#85
シエルはゆっくりと湖畔まで泳いできて、ざばっと岸にあがった。カナとの再会を喜んで抱きついたりはせず、少し距離を置いてもじもじしている。
「シエル。ただいま」
カナはシエルにほほえみながら、両手を広げてだっこの姿勢をとった。そこまでしてもシエルはうつむいてしょんぼりしたままだ。
「主人……シエルの無礼をお許しください」
ヘネがそう言いながら頭をさげるので、カナは慌ててそれをやめさせた。
「許すもなにも、はじめから怒ってないよ。だからおいで、シエル」
シエルはおそるおそる近づいてきて、カナの右手を両手で握った。ひんやりして気持ちいい。
なにをするのだろうと思った矢先、シエルは持ちあげたカナの手を胸にあてる。ちょうどその奥にはコアがある。
いくら女の子同士といえど、そのぷにぷにした感触にカナはどぎまぎしてしまう。いや全身ぷにぷになんだけど。
「な、なぁに? シエル……」
「……っ」
シエルは声を出せない。それでもカナの言葉に答えるかのように腕にちからをこめて――カナの手を体内にしずめた。
「ぬおああっ! し、シエル、なにを!」
あまりにも未知な行為をまえに、マヤは両手で目を覆いながらも、鼻息あらく血眼になってそれを見ていた。
でもシエルはなんだか苦しそうだ。なにをしているのかはわからないけど、身を震わせて無理していることはわかる。
「……ひょっとすると、コアをこわしてほしいのかもしれません」
ヘネの推測に、シエルは苦悶の顔を浮かべたままうなずいた。
「コアをこわす?」
「生きのこることを最優先にする性質を主人にゆがめてほしいのでしょう……」
今のシエルにはそれがひとつの制約になっており、どんな戦いからも逃げだしてしまうのだそう。
「ま、待って。それ失敗したらシエル死んじゃうでしょ。ダメ。ダメです」
カナはそう言って、シエルの身体を傷つけないように手を引っこぬいた。胸元に空洞ができてしまったが、すぐに塞がった。
「……っ!」
シエルは必死に手をばたばたさせて、なにかを伝えようとする。
「わたしも主人のために戦いたい! ――のかもしれません」
ヘネの推測にシエルはうんうんとうなずく。すごい。以心伝心だ。
「その気持ちだけでわたしは嬉しいよ。それに逃げだすことは、悪いことではないと思う」
「……?」
「大それたことは言えないけど……。おもちはおもち屋だよ。わかるかな。戦うことだけが、あなたたちの役割じゃないはず」
戦いで強いことだけが、ひとの強さではない。
自分の弱さをなんども痛感させられたからわかる。未だに積極的に戦うことを是としないカナに比べれば、シエルの向上心には見習うべきところがあった。
「…………」
それでもシエルは納得できない様子で頬をふくらませながら、ふてくされてしまった。
「ちょっとシエル。なんじ主人を困らせすぎ。てかわたくしより主張が激しいんだけど? これ以上は事務所とおしてくれる?」
なんのだよ。
ともあれ、二人が記憶をうしなわずにそこにいてくれただけで、カナにとっては充分だった。
「いい? ヘネ。あなたは村の王さまとして、みんなを守るの。わたしじゃなくて、村のみんなをだからね」
「う……はい……」
「できることからでいいからね。がんばるだけでえらいからねえ」
あんまり言うとハラスメントになっちゃうかもしれないから、きのこの傘をなでなでしながら、できるかぎり優しく伝えた。
するとヘネもちょっとばかりは自信につながったようで、少しずつ顔を明るくしていった。
「はい……できる気がしてきました……」
なんてかわいい子だろうか。ほんのちょっと、チクっとしたくなってしまう。一回だけ。針のさきっちょだけ。笑みは絶やさず、慎重に言葉をえらんで。
「そう? じゃあできなかったら……秋の味覚だからね……」
まるで意味はわからんのだが、ヘネの表情は石みたいに凍りついた。
カナはぞくぞくした。
*
して。
カナはこの周期でのんびりしている場合ではなかった。
閉じこめられた場所から逃げるようにこっちの世界にやってきたのだ。それからもう二時間くらいは経とうとしている。
今、現実にはエルフのカナがいるはずだが、ろくなことはしていないだろうという確信があった。
「それは……その、極めて危機的な状況ではないですか……?」
経緯をヘネに説明すると、おそれながらもとヘネはそう告げた。
「どうして?」
「む、向こうの世界で主人が死亡したら……もとの世界にもどれなくなります……」
「げっ! そうだった!」
咄嗟の判断だったためにカナは失念していた。ハイドが止めてくれればよかったのに。
『案ずるな。エルフが魔法も使えん者に屈する道理などない』
フラグを立てるな、ハイド。
向こうにいるカナはかよわき女子高生だ。
「すぐにでも勇者に伝えるべきかと……」
「どうしよう。どこにいるかなんてわからないよ……」
「史録の内容を思いだしてください。はじまりの村に勇者はいるはずです……」
ヘネの言うとおりだった。
幸いにも史録の冒頭部分はそれなりに読んでいたので、カナはなんとなく覚えている。空をぽかんと眺めながら、自身の記憶をさかのぼる。
「たしか、ローズ領の……プリ村? みたいなとこ」
自信なさげにカナが言うと、マヤは肩を落としながら告げる。
「……プリ村? 西の果ての街じゃない……。勇者ってあんなとこ出身なの?」
「もしかして、……遠い?」
「ローズ領は王国西部の防衛のかなめだからね。馬車でも二週間くらいかかるわよ。その向こうは、隣国だしね」
カナは頭をかかえた。当然ながら、そんな時間などない。
転移魔法を使うにしても魔力が足りなくてひとっ飛びとはいかない。
「〝ほろぶろ〟みたいなものがあればいいんだけど……」
「さすが主人、その手がありました……」
「あるの?」
カナがきょとんとすると、ヘネはうなずいた。
「仕組みは単純です。声を魔力の波に変えて飛ばすだけですから……。胞子でもつくれます……」
「そっか! あとはそれをプリ村が受信できる波長で飛ばせばいいのよ。ヘネ、あんたすごい!」
マヤは目を輝かせながらヘネを褒めた。
「えへへ……あ、調子のってごめんなさい……」
ヘネは両手を地面に向け、伸びてきた菌糸を編みこみはじめる。あっという間に《胞子通信機》を完成させてしまった。
きのこのつまみをまわして、ヘネはそれを始動させる。
「いちどでも史録に書かれていればいいのですが……」
カナたちはつながることをお祈りしながら通信機の挙動を見守った。
きのこのこのこ、きのこのこのこ。呼びだし音はヘネの声だ。
『……なんだ? アルレンか?』
通信機の向こうから老いた男の声がした。成功だ。
「ゆ、勇者と話がしたい」
喜ぶのもつかの間。ヘネは電話のマナーとかも知らずに用件だけを相手にぶつける。挙動不審な女の子の声に、電話相手の怪訝な表情が伝わってくるようである。
『は?』
「勇者と話がしたい……」
ガチャ。切られた。
「…………」
「やれやれ……話の通じない人間はこれだから……」
沈黙を突きやぶるかのように、ヘネは呆れた様子で愚痴をこぼす。
そのあとマヤに森の奥へと連れていかれた。




