#29 黒い嵐を追いかけて
カナとマヤが旅の支度をするべく退室したのを見送った直後からである。
リミちゃんは耐えるのをやめ、顔を蒼くしながら床に崩れた。
「大丈夫や、リミちゃん。カナちゃんも否定しとったし、確定したわけやない。そうやろ?」
「ううう……!」
リミちゃんは勇者がカナは自身の恋人だと告げたことに、ひどくショックを受けていた。
ゼノはその理由を知っており、顔を覆い隠して啜り泣く彼女を元気付けるように抱きしめる。
「全てが終わったら……オレたちの手で勇者を殺そう。な、だからそれまでの、辛抱や」
「うん……。うん……!」
しばしのとき、二人はアルレンの命令を無視し静かに過ごした。
リミちゃんが落ち着くころには、ゼノの眼差しに宿っていた勇者に対する憎悪も、うそであるかのように隠されていた。
準備を整え、四人は再び北を目指しはじめる。
「ぶもあ!」
高らかな霊獣の遠吠えらしきものと共に、馬車は動き出した。
その様子を、宿舎内から窓越しに眺める者が二人いる。
「意外だね。貴方が追わないなんて」
食器を洗っている店主が臙脂色の髪を生やす男に向けて語りかけた。
「敗者にそんな資格があるかよ」
自嘲ぎみに吐き捨てるムサシは、戦闘時とは打って変わって上品な丸眼鏡をかけていた。
ワイシャツにネクタイ、地味な色のウェストコートと、かなりフォーマルな格好で、貴族のような気品のある振る舞いをしている。
「敗けた? まさか貴方が!」
〝黎明〟の若者が騎士を出し抜くとは思ってもみなかったようで、店主は目を丸くした。
その実、ムサシを陥れたのは〝書架〟であることを彼女は知らない。
打ち明けたら食器が割れるだろうと憚ったのもあり、ムサシもそういうことにしておいた。
不可避の悪夢を思い起こし、ムサシはくたびれたような溜息を漏らす。
「それなりに、命を大事にすることにしたのさ。移動が始まればここも飲まれる。あんたも早く北に向かった方がいいぜ」
「ご心配なく。〝工房〟の職員には入眠剤が配られてるからね。そんな貴方こそのんびりしてていいのかしら」
ムサシは何も答えず、静かな時間がわずかに続いた。
耳を澄ませば、微かに地鳴りが響いてくる。
さも当然だろう。勇者が一歩歩くだけで大地は悲鳴をあげるのだから。
破壊と創造の中心に勇者が居る、ただそれだけの話。
「知ってるだろうが――俺は借りを作らない主義なんでね……」
嫌々ながらも決心はついたと思わせる声。
店主は彼が何のことを言っているのかわからず、首を傾げるだけだった。
*
カナは馬車の中でフードを深く被って怯えていた。
リミちゃんとマヤが震える彼女の手を握り、少しでも彼女の恐怖を和らげようとしている。
それがカナにとってどれだけ心の支えになっていただろう。
「カナお姉ちゃん、大丈夫……?」
「…………怖い」
カナは無理せず、正直に答えた。
彼女らは今、全てを破壊する〝闇の渦〟に向けて直進している。
まだ壁までは一キロほどはあるのだが、すでに北の空は虫歯のように黒ずんでいて、バキバキバキと、物体を捻じるような地鳴りを耳元まで響かせる。
「ちょっとゼノ……。大丈夫なの? カナ、尋常じゃないくらい怖がってる……」
マヤにはそれが見えていない。
彼女の目にはのどかな平原の景色が広がるだけで。
破壊活動とは無縁な自然の営みが音を奏でていることしか、彼女にはわからなかった。
少なくとも、その認識の齟齬には不気味な恐怖を感じていたようだが。
「まー……怖がるのは無理もないよ。でも安心せい、闇に向かって突っ込むわけやないから。《アクエリノケロス》、このへんで止まっとこか」
「ぶもあ?」
霊獣もこんな丘陵の中ほどで立ち止まることに疑問を呈しているが、指示通りに道を逸れて停止した。
「その……闇に飲まれたらどうなるわけ?」
「専門外やから、よーわからん。ボスはスパゲッティになるって言ってた」
ゼノはマヤの問いに答えた。曖昧な表現にマヤは眉を顰める。
「あなたたちは飲み込まれたことないの?」
「ある。何度も。はっきり言って、死ぬほど怖い。実際死んどるからな……アレ」
