#77
ぱきり、ぱきり。
凍えるようなくらやみのなかで、へんな音が鳴っている。かたまるような、割れるような。
気づけばカナは、現実世界にある自分の部屋にいた。
「さ、さむっ! 風邪ひいたかなあ……」
まっくらな部屋で何時かもわからず、窓のそとを覗きこむ。
夜よりもくらい空間が、無限にひろがっているかのようだ。ときおりほとばしる閃光に、そこが深層意識であることに気づく。
そして少しずつ思いだしていく。自分がどうしてそこにいるのかを。自分がどうしてこんなにさむいのかを。
カナは茫然としながら、ベッドにすとんと腰をおろした。掛け布団をあたまからかぶっても、そのさむさが消えることはない。
「やだよ……うそでしょ。わたし、まさか――死んだの?」
しばらく布団のなかで震えていると、廊下につながる扉がわずかに開いた。暖かいひかりが差しこんでいるのが見える。
ゆっくりと立ちあがって、救いをもとめるかのように手を伸ばしたとき、うしろから誰かに止められた。
「あ、ハイドだ……ってこころの声ッ!」
『行くな、カナ……!』
ここはカナの深層意識、つまりハイドとつながっている場所だ。ハイドは柄にもなく必死そうな顔をしていて、カナは首をかしげる。
「でも帰らないと……。おかあさんが、心配してるから」
カナはその手を振りほどこうとするが、彼は絶対に離してくれなかった。
『ダメだ。まだ行くな。扉の向こうに、汝の家族はいない!』
「だってここ、さむいんだよ。ハイドも一緒にくればいいじゃん」
『あっちに行けば戻れなくなる。だから、耐えるんだ……』
「耐えろって言われても……」
ハイドの手の温もりを感じない。それどころか、凍えるような冷たさはどんどん増していく。それと同時に降りかかる、強烈な睡魔。カナはふらついて、ハイドに体重をあずけた。
『寝るなカナ。とにかくここに立て。絶対に座るなよ』
「行くなっつったり……寝るなっつったり……」
『そうしなければ汝は……母にもマヤにも会えなくなるぞ。母との約束を果たさぬ気か』
かならず無事で帰ること。それが母と取りつけた約束だった。
「そんなの絶対に嫌だ……。マヤと会えなくなるのも嫌だ……」
『ならば耐えろ。……今、ヘネとマヤが王都に飛んでいる』
「どうして?」
『汝を現実にもどすためだ。だからそれまでは、絶対にしのげよ』
そう言われても、すでに限界はちかいようだ。脚は棒のようであり、自分のちからで立っているのかもわからないままハイドに支えられている。指先も凍りついたように動かない。
こころの声も口数が少ない。頭が正常に働いていないのだろう。
「ねえ、ハイド……なんかすべらない話してよ」
『こんなときになんだ』
「なにか話してくれないと……おねむなんだよ」
ハイドはしかたなさそうに、それでも『そうだな……』とつかの間のときを考えてくれたのち、こう切りだした。
『ならば、魔王の話でもしてやろう』
「なんかもうすべってない……?」
こころの声は遠慮を知らず、されどもカナは、おだやかな気持ちで彼の言葉に耳をかたむけた。
*
『この世界が本の記述による影響をうけているのは知ってるだろう』
「うん……」
そもそも人々が日本語を話すのは、勇者が本に日本語で文章を記述しているからだ。
『そのせいで珍妙な翻訳がされている言葉がいくつかあるのだ。勇者とか、魔王というのはとくにひどい。カナの知識を覗いたからわかるが、古代に生きていたのはそんな大仰なものではない』
「そうなんだ」
日本の言葉はときにまわりくどい。雨を表す言葉なんかは最たる例で、その数は百をゆうに超えるとも言われている。だからこそ言葉はうつくしいのだけれど、海をわたるときに翻訳に頭を悩ませる者はあとをたたないそうだ。
ぎゃくに海をわたってくる言葉は、仰々しい解釈によるかざりがついて迎えられることもあるだろう。
『我々の言葉で魔王は――〝イヴテュロキス〟と呼ばれていた。魔王だなんて、似つかわしくもない。歴史の波にもまれ忘れ去られたその由来は――〝勝利を司りし者〟を意味する』
日本語、魔王。
古代語、勝利を司りし者。
どのような経緯でその言葉があてられたのかは定かではないが、たしかにずいぶんと意味が変わっているように思える。
「……じゃ、勇者は?」
『勇者は〝イスジャクト〟――〝正義を司りし者〟だ』
「正義なら……それっぽいじゃん……」
全身が冷たい。しびれる舌に意識を向けねば、言葉がもう紡げない。
『魔王は民衆を勝利にみちびく者として崇められた。でも勝者がいるところにはかならず敗者がいるだろう。その敗者に寄り添ったのが勇者だった。これが勇者と魔王の対立のはじまりだ』
「そ、なんだ……」
ぱきり、ぱきり。
呼吸をすれば、身体のなかが凍っていく。それにあわせて、視界が闇に閉ざされていく。
『後世の古代人はそんなことも知らずに、ただ理由もなく争っていたんだ。もとをたどれば相対するものでもないのに。笑えるだろう』
「…………」
どうかなあ。
ハイドには悪いけれど、もう返事はできなかった。
『カナ……我の目を見ろ』
「ぁ……」
そう言ってハイドは、カナの首をやさしく持ちあげる。
ハイドはというと、今にも泣きだしそうな、険しい顔をしているのがほほえましい。無感情なほうがかっこいいのに。
『キミは魔王だ。だから何者にも敗けることはない』
「…………」
すべらないかどうかはさておいて、彼のうでのなかは、凍りついた世界でも感じられるほどにあたたかかった。
『カナ、あきらめてはならないんだ。いちど滅びた古代人に、キミが伝えてくれたことだ』
そういえば、やっと、キミって呼んでくれたな。
ゆっくりと閉ざされる世界のなかに、カナは一瞬、きらめくひかりを見た気がした。
それからはなにも見えなかった。
たしかなことは、ハイドがちかくにいてくれたことだ。
おわりの間際に孤独を感じなかったんだ。これほど幸せなことなどあるまい。




