#14
その後、アルレンが病室にやってきた。
手にはいくつかの書類がある。すっかり元気だが、今日もカウンセリングをするらしい。
「カナさん、おはようございます。具合はどうですか?」
「……お、おはようございます。おかげで、良くなった気がします……」
「ゼノになにかされていませんか?」
「ゼノって……さっきのみどりのひとですか?」
「そうです。前髪が蛍光ペンの先端部のような奴です」
大真面目な顔から飛びだす突拍子もない例えに吹き出しそうになり、思わず口元を押さえた。
笑ったらダメなのかもしれず、カナは必死に震えるおなかを隠す。
「朝食を運んでくれただけで、なにもされてない……と思いますけど……」
アルレンは不満げな表情をして、ため息をついた。そのまま仕事の席に着き、回転する椅子に座ってカナの方を向く。
「……なら良いですが。彼は私の部下なんです。自由奔放な性格で苦労しますよ……」
「あのひとも〝自覚者〟なんですか?」
カナの問いにアルレンは「ええ」とうなずいた。
「時代にそぐわぬモノを好むのが〝自覚者〟の特徴です。貴方の世界に、いちど足を踏み入れますから」
「なるほどぉ……」
それは、容易に想像できることだ。
未来の技術を持ってくれば、それが簡単なものでも莫大な利益を得られる。あるいは地位が保証されるのだ。
本に選ばれるのは不可抗力によるものであるがゆえに、この世界においてはさして問題行為とは見なされていないらしい。
「雑談はこのあたりにして……嵐のフラッシュバックはまだ起きますか? 不要なら点滴は外しますよ」
「え? ゼノさんが、あとで取り替えに来るって言ってましたけど……」
直後、ほんの一瞬、アルレンは目を細めた。
「…………ああ。そうなんですね……」
呆れるアルレンの様子から、彼らの認識に齟齬があることが手に取るようにわかった。
「まあそれは置いといて。確認ですがカナさんは〝書架〟の役割を理解していますか?」
「本の結末を変えることだと教わりました……」
「では周期については?」
「周期……? し、知らないです……」
初めて聞く単語に、カナは首を横に振った。
「貴方は本を読んでこの世界に来ましたよね。本には、まだ起きていない未来のことも書かれていたはずです。それはどこで書かれたのでしょうか?」
アルレンは紙を裏返して、水平方向が時間軸を示すグラフのようなものを書き込んだ。
原点は勇者の旅のはじまりを示している。
横軸の中間部分に点をつけ、Kと定義づける。カナがこの世界に来た日だ。
「……まさか、原点よりも前……?」
声を震わせながら、カナは反問した。
そうでなければ説明がつかないことがある。
旅がはじまったときにすべての筋書きを書き、すべての行動を決めてしまえば、誰の妨害を受けることもなく、誰かが死ぬ必要もなく、勇者の旅は何事もなく終わりを迎えられるはずだ。
――マヤが死ぬことも、なかったはずだ。
「そう。カナさんが〝書架〟である周期がはじまる前に、誰かが〝書架〟だった周期が、何百と繰り返されているのです」
「そんな……。ど、どうして、そんなことがわかるんですか?」
「〝自覚者〟は次の周期に記憶を引き継ぎます。そして、この周期の前の〝書架〟は、ほかでもない私でしたから」
「え……?」
「その前も、その前も、その前もその前もその前も。……百を超えてからは数えていません。多くの周期で、私は〝書架〟を担い、すべてを変えてきました。……最後は失敗しましたが」
それまで歩んできたすべての周期を懐かしむかのように、達観した眼差しでアルレンはつぶやいた。
カナはアルレンが親切な人間だと思っていた。しかしそれはおおきな間違いだったらしい。
彼がどこか物憂げで、死んだような眼差しをしているのは、なんども現実と虚実との往復を繰りかえすうちに、不完全な世界に対して希望をうしなっていたからだった。
「……す、すみません。現実感がなさすぎて、なんと言ったらいいか……」
「そうですね。カナさんはまずは心身の回復に努めるべきです。しかし落ち着いたら、どうか我々に手を貸して欲しいのです」
