#3 書架の役割
翌朝、カナはセネットの怒号に叩き起こされた。
穏やかな日差しが室内の空気を暖め、窓の外からは小鳥のさえずりが届いている。すでにこれは夢ではないと確信させるには充分な時間が過ぎていた。
「……お、おはようございます」
「まったく、いつまで寝てんだい。始業は朝の五時だよ!」
「は、はいぃぃ……」
一夜にして爆発した髪に、皺だらけの服。使用人としてあるまじきカナの姿に、セネットは溜息を漏らす。
「ひどいナリだね。ホントは順番が違うけど……まずは洗濯と風呂掃除をしてもらうよ」
「はい……」
カナはセネットに連れられて部屋を出た。
屋敷の外に向かう途中、寝衣姿のマヤと鉢合わせた。
「……!」
目が合ったと思った直後、マヤはすぐに目を逸らした。
カナは何も声をかけられない。明確な憎しみを、その視線から感じ取ってしまった。セネットから受ける視線も同じだった。
彼女たちがカナに対して抱くのは不信感と警戒心のみで、自身が歓迎されていないのが、カナは手にとるように分かってしまった。
ただ無言で自室に去るマヤの背中を、カナはどうしようもない孤独感に押し潰されながら、見送ることしか出来なかった。
その後カナが案内されたのは屋敷の裏手だった。森の手前にあり、日陰になっていて薄暗いそこには、井戸と小さな畑がある。
セネットは桶をくくり付け、井戸端にある滑車を回した。
「見てないで手伝いな!」
カナは駆け寄り、セネットに代わり滑車を回す。
「うっ、重……くない……?」
現実世界のカナと違って、メイドのカナは見た目以上に力持ちだった。水が入った桶を取り外して、両手で抱える。
「水はあたしらの生命線だよ。井戸が枯れだしたら山に入って渓流の調査だ。これはあんたの仕事だからね!」
「わ、わかりました……」
「汲んだ水はここに流しな。浴場に繋がってる。で、この下にある釜戸に火を焚べれば、その熱気が地下に充満して風呂が沸くんだ。一回で覚えなよ」
屋敷の外壁に設けられた水の通り道に、カナは井戸から汲んだ水を流し込む。いくら体力があるといえど、これを繰り返すのは見るからに重労働だった。
しかしカナの中では感動が勝っていた。歪な創作物の中とはいえ、まさか自分が古風な生活をこうして体感するとは思ってもみなかったからだ。現実よりも生きている実感がして、ちょっと虚しいけど。
洗濯の手順を叩き込まれた後、カナは浴室に放り込まれた。風呂掃除のついでに身体も洗ってこいと、セネットに言われたのである。
石造りの浴室は当然のように利便性では現代に劣っている。
しかしカナの家とは比べ物にならないほど広く、別室には手動式の水洗トイレまである。カナの知識にある汚物まみれの中世とはだいぶ違う。
カナは浴室内にある鏡で、自身の姿を見た。
西洋の人形のような整った顔立ちと、目を覆いたくなるほどに眩しい金髪に、カナの表情は引きつった。美しすぎて、かえってみじめな気分になる。
絹のように白い肌は、想像以上に鍛えられていた。身体中のいたるところに傷跡があり、特に首から胸元にかけて大きな火傷の痕がある。おそるおそる触れてみたが、痛みは感じない。
薄々感じてはいたが、彼女の耳の先は人間よりも長く、そして尖っている。
「あなたは、エルフなんだね」
カナは鏡に映る自分に語りかけた。
「どうして私をここに呼んだの?」
その問いは浴場に虚しくこだまするだけで、答える者はどこにも居ない。
カナはセネットに口うるさく貴重品だと念を押されていた石けんで身体を清め、湯船に浸かった。熱が全身に染み渡る。それは見知らぬ世界で彼女が見つけた初めての安らぎとなった。
ふいに浴室の扉が開かれる。
