#74
そのあかい本は、まるで空間にはりついているかのように、なんの支えもなく浮かんでいた。カナが見たものとはちがい、表紙もきれいで、文字も書かれていない。
「どうしてあれがここに……?」
カナはおそろしくて、それ以上その本に近寄れなかった。なんの根拠もないけれど、あれに触れてはならないと本能が告げている気がしたのだ。
ハイドが日記に書いていたことは、寝るときになんども読み返していたからわかる。
あれは古代人がのこした破滅への備えだ。
「……六万年ほどの時をさかのぼり、そのすべてを再現する〝魔導具〟。それがあの本――名を《星天の史録》とよびます」
古代人が持つすべての叡智の結晶。しかしその権能はまさしく神のちからだ。だからこそだれも、それを始動させることができなかった。魔力が無限に足りなかったという。
それがなぜか勇者の手にわたり、この悲劇的な奇跡を呼び起こした。
「書かれたことが現実に起きるってのにも納得ね」
マヤは壮大な話にあきれながらも、しっかりと分析をする。
「ほ、本来は原子をならべて文字を記すくらい精細なものなのです……それがなぜあんなことになったか――もしかすると主人のちからなのかもしれないと思いまして……」
ヘネはめそめそしながらそう説明した。だからこそ、これをカナに見てほしかったのだ。
「まさか、わたしがこれをこわせるって?」
「……あ、ごめんなさい、ですぎたことを。傘カットするから……」
「だめ待って。でもそんな危険なこと、できな――」
バチチ――。どこかできいたような奇怪な放電音が、カナの言葉をさえぎる。
それと同時だった。
わずかなとき、世界が点滅した。
気のせいではない。マヤもヘネもシエルも、不可解な現象に反応を示していた。
「い、いまのは……? 機械の故障……いや、そんなはずは……」
本能は近寄ることを拒むのに。
どうやら運命は、近寄らないことを拒んでいるらしい。
ヘネは信じがたいものに怯えるような顔をカナに向けている。
ハイドもなんとなく同じことを考えているのがわかったから、カナはそれを確かめるようにつぶやいた。
「ここでわたしが本に触れないと――この世界は消えるの?」
それではまるで、勇者が本を手にするのに自分が加担しているみたいではないか。
おどろきのあまり言葉をうしなうマヤと、状況がわかっていないのかぼーっとするシエルをよそに、カナは覚悟を決めて前にでる。
祭壇のうえに浮かんでいたあかい本に手を伸ばして――それを取った。なにもおこらないじゃん。感触はざらざらしている。なかはまっしろで、ふつうの本だ。
『それは〝魔導具〟だ。魔力を流しこんでみろ』
どパァーン!
ハイドの指示どおりにすると、そのあかい本は銃声のような音をひびかせて、一瞬にしてどこかに消えた。
「み、耳が……」
カナはよくわかっていなかったが、このとき史録は次元の果てにぶっ飛んでいた。またいずれめぐりあうことになる、その日に向かって。
「や、やはり……〝始動〟した……! たぶん、こわれたけど……」
ヘネはうれしそうに、感嘆の声をあげている。それは古代人の悲願が悠久のときを超え、成就した瞬間でもあった。
実感こそないが〝性質反転〟のちからを持つカナが〝書架〟だったからこそなしえた奇跡だった。
*
カナたちが塔を出ると、見計らったかのように塔のなかは暗くなった。
「これは……報告してもいいことなの……?」
マヤは王への忠誠と得体のない不安のはざまで揺れているようだった。
本はどこかに消えてなくなった。しかしもし、周期が変わったことで本がもとの場所に戻ったらどうなる。それに手を伸ばす者たちがこぞって争いを起こすかもしれない。
「問題はないと思いますが……憤怒はどういう見解でしょう……」
ヘネはカナのなかにいるハイドに向かって、自信のない様子で問う。もとが同じでも、今やれっきとした別の存在なんだろう。
『……同意見だ』
「だそうです」
カナはハイドの声を代弁した。
『祝福によってうまれた〝魔導具〟は人工のそれとはちがう。本に書かれずとも存在するし、状態の変化も維持するだろう』
「だそうです」
つまり、こわれた本はこわれたままと。ひょっとすると、塔の入り口も。そう考えるととんでもないことをしてしまった実感があった。
「ま、またわたしなんかやっちゃいましたあ?」
どうしてもいちど言ってみたかった台詞を、カナはうわずった声でいきなり放った。
「どういうこと?」
「なんでもないです……」
しらけたが。もう二度とやらない。純粋なマヤの眼差しが突き刺さって痛いだけだ。
「じゃあ、あますことなく報告するからね」
そもそも国王も宰相も〝自覚者〟ではないから、さして問題にはならないのかもしれないと思うのは楽観的だろうか。
マヤの言葉に、ヘネは「はい」とうなずいた。
しばらくきのこの森を進んでいるとき、ヘネが思いたったかのようにシエルに尋ねる。
「えと、シエル。なんじ屋敷にあがる気?」
「…………?」
後輩に対してはえらく強気なヘネに対し、シエルはきょとんとした様子で首をかしげた。
「ああ……たしかに、屋敷がべとべとになりそう……」
カナがそういうと、シエルはショックを受けてしまった。言葉がわかるのか。ぽけーっとしてるのは性格みたいだ。
「ならばなんじの居場所は冥村です。湖のほとりにおうちをつくりましょう」
シエルは残念そうだが、それに納得してうなずいた。
「こんど〝工房〟でシエルでも着れる服を仕立ててもらおうよ」
カナはそう提案してシエルを励ます。液体みたいな身体でも着れる服。
「み、水着……!」
マヤも同じことを……いや少しズレているかもしれないが、似たことを考えているようだった。フリルのついたかわいい水着がいいなあ。
「……っ!」
シエルはうれしそうにニコッと笑って、ヘネとともに湖のある方角へと向かった。
それを見送ってから、二人は屋敷に向けて進みはじめる。
ちょうどお昼が過ぎた時間だ。魔力もたくさん使ったし、おなかはペコペコだった。
そんなとき、エノキの茂みをかきわけて、なにかが近づく音がする。魔物だろうか。いきなり骸骨がでてきてもびっくりするので、警戒はせずとも覚悟はしておく。
そこからぬっと現れた巨体の影に、カナは一瞬、肝を冷やした。
「ふう……いったいなんなんですかな、ここは……」
「えっ、サーベラスさん!」
そこにいたのは勇者の仲間のひとりである、柴犬の獣人のサーベラスだった。ワイシャツの下に包帯を巻いているのが見える。
「おお、カナどの、それとマヤどの……」
見知った顔に安堵するのもつかの間である。二人は彼をとりまく雰囲気によって気づいてしまった。
そこにいる獣人がほんの一瞬だけ、明確な敵意のこもった眼差しを二人に向けていたことに。




