#75 憧憬が招くのは
森のどこかから急に現れたサーベラスに、カナは尋ねる。
「サーベラスさん、どうしてここに……? 王都で入院してたのに……」
やってきた方角に村はなく、あるのは急勾配な斜面がつづく山林だ。いや、それよりも。
彼がほんのわずかだけ振りまいていたおぞましい気配はなんだ。まるで魔獣とでくわしたかのような緊張感が、二人の背筋にほとばしる。
「ちょうどカナどのに用がありましてな。傷もよくなりましたし、最短距離で野山を駆けてきたのですぞ!」
カナが王都を出てからまだ三日目の昼だ。ひとりで移動してきたようだが、呼吸もおだやかでまるで疲労がない。獣人がいかに強靭なのかがうかがえる。
「わたしに、用……?」
「ええ。マヤどの、失礼ですがしばらく彼女をお借りしてもいいですかな?」
サーベラスはにこやかに問う。反してマヤは、刹那の敵意がなんだったのかわかるまでは、警戒をとかないつもりでいた。
「……用だったら、屋敷で聞くわよ?」
その言葉に、懐疑心に満ちた獣の眼がひらく。
「――いえ、すぐに済む話ですな。カナどの、魔王はどこですかな?」
「あなたも聞いてるでしょ。魔王はアルレンが継承したの!」
カナでは嘘をつけないと判断したのだろう。マヤが割りこんで、代わりに答えた。
しかし獣人は疑り深い。そしてなにより――鼻が効く。
「質問を変えますぞ。カナどの、貴殿が魔王なのではないですかな?」
病院での嘘ははじめから見抜かれていたのだろう。だから彼は今、魔王を探してここにいる。
「……も、もしもそうだとしたら、どうするのですか?」
カナはおそるおそる尋ねる。彼をだますことはできない。ともすれば早いうちに真実を話して協力してもらうのが……。
「貴殿を殺します」
あわい期待を打ち砕くかのように、もっとも聞きたくなかった言葉がサーベラスから告げられた。その眼はすでに、獲物に狙いをさだめている。
「なんで……?」
今の二人には魔力がそう多くは残されていない。戦いになることだけはどうしても避けねばならなかった。
「語弊がありましたな。貴殿が魔王でなくとも、我は貴殿を殺すつもりですぞ。なぜなら貴殿は――ゆがみですからな」
「ゆがみ……? それってどういう――」
カナの言葉は耳をつんざく金属の衝突音によってかき消される。エルフの動体視力ですら見切れない裂爪が、マヤのつくっていた防御魔法を引き裂いていた。
なにが起きたのか咄嗟に理解できず、カナはその場で腰をぬかした。
こわい。
殺意を向ける獣人の眼は、あまりにも黒くて、そして無感情だ。
「マヤどの。邪魔ですぞ! せめて痛みを感じぬようにと配慮したのですがな……」
それがわかってしまうからおそろしい。彼の爪はまともに受ければ……おそらく首が裂けていた。
「カナ! 飛んで逃げてっ!」
マヤを守れ。その意思だけが、カナの身体を突き動かした。
即座に変身し、マヤの足首をつかむ。飛べ。詠唱とかしてる暇はない。はやく、飛べ。どこでもいい。できるだけ遠くへ。
必死に念じると、髪のいろが塗りかわるのも待たずに、カナたちは屋敷の前に転移した。
「た、たすかった……」
カナは恐怖で、しばらく身動きがとれなかった。飛んだ感覚がいつもとちがった。転移魔法はハイドが使ってくれたようだ。
マヤも緊張がほどけ、その場に膝をつく。そのままゆらゆらと頭を揺らすと、気をうしなって倒れた。魔力が枯渇していた。
*
カナたちはジンに介抱され、マヤは私室に運ばれた。ぬいぐるみがいくつか飾られたかわいらしい部屋だ。枕元にはスライムのぬいぐるみが置かれている。
「まさかサーベラスまでカナさんを狙うとは……。お二人が無事で本当によかった……」
マヤに毛布を着せながら、ジンはつぶやく。その目にはすでに彼と敵対する覚悟があるようだった。
「でも……サーベラスさんって〝自覚者〟ではないですよね?」
おだやかな寝息をたてるマヤをながめながら、カナは問う。
「そのはずですが」とジンは答えた。それ以上のことはわからないようだった。
「とにかく、カナさんも休んでください。のちほど軽食をお持ちしますね」
カナはうなずき、マヤの部屋をあとにした。
扉を出てすぐ、廊下で様子を探っていたセネットとでくわす。ちかくを掃除しているふりをしても、心配を隠しきれるわけがない。
「カナ……! マヤ様は大丈夫なのかい?」
「はい……。魔力を使いすぎて倒れてしまって……今は眠っています」
それを聞いたセネットはあきれながらも、安堵の息をついた。
「まったく……心臓にわるいよ。もっときつく教えておくべきだったか……」
「なにをですか?」
セネットはマヤの教育係として魔法を教えていたこともあった。ふと気になって、カナは尋ねる。
「魔力切れは起こしちゃいけないんだよ。失神はひとつの防衛本能だが……ひとの意思はときにそれを乗り越えちまう。そうして使う魔法はいつもよりも強力だが――代償としていのちをけずる。あんたも覚えときなよ」
その言葉にカナはぞっとした。
あのときハイドの転移魔法が遅れていたら。
もしもサーベラスが追撃をかましていたら。
マヤは致命的なダメージを受けていたのかもしれない。
「わたしが、なんとかしないと……」
カナは対策を講じねばならなかった。
少なくともサーベラスは常識的な男だ。村にいれば危害を加えることはないと信じたい。
しかし話しあって解決しないことには、永遠に追われる身となってしまう。安心して、屋敷の外を出歩くことすらできなくなるだろう。
カナは屋根裏部屋にもどり、作戦を練ることにした。古代の叡智をかき集めて、サーベラスを無力化する方法を探っていく。
目的は対話だ。以前ムサシに行使した悪夢を見せる魔法は、最終手段としてしか使えない。
足元を凍らせて拘束する魔法。
ある空間の構造をすかすかにして落とし穴にはめる魔法。
貧血を起こす魔法もある。
白紙の本はたくさんあるので、使えそうなものはあますことなくメモしていった。
『邪魔者は排除すればいいだけではないか』
ハイドはそんな物騒なことを提案するが、それはなんの解決にもならない。周期が変わるかぎり、彼はきっと追いつめてくるのだろうから。
「だれかが不幸になるのはだめなの」
カナはひとこと、そう答えておいた。
『相手はそうではないようだが』
どうせ自己満だなんだとけなされると思っていたが、ハイドの返事はそうではなかった。
「どういうこと?」
同時である。花火のような重低音が、空に鳴りひびいた。屋敷の裏手、きのこの森の方角からだ。遅れてやってきた衝撃波が、強風のように窓をたたく。
答えを聞くまでもなく、カナからは血の気が引いていった。
どうして気づかなかったのか。自分のばからしさが嫌になる。サーベラスがまっすぐ追いかければすでに屋敷に到達する時間はすぎているのに。
その衝撃は、ヘネたちがサーベラスを足止めしている証左にほかならなかった。
「カナさん、昼食をお持ちしましたよ」
しばらくして、入り口の扉を開きながらジンが告げる。
返事はなく、眠っているのだろうかと部屋をのぞきこみ、ジンは目を丸くした。そこにはすでにだれもいない。
カナは魔力も少ないままに、サーベラスのもとへと飛んでいた。