咄嗟にカナは耳を塞いだ。爆音に対する防衛反応である。
しかしそこに現れたのは、一糸まとわぬ姿をしたマヤだった。
「……誰かとお風呂に入るのはいつ振りかしら」
マヤはそう言いながら、真っ直ぐ湯船に脚を入れ、カナの横に座り込んだ。カナは距離を取るように角に寄った。マヤはさらに近寄って、カナは角に追い詰められていく。
「ま、マヤ……ちゃん……」
おどおどしながらカナが発した言葉に、マヤは耐えきれず声を上げて笑った。
「ぷっ……。あはは、何その呼び方……。一応あたし、この屋敷の主人なんだけど」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「マヤでいいよ。以前のカナもそう呼んでた」
「…………はい」
束の間の沈黙。こういう気まずい空気が、カナは大の苦手だった。
「それにしても本当に性格がひっくり返ったみたい。あたしもお話上手にならないとな」
「うう……陰キャですみません……」
「責めてるわけじゃないのよ。あたしが生まれる前のカナも、今のような感じだったってセネットが言ってたし」
「そ、そうなんだ……」
「あたしね。すごく小さいとき、馬車の滑落事故で両親を失ったの。あたしだけ、奇跡的に生き延びた。何も覚えてないけどね」
マヤはそう言うと、肩まで垂らした赤い髪を後ろに寄せて、額の傷跡をカナに見せた。
普段は隠れて見えないだろうが、女性……ましてや年端もいかぬ少女が抱えるには痛々しい事故の痕跡だ。
「い、痛くないの……?」
「うん。カナが使用人としてやってきたのはその後すぐで、あなたはあたしの最高の友だちになってくれた。仕事はサボるし、寝坊もするけど、あたしはそれでも良かったの。返しきれないほどたくさんのものをあなたは与えてくれたから」
昨晩のセネットの言葉が脳裏をよぎり、罪悪感が満ち溢れる。カナの本に対する好奇心がマヤの最後の家族を奪ったようなものだった。たとえそれが意図せぬものであったとしても。
「わたし……最悪だ……」
マヤは仕方なさそうに笑みを浮かべながら、首を横に振った。
「……朝になったら、カナを返してと言ってやろうと思ってた。でもね、セネットに叱られながらも仕事を覚えようとするあなたの姿を見て、考えが変わったの」
「マヤ……」
それ以上は言わないで。貴方が死ぬなんて、口が裂けても言えなくなってしまう。
未来が変わるなら、憎まれたままでも構わない。一人で居ることには慣れている。
カナが首を横に振りながら心の中で叫んでも、マヤは微笑みを絶やさない。それが何よりも嬉しくて、そして何よりも苦しい。
「うん。私はマヤ。このお屋敷の跡取りで、世界でいちばんの魔法使いになる者よ。だから、カナ。――あたしと友だちになりましょう!」
そんな台詞、カナは現実ですら言われたことがなかった。
誰かが手を取り合うのを見て見ぬふりをしながら、自分には自分の世界があるからと、言い聞かせてきた。自分を騙し続けていたことに、今頃カナは気付かされていた。
「ああ……。ああ……!」
差し伸べられた手をそっと握り返す。目蓋が灼けるように熱いのを、カナの防衛本能が風呂の熱気のせいにしようとする。無意味なことだ。閉ざしていた心の奥底から湧き上がる感情を抑えるものなど、ありはしない。
「ちょっ……カナ? そんな泣くほど!?」
何かが決壊したカナの感情は、嗚咽から慟哭へと変わりながら浴場に響く。
扉の向こうに、戻るのが遅いカナを叱ろうとちょうど取手に手をかけていたセネットが居たことに、二人は気が付かなかった。
「これは、今日も仕事が山積みだね……」
セネットは虚空に愚痴を溢しながら、別の仕事をこなすべく踵を返すのだった。