#52
初めてとなる部活動に身が入らないまま、その日は終わった。部員たちと別れを告げ、カナは肩を落としながら図書室に向かう。
「失礼します……」
閉館時間はそこまでせまり、読書している時間はない。先日入荷した本を借りて、自宅で気分転換に読もうと決めたのだ。
「あっ! カナちゃん!」
「こ、こんばんは……」
暇そうにパソコンを操作していた司書教諭が、カナの登場に目を丸くする。
「今までどうしてたの! いきなり来なくなるもんだから、すごい心配してたよ!」
それはそうだろう。好戦的なエルフのカナがこんな平穏で落ち着いた場所に来るわけがない。司書の耳にまであらぬ噂はとどいていないようで、カナは安堵した。彼女は数少ない話しやすい教諭なのだ。
「ちょ、ちょっと忙しくて。えへへ……」
「そうなの? まあいいや。そんなことより、聞きたいことが!」
「聞きたいこと?」
司書は肩からさげた髪を揺らしながら、カナを手招きする。内密な話のようである。
カナが司書のもとに耳を近づけると、司書は奇妙なことをカナに尋ねた。
「カナちゃん……お金ほしくない?」
*
非常勤といえど教諭は教諭だ。そんな彼女からの提案に、カナはなにかの間違いかと聞き直した。
「おかね、ですか?」
「そう。百五十万。課税なし」
「ひゃくごじゅう!」
「しーっ!」
驚きのあまりカナは大きな声を出してしまう。一体なにがどうしてそんな大金がもらえるというのか。
冗談のような話だが、眼鏡の向こう側にある司書の真剣な眼差したるや、うそを言っているようには見えない。
「あの本、覚えてるでしょ。赤くてボロいやつ」
「あっ……。すみません、わたし気づかないうちに持ち帰ってたみたいで……」
「いや、私も預かったつもりでいたの。まあそれはいいんだけど。……話すより見たほうが早いか」
司書はそう言うと、カナにパソコンの画面を見るように促した。検索画面には『幻想領域より』と書かれている。例の赤い本の表題だ。
司書はその画面から、フリマサイトへのリンクをクリックした。そこに表示されたものに、カナは驚いて言葉を失う。
例の赤い本が、高額で売買されていた。十万円で売りますというものもあれば、三百万円で買いますという掲載もあった。
司書はこの高額買取に、取引を持ちかけていたようである。それで売れたら山分けしようとカナに声を掛けたわけだ。
「うそ……。なんでこんなに……」
「売りますに載ってるやつは全部詐欺だよ」
「えっ」
考えてみればわかることだ。カナの過去にも〝書架〟をになう者がいて、何らかの後悔をかかえたまま現実に戻されたのだろう。
売ろうとする者はそれを食いものにしようとする悪人といったところか。そもそも、意味のないことだとカナは思った。この司書は一度、赤い本を読んでいる。でも何も起こらなかった。
本は選ばれた者にしか反応しない。手に入れたところで〝エリュシオン〟に行くことはできない。それを三百万で買うだなんて、それこそアヤシイ話である。
「そこでだ、カナちゃん。あの本、売っちゃいましょ! 欲しいもの、買えちゃうよ!」
司書は期待の目を向けるが、カナはそれに応えられなかった。
「その、実は……。あの本、紛失しちゃったんです」
「なぬうっ! ……ほんとにい?」
司書に疑惑を向けられて、カナは必死に頷いた。暗い性格のせいでどうがんばっても嘘を言っているように見えてしまう。でも本当だった。
自室のどこを探しても、赤い本は見つからなかったのだ。エルフのカナのことだから、粗雑にあつかう気がしなくもないが、とにかくないものはないのである。
「まくらの高さ調整に使われた可能性も、鍋敷きに使われた可能性も考慮しましたが……と、とにかく消えてなくなったんです……」
司書はがくっと受付テーブルに突っ伏してしまった。大金だもんなあ。
「そっかあ……。ないものは、しかたないよね……」
心ここに在らずといった様子で司書はつぶやいた。
十八時になって、校内にチャイムが鳴った。図書室の閉館時間だ。外はすっかりうす暗くなっている。
「あっ、本借りなきゃ……!」
「いいよーゆっくり選んで……」
カナが図書室の新刊ゾーンを物色しているとき、司書はフリマサイトのメッセージ機能をひらいていた。
『現物の写真はありますか?』
『少し待ってください。生徒の子が持っているんです』
『わかりました。お待ちしています』
二週間ほど前の、そんなやり取りが残っているページに、司書はメッセージを追加する。
『すみません、どうやら紛失してしまったようです(泣)』
怒られるかなー申し訳ないなーお金だけほしいなーと司書が考えていると、返信は驚くほど早くきた。
『その生徒の方の名前をお伺いしても?』
司書は眉をひそめた。なんかきなくせーぞこいつ、と疑念を募らせる。
『すみません、さすがに名前まではちょっと……』
『ではたとえば……人格が豹変したといった話を耳にしたことは?』
司書は目を丸くした。それには心当たりがあったのだ。カナが図書室に来なくなってから、他の生徒がカナについて話すのを、司書はよく小耳に挟んでいた。
『わかりません。申し訳ないですが取引はキャンセルしますね』
司書は不気味に思って、それだけ送信すると速やかにメッセージを閉じた。ひょっとすると、危ないことに片足を踏み入れていたのかもしれない。そう考え、心拍数があがっていく。
「あの……?」
「わわっ!」
いつの間にかカナが目の前にいて、司書はあわててマウスを落とす。拾いあげる際にはテーブルに頭をぶつけた。
「だ、大丈夫ですか?」
「いでえ……」
「これ……お願いします」
「は、はいよー……」
その後、カナは書籍の貸し出し手続きを済ませると、満足げにかばんにしまって、そのまま下校した。
一人になった図書室で、司書はおそるおそる先ほどのメッセージを開いた。彼女のメッセージを最後に、反応はないようだ。それを確認すると、司書はほっと胸を撫でおろすのだった。
*
帰り道。カナは自転車を引きながら、スマホで赤い本について調べていた。ツイッターでも多くの内容がヒットすることに、カナは驚きを隠せない。
やれ見つけたらDMくださいだの、やれ異星人に洗脳されるだの、なかには都市伝説じみた投稿まである。そこでカナは本を買い取りたい者の理由を一つ見つけた。
『本を持っている方、連絡おねがいします。仲の良かったひとに、手紙を送りたいんです』
目から鱗とはこのことか。たしかに〝書架〟を通じれば、会うことは叶わずともメッセージのやり取りができるのである。手を差し伸べてやりたい気もしたが、その投稿日は随分と前のものだった。
でも、自分とマヤの立場だったら……とカナは考えてしまう。そうなったらもう、彼女の手は止まらなかった。連絡したところで、返事があるとも限らないのだ。
『いま、私がホルダです』
カナは一言、その人物にそう伝えた。それだけでなにか、いいことをした気分になった。
カナはスマホをしまって、うきうきしたまま自転車を漕ぎだす。書籍を四冊も借りてしまい、かばんが重たい。本の重さは、想いの重さだ。なんてことはない。
「ただいまあ」
自宅に着くと、まっすぐ自分の部屋に向かうのがカナの習慣だった。かばんをそっと床におき、開く。
古びた赤い本が、真っ先に顔をのぞかせた。




