#80 先輩、いっしょに帰りませんか
エルフのカナは言いつけどおりにたぶん魔法を使わなかったし、人も投げていなかった。
ただ毎日部活に行けという指令を履きちがえ、剣道部に入り浸っていたようである。
初日から幽霊部員になっていたカナは文芸部のみんなにぺこぺこと謝罪して、少しずつもとの日常を取りもどしていた。
そして、ついに運命の日が訪れる。
その日の授業中、カナはずっと幻想世界のことを考えて勉強には身が入らなかった。
パチンッ。
ときおり、カナの顔のあたりで静電気のような音が鳴る。コンシーラーで隠しているが、目元の紋様がついたり消えたりを繰り返しているのだ。
放課後の鐘が鳴ると、カナはまっすぐに文芸部の部室にやってきた。一番乗りかと思ったが、すでに「フッ……」の男子生徒がいた。気まずい。
「なあ、江利田」
部誌の原稿作業をしているところに、カナは声をかけられた。
「えっ?」
まさか話しかけられるとは思わなくて、カナは変な声をあげた。そもそもこころのなかで彼のことを深淵くんって呼んでるから、つり目の彼の名前が思いだせない。
「……いや、なんでもない」
「ええ……?」
柄にもなく彼は普通の話し方をしていた。もっと暗黒の邪竜がうんぬんみたいな感じだったのに。
それから少しずつ部室にひとが集まってきて、結局深淵くんがなんの用だったのかはわからなかった。
そしてしばらく、クラスメイトのひなのと雑談しながら作業をしていると、予想どおりにリュウはやってきた。
あいかわらず受験勉強でお疲れの様子だ。部員と挨拶を交わしながら部屋の窓際にあるいつもの席についた。
勇者の言葉が正しければ、このあと彼は事故に遭う。そして昏睡状態におちいる。
いつにも増してカナはリュウのせなかを目で追っている。このとき深淵くんだけがそのことに気づいて、かすかにうつむいた。
リエ後輩はここのところ、リュウによく懐いていた。ことあるごとに「センパーイ♡」と話しかけにいく。冴えない男が好きなんだろうか。
「……今日ぉ、いっしょに帰りましょ♪」
まる聞こえなリエの耳打ちに、カナはがたっと立ちあがった。いきなりなんだと注目をあつめて、何事もなかったかのようにすとんと席につく。
「カナちゃん、なんか最近ぼんやりしてるね」
「うん。考えごとしてるから。でもそれも今日までだよ」
ひなのの言葉に、カナは悲しそうな笑みを浮かべながらうなずいた。
「異世界のこと?」
「そうだよ。だけどきっとそれは、素敵なまぼろしだったんだよ」
何日もかけてハイドと相談して、カナは答えを出していた。
ひなのは言っている意味がわからないようで、首をかしげる。
しばらくして、校内にチャイムが鳴る。部活が終わる時間だ。深淵くんはそそくさと荷物をまとめて、部室を出ていこうとする。
「あっちょっとけんた!」
「フッ……所用があってな」
部長のもっちーがそれを呼びとめるが、深淵くんはそれだけ言い残して帰ってしまった。
「もう……忙しい時期なのに!」
なんだかんだ運動部は夜の八時くらいまで練習してるし、文化部も居残りして怒られることはあんまりない。
「くおおおっ。良い展開が……っ! 思い浮かばん……!」
リュウは新人賞の原稿をまえに、頭をかかえている。わかるよ、その気持ち。
「リュウセンパーイ、帰ろうよぉ」
「も、もうちょっと待って……」
「あ、ここ誤用♡」
「うあ……」
リエ後輩はあだっぽいタメ語でささやきながら、リュウの原稿を覗きこんでは粗探しをしている。なんて優秀なアシスタントだ。
「今日はこのへんにしとこっか。先輩! 部室閉めます!」
もっちーがそう言うと、今日の部活動は終わりを迎えた。
カナが荷物をまとめても席から立とうとしないことに、ひなのは怪訝な表情をする。
「カナちゃん……?」
