#1 古書の中の幻想世界へ
放課を告げる本鈴が、校舎中に鳴り響く。
それぞれの教室から多くの生徒が廊下に流れ込んでいくのに紛れて、カナは目立たぬように図書室へと向かった。
肌寒い秋風が吹き抜ける階段を登っていた時、見知らぬ二人の生徒が勢いよく駆け下りてきて、彼女は一度足を止めた。あやうく轢かれるところである。
放課後の学内は多くの人が行き交う。
部活に向かう者。いち早く家に帰ろうとする者。忙しそうに、さりとて生徒と親しげに話す教員。
カナは目元まで隠れた前髪の隙間から、彼らを一瞥する。誰一人、彼女を気に留めることはない。
喧騒を抜けたどり着いた扉の先が、カナにとっての現実だった。
空気に乗って流れてくる独特な香りは、本が長い歴史を旅した証左に他ならなかった。インターネットが普及した今、わざわざ図書室を利用する者はそういない。
無人とまではいかないものの、訪れる者はカナと同類で、互いに干渉することもない。その静寂こそが彼女にとっての癒しであり、学校に来る理由にすらなっていた。
カナは扉を開きながら、糸のようにか細い声を出した。
「失礼します」
扉の音にかき消されるほどの声だ。さりとて受付にいた司書教諭の女性は聞き逃さなかった。
「あらカナちゃん。こんばんは。先週言ってた本、入ったわよ」
「こんばんは。ありがとうございます。後で予約します」
カナは運動場が一望出来る窓際の席に座り、かばんの中から読みかけの本を取り出した。
ふいに、かばんにしまわれたファイルが顔を覗かせる。中には入部届と書かれた紙が大事に保管してあった。カナはそれを、誰の目にも映らないようにマフラーで隠した。
物語はカナを一時の夢に誘う。自分だけの至福の時間が始まり、夢の世界に沈んでいく。そんなときだった。
ゴトン。
重々しく何かが落下する音がカナの旅の邪魔をした。
「何……?」
かすかな苛立ちを募らせながら音のした方に目を向ける。
――絨毯の上に一冊の本が落ちていた。
*
誰かが落としたのだろうか。読書に集中していたカナは人が居たかさえ確証が持てず、首を傾げながら、その本を拾い上げた。
随分と古い本だ。目立った損傷こそないが、紙はセピアに色づき、赤い表紙には枯れた荒野のような皺がある。そして手書きで『幻想領域より』と書かれている。
「ファンタジーもの……なのかな?」
状態から察するに、自身が生まれるずっと前に書かれた本のようだった。
カナは俄然興味が湧いて、家でじっくりと読みたいと思い立つ。ひとまず机に置いておき、それまで読んでいた本の消化を再開した。
閉館時間はあっという間に訪れた。気づけば、夕陽が空をあかね色に染め上げている。
かばんからマフラーを取り出し、しっかりと首に巻いたカナは帰り際、受付にいた司書に声をかけた。
「あ、あの……。これ、返却で……」
「はいよー」
「あ、それと、これ借りたいです」
「はいよー……ん?」
カナが差し出した古い本を見て、司書は眉を歪ませた。
募る不安に、カナは尋ねる。
「……どうしました?」
「カナちゃん。これ、ウチの本じゃないよ?」
司書はそう言いながら、本の中身を確認する。そして「うわっ……」と、名状しがたい感情のこもった驚嘆の声を上げた。
「え、ど、どうしたら……」
「こりゃ出版物でもないよ。中身は手書きで、本の後半はずっと白紙だ」
こころにもどかしさが残るカナに反して、司書は気楽なものだ。
「……誰が持ってきたんですか。こんなに古くて重い本」
「さあね。探してる人がいるかもしれないから、今日はこっちで預かるよ。明日の放課後、また来て」
カナは渋々了承し、その日は家路についた。別の本を借りわすれたことに気付き、心の中で目いっぱいの後悔を叫んだ。
帰宅して自室にかばんを放り投げた時、カナはある違和感に気付いた。かばんが重い。不思議に思いながら、鈍い音を立てたかばんを開く。
カナは言葉をうしない、手を震わせながらへたりこんでしまった。
そこには司書に預けたはずの赤い本が入っていた。
*
かつてこれほどまでに自身の記憶を疑ったことがあっただろうか。
読書の内容こそ鮮明に浮かぶが、朝起きてから帰宅するまでにしたことを、カナは正確に思い出せない。日頃からぽーっとすることが多いから。
無意識のうちにかばんにしまったのだろうか。司書が預かると言っていたのに。
持ち帰ってしまったものは仕方がない。混乱のすえにそう結論づけたカナは、その本を読むことに決めた。よく見れば、中々の厚みではないか。
司書は小馬鹿にするような様子を見せていたが、カナは読書において選り好みはしない。手に取った物は読むようにしている。
さすがに全文がオリジナル言語で書かれているとかだったら、少しうなるかもしれんが。原題は日本語だし大丈夫だろう。
カナは気合を入れて、その物語に沈もうとした。
「うおっ……。こ、これは……」
ものの数ページ読み進めたところで、カナの手は止まった。
想像と違い、それは随筆文のような形式で書かれた作品だった。ファンタジー世界を舞台にしたエッセイといえば聞こえはいい。
しかし、カナがその本に対して最初に抱いた感想は、心の中に留まることを知らず、彼女の口から漏れだした。
「これはひどい……」
この作品の主人公であるリュウという男は、ある日〝エリュシオン〟と呼ばれる世界にて女神から勇者という役割を与えられる。そして魔王を倒す旅に出る。
内容はありきたりなファンタジーと言えよう。カナにとっては好きな部類だ。
しかし、彼女の手はなかなか次のページに進まない。
致死量と言えるほどに緻密な世界の描写が、彼女の……それと勇者リュウの行く手を阻んでいた。
最初に登場する女神について三ページにもわたって語られている。著者には何が見えているんだ。
勇者の旅が始まる前に、カナの限界はおとずれた。
ぱらぱらとページを飛ばして、様子を窺う。いまだに最初の村に勇者は居る。
テンポが悪すぎて人間向けの本とは到底思えない。エルフ向けかな?
さすがのカナもこれでは感情移入どころではない。突っ込みどころが無限に湧きでる。
初めての戦闘で一撃でスライムを倒したことを説明するのにも数ページ要している。そんな惨状を見るに見かねて、カナは白目をむいてベッドに轟沈した。
「わかった……。誰かの嫌がらせだ。わたしのことを馬鹿にしたい誰かが、めちゃくちゃな本をわたしに読ませて遊んでるんだ……」
きっと明日、誰かがいじわるな笑みを浮かべながら感想を求めてくるに違いない。カナはそう考えて、震える腕で身体を起こす。
仕方なく、最後の方だけは読むことに決めた。しかしこの本には、終わりがない。後ろの大半のページは完全に白紙で、全容が掴めない斬新なつくりになっている。ということにしておく。
カナは物語が途切れた部分を見つけて、少し前までさかのぼって読みはじめた。そしてわかったことがある。勇者は魔王にいどむ前日までは、旅を進めていたようだ。
『僕はこれまで千人にも及ぶであろう魔王軍の幹部から、嫌になるほどの妨害をされてきた。
それも今日で終わりだと思えば、清々しい気持ちも少しは湧きでる。
きっと明日、僕は魔王に戦いを挑み、世界に平和をもたらすだろう』
幹部千人て。いや、それよりも。
一番気になるところで物語が途切れている。
カナは怒りに任せて本をぶん投げた。本がボロボロになっていた理由にも納得がいく。
本を投げたのが悪かったのか。
そうなることは初めから決まっていたのか。
突如、鈍い音を立てて床に転がった本が光りだした。
目の前で何が起きているのか理解する間もなく、カナはその本に吸い込まれた。
「えっ!」
自身の身体が意識をうしなって倒れているのを、カナはたしかに見た。理屈は分からなかったが、精神的な部分が本に引き寄せられているようだ。
「んぎゅっ……」
カナはたやすく本の中に入らずに、しぶとく抵抗していた。というのも、顔が引っかかって通らないようである。しかし溺れるようにもがいていたら、すぽんっと顔が光の穴を抜けてしまった。
誰が初めに言い出したかも分からぬ世界の法則がひとつある。
――頭が通ったら全身も通る。
「どゆことぉぉぉぉぉぉぉ……?」
カナはわけも分からないまま、光のトンネルへと吸い込まれていった。
ほんの一瞬、見知らぬ誰かとすれ違い、目を合わせた気がした。
*
どうっ。
腰に重苦しい一撃を受けた気がして、カナは目を覚ました。
さわやかな風が草原に音を奏で、近くからは川のせせらぎが聞こえてくる。
「はあっ!」
意味のわからない状況にカナは飛び起きた。どこかで羽を休めていた蝶が、ひらりと舞い上がった。
先ほどまで自室にいたはずが、そこは見知らぬ丘の上。沈みゆく夕陽がうつくしい。どうやら木に寄りかかって眠っていたらしい。メイド服の姿のまま。
困惑する彼女の傍で、得体の知れない粘体がぴょいぴょいと跳ねていた。
「な、なんこれ……。スライム? かわいい……中身見えてる……えぐい……」
奇妙な夢だと思いながらも、カナは指先でスライムをつんつんした。冷たくて、グミのような弾力だ。
スライムは跳ねるのをやめ、身体を地面に押し付けて力を溜めた。
ぐぬぐぬぐぬ。そして、どうっ――。
「ごふっ……」
カナは腹部に突進され、悶絶した。身の危険を察して逃げだそうとするが、スライムは群れをなし、すでに彼女を包囲している。
スライムが一斉に飛びかかった。カナは雛鳥のような声で泣きながらとにかく両手で頭を守り、地面に伏せたまま身動きが取れなくなった。
やがて攻撃がおさまると、誰かがカナに声を掛けた。
「きみ、大丈夫かい?」
おそるおそる顔を上げる。吸い込まれるほどに深い海色の瞳を持つ青年が手を差し伸べており、カナは動揺した。その腰には剣。襲われるかもしれない。
「あ、はい! だだだ、大丈夫です、全然……」
青年の手を取らず、カナは自力で立ち上がり汚れを振りはらった。
「きみはこの辺りに住んでる子かな。こんなところで寝てたら危ないよ?」
普段、同年代と滅多に会話をしてこなかったカナは、見るからに挙動不審だ。
「あ、はい。そ、そうですよね。ありがとうございます……」
「僕はリュウ。ここにはいないけれど、仲間と共に魔王を倒すために旅をしているんだ。きみは?」
リュウと名乗る者の言葉に、カナは目を丸くする。そして思い出した。自身が本の光に吸い込まれたことを。
「わ、わた……あ、えと……」
混乱で頭が熱暴走を起こしそうな中、カナはなんとか一つを結論づけた。ここは〝エリュシオン〟――本で描かれていた〝幻想領域〟なのだと。
しかし、どうしても分からないことがあり、カナは咄嗟に目の前の男に尋ねてしまった。
「わたし――……だれ?」
カナと勇者は、かくして出会った。