「不思議ね……。あたしも飲み込まれてるはずよね。それなのに何も感じないなんて……」
マヤは一人負い目を感じ、カナの肩に頭を乗せて寄り添うが、そればかりは仕方のないことだった。
〝憑依病〟への罹患――言い換えれば人為的に〝自覚者〟になる方法は研究されてはいるものの、実現には至っていない。
そもそも、世界の繰り返しを認識しながら何度も闇に飲まれるくらいなら、見えていないほうがずっとマシである。
「まー、カナちゃんはここで雑談でもしながらじっとしとき。オレはちょっと壁を見張っとく」
ゼノはそう言い残して馬車を降りて、見通しの良い丘の上に向かった。
「ふ、二人ともごめんね……。覚悟はしていたけど、いざとなると……こんなに怖いなんて……」
カナは両手でローブの裾をきゅっと握り、俯いたまま自分の気弱さを呪った。
景色すらろくに見ることもできず、仲間には気を遣わせ続けるのだ。これでどうやって旅を楽しく彩るというのだろう。
「カナお姉ちゃん。気にしないでね。あちしも怖いよ。一緒だからね」
「リミちゃんは、どうやって慣れたの……?」
カナの問いに、リミちゃんは物悲しそうに首を横に振る。
「慣れないよ……でも、工房では無償で薬を配ってる。お兄ちゃんも同じのを調合できるけど……それを三錠飲めば、大抵の人はソッコーで失神する。そうやって対策してる人もいるよ。あちしたちもそう」
リミちゃんはポーチから赤いカプセルに包まれた薬剤を見せた。
副作用もないらしく、合理的な対抗策だが、カナには向いていなかった。
「エルフ用もあるのかな……」
「と、特注なら……?」
リミちゃんは難しそうな顔をして言った。
「あとは……勇者を追いかけながら生活する人もいるよ。でもこれはお勧めはしない。自衛ができないと、常に死と隣り合わせだから」
「……やっぱり、わたしが乗り越えなきゃだめなんだ……」
「脅威を知ることも大事だよ。〝闇の渦〟は勇者に従って動く。そんで勇者は北に来る可能性が高い。なら、少なくともあちしたちが飲み込まれる危険はない。そーでしょ?」
「脅威を、知る……たしかに……」
カナは少しだけ顔をあげて、マヤとリミちゃんの手をきゅっと握りしめた。
「ふ、二人とも、一緒に来てくれる?」
カナの提案で、三人は馬車を降りた。
「ぶもあ?」
「えっと、あくえり……霊獣さん。ここでいい子にしててね」
カナが霊獣の硬い背中を撫でてやると、霊獣は心地良さそうに目を瞑り、その場にしゃがみこんだ。
雑草を踏み越えながら、カナは勇気を出して丘の上に立つ。すぐ近くで、ゼノも同じ景色を眺めていた。
「大丈夫なん」
「今はみんながいるから、たぶん大丈夫」
ゼノを心配させまいと、カナは頷いた。
カナの目には絶景が広がっていた。地平線がどこまでも黒い嵐に飲まれている。
途中までは鼻歌交じりに小躍りしたくなるような、のどかな自然が広がっているのに。
安寧と混沌の境界線では、なにか巨大な生命が脈動するかのように破壊と再生が繰り返されているのが、遠方からでも見えたのだった。
破壊の音もさることながら、物体が創造される音というのもカナは初めて耳にした。
黒板を引っ掻いたときに鳴るような、背筋に悪寒の走る音だ。
「よー見とき。あれが北に動いたら、オレらも急いで出発やからな」
「……こ、こっちに来たら?」
「カレシを信じよう、な!」
「だから違うってば!」
カナは思わず叫んだ。勇者め。
気を紛らわせるために言ってくれているとしてもだ。
しばらく同じ流れでいびられると考えると、カナは億劫な気分になるのだった。
そんなおり、一際大きな地鳴りの音がマヤ以外の三人の耳に響く。
ずずず……。
地平線に注目すると、少しずつ〝闇の渦〟が遠ざかっているのが見てとれた。
ゼノとリミちゃんは、顔を輝かせ喜びに沸き立った。
反して状況が認識できないマヤは「え?」と混乱している。
「馬車に戻るでえ! 出発や!」
「おーー!」
リミちゃんはカナとマヤの手を引きながら、脇目も振らず草原を駆け下りる。
それは闇を追う道か。はたまた闇に誘われる道か。
広がっていく地平線めざして、彼らは再び進みはじめた。