「手を貸す?」
「難しいことは求めません。本の内容を教えていただければ、我々が結末を変えることに尽力しますので」
「本の内容……」
それくらいならば、と彼に心を開きかけたとき、ジンの言葉が脳裏をよぎった。
アルレンが信用に足る人物かを見定めねばならない。
そして結末を変えることに尽力するということは、カナが次の周期でも〝書架〟を担うことになる。もとの世界にもどっても、ふたたび本に呼ばれるのだ。
「周期の並びは理路整然としていません。混沌なのです。どの周期に書かれた本が、貴方の世界のいつの時代の誰をえらび、この世界のどの文章に宿すのか――すべて無作為です。もし今が〝暗黒の周期〟と呼ばれるものだったら……。勇者を止めねばなりません」
その口振りからは勇者を殺すことも厭わないという意思が垣間見える。
「その……わた、わたし実は、ちゃんと読んでなくて……」
カナが申し訳なさそうに苦笑しながら、どうにかはぐらかそうとしたときである。
アルレンの視線が凍てつくような鋭さを宿した。
ひととしての本能が警鐘を鳴らす。逃げなければ殺される、と。
「ハーイ、カナちゃんおまたせー」
それと同時に、病室に別の点滴薬を持ったゼノがやってきた。
替えの点滴は不気味ないろこそしているが、マグマみたいに煮えたったりはしていない。今カナがつけているものより、よほど健康には良さそうに見えた。
アルレンはゼノを一瞥して、静かな怒りを露わにする。
「勝手なことをするなと、注意したはずですが……?」
ゼノはそんなことは関係ないとでも言うかのように、不敵な笑みを絶やさない。
「ボスはねえ、いつも慎重すぎるねん。だから頭が良いのに、最後には勇者に出し抜かれるんやで」
「本当に私が負けたとでも……?」
「はいはーい。〝書架〟のカナちゃーん、新しいお薬ですよおー」
ゼノはアルレンの言葉を無視し、カナの点滴を取り替えはじめた。
一滴、また一滴と新しい薬がしたたりはじめ、カナの腕から流れていく。
「あ、ありら……あれ……?」
礼を言おうとした直後だった。呂律がまわらない。
突然に血管の脈動を全身で感じるようになり、身体が火照りはじめた。
腕が痺れて、身体にちからが入らない。
はりついたようにベッドにへたりこんだまま、もがくように指先を這わせるのがやっとだった。
「カナちゃーん? どんな感じー?」
「か、身体が、うごかな……」
「おーばっきり効いてんね。鯨が一分で気絶する分量でやっとかいな。エルフすごー」
「な、にを……」
カナは朦朧とする意識のなかで、アルレンに助けを請うような視線を送る。二人が仲間だとか、関係ない。
しかし彼は椅子の背もたれに寄りかかり、脚を組みながら、冷たい眼差しでただ傍観しているだけだった。
「大丈夫大丈夫。怖くないでー。ただの鎮静剤やから」
「うそ……でしょ……」
視界が霞み、目眩は続けど、なぜか意識は完全に途切れない。
自身が眠っているのか起きているのかさえ曖昧で、もうなにもわからなくなっていた。
「ただ恐怖心とー? 何やったっけあれ――そう、懐疑心を抑える効能をちょーっとだけ付け足したけどね」
「や……たすけ……」
ゼノは身動きが取れなくなったカナに近寄り、耳元に顔を近づけ、密やかに絶望を告げる。
「……よーするに、ちょっとだけ素直になれるお薬や」
「…………」
やがてカナの全身に薬がまわった。意味がないことを理解して、それ以上の抵抗をやめた。
意識だけは残っており、まるで人形のように茫然と自身の足元を眺めている。
(家に……帰りたいよ……おかあさん……)
ランプだけが部屋を照らすうす暗い密室に、助けにやってくるヒーローなどいるはずもなかった。
あやふやな形にゆがむ現実のなかで、カナはこの世界の残酷さを実感させられた。
「堪忍なー、カナちゃん。どうしてもカナちゃんが知ってること知りたいねん。それに、そこのメガネの拷問よりは絶対マシやから……」
ゼノはカナの頬を伝う涙を優しく拭いとりながら、彼女を慰めた。
「はい……」
カナはなんの意思も持たず、漠然とした返事を虚空に紡ぎ、彼らの尋問を受けいれるのだった。