後編
「そんな………! ラーシェは、ラーシェは無事なのですか!?」
「未だ令嬢は発見ならず、現在も捜索中であります」
ソプシャルティ家を断罪したパーティーから一夜明け、翌朝ラーシェ・ソプシャルティを乗せた馬車が崖に転落しているのが発見された。家紋が解体され、片親の出自が不明だとしても貴族であったという事実に変わりはない。それゆえに騎士団が派遣されたのだが、不思議なことにラーシェ・ソプシャルティの姿が見当たらなかった。一日捜索したが発見ならず、一先ず義姉であったフィリスへと知らせが渡った。
一報を受けたフィリスの顔は蒼白となり、身体を震わせる。虐げられてなお、心優しきフィリスは義妹のラーシェの心配をする。今にも倒れそうな婚約者をカルネイは優しく支える。
「君を虐げた罰があったんだ。気に病むことはない」
「罰だなんて、ラーシェは私の大切な家族です。どうか、どうかラーシェを……
「フィリス……、私も捜索に協力しよう。だから君は安心して休んでいてくれ」
「カルネイ様……。ありがとうございます。ラーシェどうかよろしくお願い致します」
カルネイは伝達に来た騎士を連れ件の場所に向かう。カルネイから安心して休めと言われたがどうしても心は落ち着かない。己に出来ることはないと分かっていても心配してしまうのだ。ラーシェが危険な目に合っているかもしれないというのに自分だけが休んでいてもいいのだろうか。
「フィリス様、一度お休みになられた方がよろしいかと」
「でも……いえ、そうですね。部屋に戻ります」
侍女長に声を掛けられるれる。フィリスは一度断ろうとしたが、皆がフィリスを気遣わしげに見ているのに気付き提案に従う。部屋に戻る途中、言い争う声が聞こえてフィリスは足を止める。言い争っていたのはソプシャルティ家から共にやって来た執事のジャンと侍従のマルクだった。
「ジャンさんどうしましょう?! お嬢様が、お嬢様が……」
「マルク、落ち着きなさい。我々が慌てても何も変わりませんよ」
「それは、そうですが……。やはりお嬢様のことをお伝えした方が……これではあまりにもお嬢様が」
「マルク! お嬢様を想うなら尚のこと約束を守るのです。我々も共犯だということを思い出しなさい」
「どういうことですか?」
「「お、お嬢様!?」」
急に現れたフィリスにジャンとマルクが声を上げて驚く。そして、フィリスの様子から先程の会話を聞かれていたことを察する。
同時刻、早々に出立したカルネイは事故現場に到着し、その惨状を目の当たりにし言葉を失う。聞いていた内容より、想像していた様子より酷い有り様だったからだ。馬車は転落したにしては上から押し潰されたような形状をしている。近くには馬車と同じくらいの大きさの岩が置いてあった。
「これは……」
「まさか君が来るとはな、リオン魔導卿」
「カーラ団長殿、君が指揮官か。仔細を聞かせて欲しい」
カルネイに声を掛けたのは一人の女性騎士だった。カーラ・サイラエル。騎士の家系であるサイラエル子爵家の令嬢でありながら騎士団長の座まで上り詰めた実力者。
「不甲斐ないことではあるが令嬢は未だ行方知れずだ。我らがここに到着したとき、あの大岩は馬車の上に乗っていた、退かして馬車内を確認すると、そこには令嬢ではなく、男の死体があったんだ。恰好からして恐らく御者だろう。彼には刺された跡があった」
「なるほど。確かにこの岩には魔術の痕跡が残っている」
「やはりそうか。となると襲われて攫われたか? どちらにせよ早く見つけ出さねば……」
「閣下、ご報告します。フィリス様が忽然と姿を消し、この手紙が残されていました」
「……何?」
果たしてこれは運が良いと喜ぶべきことなのか。わたくしの目の前には憎きウヌバン男爵令息の姿がある。犯人は現場に戻ると言えば聞こえはいいが、どうにも誰かの策略に踊らされている気がしてならない。でも、どちらにせよわたくしは為すべきことを成すだけだ。目立たないように来たためか共はいない。舗装されていない道だから馬も並足だ。
身体強化の魔術を自分に掛けてから馬の前に飛び出す。突然現れたわたくしに驚いた馬は前足を上げて走り去っていった。体勢を崩した男爵令息は落馬する。無様に転げ落ちる様を嘲笑いながら近づき逃げられないように身体を踏みつける。
「うわあぁ、痛っ。だ、誰だ!?」
男爵令息の問いには答えず魔術を唱える。詠唱は小さく早口で紡いだ。それでも魔術は確かに発動した。
「な、僕に何を、ッグ!」
