#37
「やめてくれ……」
ゼノは力無く項垂れ、自身に起きた現象に気付いていないようだった。
「ねえ、大丈夫なの?」
「……何が?」
寂しそうな顔できょとんとするゼノの様子に、カナと教皇は顔を見合わせた。
「な、何か……ホログラムみたいなノイズが走って消えたように見えたんだけど、一瞬……」
「気のせいではない。私もこの目で見た」
二人の言葉にゼノは困惑しながら自分の身体の無事を確かめている。
「別になんともあらへんけど」
一体何だったのか、結局わからずじまいである。
首を傾げるゼノに呆れて、教皇は一度咳払いをした。
「……ともかく、わかっただろう。勇者の劣悪さが」
「それでアンタは植物に変えられちまったとな」
悔しそうな顔を見せ、教皇はぎこちなく頷いた。
「カナが勇者に慕われているならば、総力をあげて人質に取ることも考えたが、不可能だ。それが〝暗黒の周期〟の引き金になるやもしれぬ」
「……薬でどうにかならないかな?」
カナはゼノに尋ねた。
呆れたように溜息を吐き「あのなぁ」と、ゼノは眉間に皺を寄せながら言う。
「こいつ、マヤちゃんを殺そうとした連中の親玉やで? ほっときゃええねん」
「……本の筋書きから逸れぬようにするのも我々の務めだった。まさかそんな近くに重要人物が居るとは思わなかったのだ……。それは謹んで謝罪する」
それは紛れもなく教皇の本心であるかのように感じ取れた。
カナは一つ疑問に思うことがあり、教皇に尋ねた。
「あの……〝自覚者〟って勇者さんとは周期の順番が違うんですよね。どうやって本の筋書きを特定したんですか?」
「私の娘が、勇者の本を転写して送ってくれるのだ。この巻物はその情報に基づいて創っている。だから、完全なものではない」
教皇は巻物を動かし、一つの周期に書かれた記述を取り出してカナに見せた。
そこに書かれていたものは、紛れもなくカナが現実で読んだものと合致していた。
「……間違いなく、わたしが読んだものです」
あたかも全部ばっちり読んだかのような顔をカナはしている。ほとんど読み飛ばしたくせに。
それでも煮え切らない結末だけははっきりと覚えている。
「これはケンジという者が〝書架〟だった周期だ。暗黒ほど短くもなく、悪でもない周期。生存期間の長さや筆圧から判ずる精神面から〝偽善の周期〟の後期と推測できるが、このように書かれた結末は類を見ないから、印象に残っている」
そこまで考慮して周期を特定しているのだなと、カナは感心を見せた。
本の転写はこまめに行なっているようで、この周期で書かれたものと似た筋書きのものを探すことで周期の順番を特定するようである。
カナがこの世界に現れるまでは、ケンジの周期と全く同じ筋書きで進行していたと、教皇は説明した。だからこそマヤは命を狙われた。
ひょっとするとマヤは、カナが訪れるまでずっと殺され続けてきたのかもしれない。
そうだとしたらあまりにも辛い。カナはそれ以上は考えないようにした。
「……わたしの周期で書かれたことも見れますか?」
「途中までならばな」
教皇はそう言って、この周期で勇者が本に書いたものを見せた。
相変わらずの致命的な描写量のなか、カナは探し求めていたものを見つけた。
『僕たちが塔にたどり着いて間もなく、鬱蒼とした森の奥から何者かの襲撃を受けた』
『驚くべきことに危機的な状況を打破したのは、屋敷にいたエルフの使用人だった(中略)』
『犠牲者が出ることもなく、塔の調査は終わった』
塔に関わる調査で、犠牲者は出ない。
目元に涙を浮かべながら、カナは安堵の息を漏らした。
「これなら、次の周期でマヤが死ぬことはないですよね?」
「〝自覚者〟が故意に干渉しない限りは、そうであろう」
「よかった……。ほんとに、よかったぁ……!」
カナは自身のすべきことを果たした気になっていた。
前後の物語も、まるで誰かの日記を懐かしみながら眺めるようにカナは読み進めた。……流し読みで。
しかし疑問が残ることもあった。
勇者がカナを選んだ理由が書かれていなかったのである。カナをパーティに誘った描写すらない。カナはエルフの使用人と書かれるばかりで、その物語には名前すら出ず、深く干渉していなかった。
「それは勇者なりの善意かもしれん。大事のものまで、本の力で縛りつけたくないのだろう」
「善意……。善意ですか……」
危険人物の善意ほど恐ろしいものがあるかと、カナは狼狽して冷や汗を垂らした。拒んだらどうなるのか分かったものではない。
それならいっそ登場人物の一人にしてくれた方がましである。
「勇者は愚かで不器用な男だ。自分の道すら決められない。だからこそ救わねばならないと私は思う。それなくして、世界の平穏などありはしないともな」
教皇の目に映る勇者は神でもあり、悪魔でもあった。
彼は聖職者らしく〝救う〟という言葉を選んだが、言い換えればそれはこの世界からの追放である。
元の世界に戻ることを勇者が望むならば、それは〝自覚者〟たちにとっての悲願である。それを果たしたとき初めて、彼らは自由を手にするのだから。
「勇者さんを、救う……」
カナの新しい目的がこうして定まりつつあった。
手がかりのかけらも見当たらないが、それはこれから見つければいい。
*
カナと教皇は一つ約束をした。
カナは教皇を助けることに尽力し、勇者に呪いを解くように頼む。
教皇は〝後援会〟が〝黎明〟に危害を加えないように手引きをする。
これで、この周期でもマヤは安全に過ごせるようになる。
ゼノは渋々といった様子で、教皇の身体検査を行うことになった。カナはまず、魔法薬によるアプローチで彼を助けられる可能性に賭けた。
カナは役に立つこともないので上質なソファーで寛ぎながら、検査が終わるのを待っている。
彼女の膝を枕にして眠るはるみんに、心を癒されているところだった。
「ほんっとーにえげつない呪いやな。こりゃ見ただけでわかる。血液の成分も変質してるわ」
「……神罰だ」
白衣を纏い、布のマスクと手袋をしたゼノはまず、動かせるという肩のあたりから採血をして血液を検査した。
こういうこともあろうかとカナは彼に準備をさせていたのである。
顕微鏡の〝魔導具〟で確かめる暇もなく、採取した血液は固体に変わっていた。ゼノは仕方なく注射器を壊して、中にある塊を取り出そうとする。
それはもはや、赤黒い色をした土のようだった。
「血肉を土に、土を樹木に段階的に変えてる感じかなー。断面を見たら年輪みたくなってると思う。それがほぼ全身やろ……?」
教皇の容態は彼らが思っていた以上に深刻だった。今生きているのが奇跡だ、というくらいには。
「指先を切り落とせ。検査に使ってほしい」
「え……?」
「痛みは伴わないから問題ない。やれ」
「わ、わかった……」
教皇の指示通り、ゼノは彼の指先をナイフで切り落とす。人体とは思えないほど軽々しい手応えで、血の一滴すら流れなかった。
ただ、採血したときと同じように、湿った土のようなものが溢れた。
「どうだ」
「……厳しいな。サンプルとして持ち帰らせてもらうけど……。周期の初日はどうなん?」
「問題なく動ける。一週間ほどで手足は痺れ、一ヶ月もすれば自分の足では動けなくなる」
「脈拍が弱いけど正常の範疇なのが気になるな。この身体構造だと、肺も心臓も破裂してるはずや。痛みはないんやろ?」
「ああ」
ゼノは彼の生活や身体状況について問診しながら、カルテに書き記していく。
『空腹感はないが食事は可能。ただし食後の嫌悪感あり。喉の渇きが多く水だけで生きられる。
水を与えたところ、胃腸の蠕動を微かだが確認。排泄はせず、腸のどこかが詰まっているか、水分を余すことなく吸収しているように見える。
唾液は分泌されていない。口腔内は変質が進んでおり、雨に濡れた腐葉土のような臭いがする』
「最後はどうなる? うちのボスの周期のときも呪われてたやろ?」
「眠っているような感覚だけが残っていた。死ぬことはないのだろう。目からは花弁が咲き、口からは根が空を向いて伸びていたそうだ。車椅子にも根を張って、完全な赤い樹木になるのだ」
ゼノは腕を組み唸った。感覚があるなら脳は無事なのかもしれないし、脳が無事なら心臓にも機能は残っていたかもしれない。
ひたすら思考を巡らせているのか、ゼノは無言のまま部屋中を歩き回った。
「種子はどっから来るんや……」
時に独り言を虚空に呟き、うろうろ。切断した指先を太陽にかざし、うろうろ。
日常的に使っているという魔法薬を教皇の腕に垂らしてみたりもした。
硬質化した新芽が、ぱらぱらと音を立てて床に崩れる。
ゼノは未だ納得いかない様子を見せながらも、薬の調合をはじめた。
そんな時である。扉を遠慮なく開け放ち、部屋に入る者がいた。
「お父さま!」
晴天のように透き通った少女の声。
みなが注目したところには、勇者の仲間であるミラが居た。