「ごめんねひなのちゃん。わたし、リュウ先輩に用があるんだ」
「そっか。じゃ、また明日ね?」
「うん。またね」
ひなのが帰路についたしばらくあと、リエ後輩がリュウにひっつきながら部室から出ていこうとするのを、カナは阻んだ。
「カナせん。どうしましたか?」
きょとんとしながらリエ後輩は問う。部室に残っていたもっちーも、不思議そうな顔をしている。
「リュウ先輩……」
気まずい空気のなか、カナは重々しい口をゆっくりとひらく。
「どうしたの、カナちゃん?」
だいすきなマヤ。異世界で初めて友だちになってくれた子。
小さいのにとてもしっかりしたリミちゃん。
悪そうに見えるけど意外と家庭的で仲間おもいなゼノ。
旅をともにした時間こそ短いが、彼らはかけがえのないたくさんのものを与えてくれた。
異界で出会ったすべてのひとへ。
そして苦渋の決断を後押ししてくれた、世界でもっとも勇気のある古代人へ。
カナはこころのなかで、最大限の敬意と感謝を伝えた。
今までありがとう。そして――
「先輩……いっしょに、帰りませんか」
――さようなら。
「はあッ?」
これでもかと眉をねじまげたリエ後輩の訝しげな声とともに、返事を待たずして解き放たれるカナの慟哭が、部室のなかに響きわたった。
「え、え? えっ? か、カナちゃん!」
もっちーもリエ後輩も意味がわからないままに、とつぜん崩れおちたカナのもとに駆け寄った。
カナは、リュウを助ける選択をした。
それはつまり〝エリュシオン〟が、生まれないということだ。
パチンッ……――。
それでもいちど、顔から音が鳴る。カナから血の気が引いていく。
記憶も消えていない。ハイドとのつながりもまだ感じとれる。
「うそでしょ……!」
カナは荒い呼吸のまま、目を丸くする。
「カナちゃん、どうしたの。なにがあった?」
リュウはあわあわと困惑しながらカナに問う。彼はギャン泣きする女子の扱いなど知るよしもない。
「先輩、あなたは……あなたは今日、事故に遭って昏睡してしまうんですっ……!」
たまらずカナは未来を教えた。錯乱しているととらえられても仕方のないことを必死に叫ぶ。
それでも消えない。記憶も、ハイドも。
『……まさか』
カナのこころのなかで、ハイドも不吉なことを考えていた。
この一週間でいろんな作戦を練ってきたから、この状況も予想はしていた。
答えを出してもなにも起こらない理由。単純明快だ。
過去も未来も、不確定なまま変わっていない。
*
剣道部の練習場に、運動とは無縁そうな黒髪の少年が尋ねていた。彼の名は竹田けんた――文芸部二年、カナ称・深淵くんである。
「……剣道ってこうだったか?」
兵士の戦場みたいな練習風景を見学しながら、深淵くんはつぶやく。
その覇気たるやさながらひとつの舞のようである。が、それはさておき。
深淵くんには剣道部の知り合いはいない。
部員の誰もが彼を尻目に疑念をいだくが、練習もありわざわざ相手にしようとはしない。
さしてコミュ力も高くなく、顧問もいないので、彼はしばらく見学するほかなかった。
そんな様子をついに見かねて近づいたのは、学内最強の女・岩下きなこだった。
「……だれかに用?」
「フッ……岩下だな?」
「そうだけど……」
なんだこいつって感じの眼差しを向けながら、きなこは困惑している。
されど深淵くんはニヒルな笑みをすぐに取りやめ、真剣な表情をして彼女に告げる。
「訳あって江利田を助けたい。協力してはくれないか」
「カナを? どうかしたの?」
カナの名前が出るとは思わなかったのか、きなこは首をかしげながら尋ねた。
「江利田は今日、危険な目に遭う。最悪の場合、死ぬかもしれない」
肌寒い夜風が突き抜ける。
彼女は突拍子もない話につかの間、言葉をうしなった。