顔も見えない相手に踏みつけられ、魔術を掛けられて、さぞ恐怖していることでしょうね。でも、こんなのは序の口に過ぎないわ。
「答えろ。お前がフィリス・ソプシャルティを襲ったな」
「な、何を言っているんだ!? 破落戸を雇って襲わせたのはソプシャルティ伯爵夫人だろ」
「あの女がそんなことをするはずがない。お前がフィリス・ソプシャルティに気持ちがあるのは知っている。大方、公爵の元に行く前に略奪しようとしたんだろ」
「……っ、あぁ、ああそうだよ。可哀想なフィリスを助けていたのは僕だ。僕が、僕だけが、彼女を救えるんだ。彼女には僕しかいない。なのに、婚約破棄したと思えばすぐに婚約だ。 しかも相手はあの女嫌いのリオン公爵! そんなとこにいけば彼女はさらに酷い扱いを受けるに決まっている。それなら、僕の元で僕と一緒にいた方が彼女は幸せになれる」
タガが外れたかのように男は語り出す。自白させる魔術、なんて都合の良いものはない。でも似たような魔術はある。気分を高揚させる魔術、感覚としては酒に酔っているような感じだろうか。要は口が軽くなればいいんだ。補助魔術とは何て便利なものだろうか。
それにしても蠅のように五月蠅い男。男という生き物自体が嫌いだけれど、この男は特に嫌悪感が強い。お義姉様に関わっていたというのも大きいと思っている。それを否定する気はない。貧乏男爵令息のくせに、臆病者のくせに、爵位が上の者に言い返す度胸もないくせに。貴族には貴族のルールがある。恨むなら己の出自を恨め。己の実力を恨め。なんの努力もしてこなかった奴が願望のままに生きていけると思うなよ。
うつ伏せに押さえているから男の顔は見えないが、お義姉様との生活を思い浮かべてさぞ気持ちの悪い顔をしているだろうことは声色と発言内容から容易に想像できる。お義姉様に心奪われるのは当たり前。誰かを想う気持ちは他人が関与できるものではないから仕方がない。だからと言って容認するかはまた別だ。許したくないから誰の目にも止まらぬようにしたんだ。お前ごときが、美しくも心優しいお義姉様には釣り合わないんだよ。
ナイフを振りかざす。最初から殺す気だった。お義姉様を危険に晒しただけで万死に値する。傷つけるつもりがなくとも襲ったという事実だけで理由は十分だ。
「ペルガ様!」
「止めろ!」
茂みから出てきた女騎士が剣を抜き斬る。ナイフ目掛けた剣先を後ろに飛び退くことで躱す。誰かが隠れているのは気配で分かっていた。注意していれば飛び出してきても対処は可能だ。そんなことはどうでもいい。よりにもよってどうしてあなたがここにいるの!?
「ペルガ様! ご無事ですか」
「あっ、フィリス嬢……?!」
手に力がこもる。一番居て欲しくなかった人。騎士が妨害することは想定してはいた。けれど、あなたは、お義姉様だけはここにいてはいけない。
「フィリス!? 何故君がここにいるんだ」
「カルネイ様、この方がここにラーシェがいると連れて来てくれました」
いったい誰なんだとお義姉様が差す人物を睨む。けれどそれはすぐに驚きに、そして焦りに変わる。左目に大きな傷のある男だった。
「「お前は……!」」
わたくしの声と止めにかかった女騎士の声がはもる。そしてわたくしに対して剣を向けていた彼女は男に斬りかかる。
「き、騎士様なにを?」
「カーラ団長殿、いったいどうした」
「奴は暗殺者だ。それも相当の手練れのな」
カーラ、よくよく見るとどこか見覚えのある女だ。どこで……いや、今はそんなことを考えている場合ではない。幸い、お義姉様に別状はないようで安心した。
「なんだお前、オレと会ったことあんの? んーどこであったかなー覚えてねーなー。ま、いーや。調子はどうよ、娘」
男は少し考えた素ぶりを見せた後どうでもいいように言い放つ。そして、わたくしの方を向いて気色の悪い笑みを浮かべる。一瞬にして全身の肌が粟立つ。それは男に対する恐怖の表れか憎悪の怒りか、その両方か。
「全部お前の仕業か!」
「そうカッカするなよ。オレはお前のためにやってやってんだぜ? なあ娘、オレと一緒に来ないか? そうすりゃこれまでのことはチャラになるし、お前の望むことはオレが叶えてやるよ。どうだ、悪くない提案だろ?」
「何を言い争って、いい加減姿を現せ」
リオン公爵が風の魔術を放つ。殺傷能力のない風がわたくしのフードを外す。今まで隠れていたわたしの顔が露わになる。
「ラーシェ!?」
四人は驚く。そんなことも今のわたくしには気に留めるほどの余裕はない。
男がわたくしの顔を見て笑みを深める。気持ち悪い笑みだ。そんな吐き気がする提案に乗るