カナはすべてを悟った。
「……みんな、見守っててくれたの?」
カナは幼少期のころから、だれかの視線にいつも悩まされていた。
犬を連れた老婦人。
モールの従業員。
コンビニでたむろする不良。
気味が悪いと避けてきた彼らが、喧騒のなかで暴れている。
彼らの多くが、今日という日にカナを救いだすために〝暗黒の周期〟に呼ばれた〝書架〟たちだった。
この状況を作りだすために、リュウは向こうで自殺を繰りかえしてきたのである。
史録がどの時代に飛ぶかはわからない。過去かもしれないし未来かもしれない。そんな条件下でこれだけの人数を集めているのだ。きっと千回以上は死んだにちがいない。
ついに一台のプリウスがカナのいる場所に突っこんだ。これ思ったより大惨事だ。続くようにタクシーと救急車も近くに停車した。
それからしばらくして、民間人で秘密裏に組まれていたカナ救出部隊は、ものの見事に基地を制圧してしまった。
「カナッ!」
真っ先に屋上に駆けあがってきたのは、剣道防具で全身を隠す岩下きなこだった。眠っている兵士をおそるおそる踏み越えながら、カナのもとに駆け寄る。
「岩下さん……? なんでここに……」
夢でも見ているような気がして、カナは尋ねる。彼女は〝書架〟の経験はないはずだった。
「竹田が教えてくれたんだ。カナがピンチだって」
「竹田……? だれだっけ……」
「……まあとにかく、こんなとこさっさと出よう。風邪引いちゃう」
カナは放心状態になりながらも、笑みを無理して作りながら答える。
「ご、ごめんね……。いろいろありすぎて、足がすくんで動けないや……」
あとからやってきた変装したひとに手伝ってもらいながら、カナはどうにか鉄柵を乗り越えた。一階までは、岩下ちゃんが背負ってくれた。
地上には車窓の外からなかの様子が見えないタクシーが停車していた。運転席にはひょうきんな顔をした老人が待機している。ずいぶんと年配の男のようだ。
変装したひとは助手席にすわり、カナときなこは後部座席についた。
「岩郷さん、出してくれ」
「はーい。しっかり掴まってくださいね」
運転手に指示をだす変装したひとの声には、聞き覚えがあった。窮屈そうだった黒い布マスクとサングラスを外すのは――深淵くんだった。
「あ、竹田くん……」
やっとその名前を思いだす。彼も〝エリュシオン〟に行ったことがあったのだ。
タクシーの座席には『安全運転でまいります 岩郷 仁』と手書きで書かれたボードがある。
きっとカナのことは知らないだろうが、運転手は執事のジンと入れ替わった人物のようだった。
「こちら〝シャドウ〟――。任務は達成した。各自、身の安全を確保したのち撤収せよ」
深淵くんはスマホを使って、助けに来た者たちに通信していた。様になってるあたり、なんども台詞の練習したことがうかがえる。
「ヘリに追われるかと思いましたけど、あっちもそれどころじゃないみたいですねぇ」
運転中に空をながめながら、運転手はつぶやく。
「勇者を渡したくないんだろう。フッ、無駄だがな。これだけのさわぎになってメディアが報道しないわけがない」
深淵くんの言ったとおり、この事件は国が有耶無耶にできないほどの話題を呼ぶことになる。
今後、何者かがカナに手出しすることもできない。
リュウがこの状況を作りだしたのだ。感謝の気持ちもあれど、恐怖がそれにまさっていた。異世界からの干渉で、現実がゆがんだのだから。
「ご自宅までお送りしますよ。……あれ?」
疲労がどっと押しよせる。重たい目蓋を支えきれず、気づけばカナは眠りに落ちていた。
深淵くんが事前に住所まで調べていたようである。
次に目を覚ましたとき、カナは自宅の部屋にいた。




