#19
カナは旅立つ前に、屋根裏部屋を整頓していた。
もうここにもどることはないかもしれない。
来たときよりも美しくとは、学校の教諭に口うるさく言われていたものだが、まさか自発的にそう考える日が来ようとは。
ベッドのシーツを正し、メイド服を畳んでおき、箒で埃を掃いていく。
机に置いておいた日記帳は、貰っていくことにした。
この世界に居続けるかぎり、自分が居た証をここに記そうと決めたのだ。
「よし、行こう……」
カナは過ごした部屋を目に焼きつけて、その場をあとにした。
玄関にもどると、マヤが準備万端といった様子でカナを待っていた。
黒のインナーの上にあかいアウタービスチェ。二手に結われた髪を繋ぐのは黒くてかわいいリボン。
その凛々しい姿に思わずカナは魅入ってしまう。
「あ、カナ! 準備はできた?」
「う、うん……」
マヤはカナの姿を、頭から足先まで観察する。
「カナ、ちょっとうしろ向いて!」
気になる点があったのか、マヤはにこやかな笑みを向けながらカナに指示した。
言うとおりにすると、マヤは猫耳のついたフードを取って、カナのぼさぼさの髪に櫛を入れた。
そして髪を束ねるとお揃いのリボンで結って、大きなポニーテールをつくった。
「バッチリね! 似合ってるわよ」
「ありがとう、マヤ……」
誰かに髪型を変えられるのは母を除けば初めてで、少なからず羞恥心が芽ばえたのはたしかだ。
それでもなんだか、視界に広がる世界が少し明るくなった気がした。
「カナさん、こちらを」
ジンは両手に抱えていたモップをカナに差しだした。エルフのカナの愛用する武器。
「そ、それって……大切なものなんじゃ……」
そのモップが呼びかけに応じて、危機的な状況を打破してくれたことは記憶に新しい。
されど受け取るのを躊躇ってしまった。仮にも失くしたり、破損させてしまったりしたら、本人に合わせる顔がない。
「貴方の手元にあった方が、そのモップも喜ぶでしょう」
「そ、そういうことなら……少し試してもいいですか?」
「試す、ですか?」
疑問を呈するジンを尻目に、カナは少し距離を置いて、前方に両手を伸ばす。
目を閉じて、集中。
病室での出来事を思い出す。あの日の怒りを。
『――来い』
刹那、ジンの手元にあったモップがあおい閃光に包まれて消えた。
「ぬおっ!」
突然の出来事に、ジンは柄にもなく短い悲鳴をあげる。
焼けつくにおいとともに、黒い煤のようなものがジンの周囲に舞い散った。気のせいかと思うくらい、すぐに消えてなくなった。
消えたモップはカナの手中にあった。
「で、できたぁ……! やったあ」
まだ旅ははじまってすらいないのに。達成感と感動で小躍りしてしまうあほうが一人。
その様子をほかの三人は絶句しながら見つめている。
「い、今のって……召喚術?」
マヤが茫然としながら尋ねる。されどそれは推測の域を出ることはない。
そもそも召喚術とは魔導具や魔獣といったものを呼びだすちからだ。本来ならばありふれた掃除用具に対しては行使できないのである。
「……驚いたな。鍛錬のとき、カナはいちどもそんなことしていなかったはず……」
それがただの召喚魔法でないことを、ジンは悟っていた。
カナがモップを呼び寄せたとき、彼は冷ややかなちからの流れをたしかに感じ取っていた。
「じ、ジンさん。ありがとうございます。大事にします……」
「あ、ああ……」
このときカナは、自分が未知のちからを行使していたことを自覚していなかった。
自身の性質がのちに魔王誕生の足掛かりになるとも知らずに、初めて魔法を使ったことを無邪気に喜んでいた。
そして旅立ちの時が来た。
玄関の扉を開くと、雲ひとつない晴天がカナの眼前に広がる。
「ジンさん、セネットさん、今までお世話になりました」
深く頭を下げ、精一杯の感謝を伝える。
そう遠くまで行くわけではないが、次に屋敷にもどるときは、すでにもとの世界に帰ったあとかもしれない。
「ふん、どうせ泣きごと言いながら数日で帰ってくるのさ。辛気くさい別れなんてゴメンだね」
セネットはいつもどおり無愛想に吐き捨てて、そっぽを向いた。
今となってはその素っ気ない態度のほうが、むしろ安心する。
「カナさん。マヤ様。旅のご無事を祈っています。辛くなったら、いつでも帰ってきてください」
それが叶わぬことと知りながら、ジンは二人に優しくほほえみかける。
「カナ、行こう!」
マヤは期待感に満ちあふれた眼差しをカナに向けながら、最初の一歩を踏みだした。
「……うん!」
カナもうなずき、マヤのうしろを付きしたがうように歩みだす。
かくして辺鄙な村で育った二人の少女の、長い旅がはじまるのだった。
*
遠のいていく二人の背中を少し寂しそうに眺めながら、セネットがポツリと愚痴をこぼす。
「子どもは嫌いなんだ。ちょっと目を離すと、すぐにどこかに行っちまう……」
「これから一層、忙しくなりますね。二人が帰る場所を、私たちが守らねばなりませんから」
「ったく……。人手が足りないよ。呆気なく帰ってきたら許さないからね、あたしは!」
屋敷の者たちは、二人の旅の無事を祈りながら、円満な気持ちで彼女たちを見送った。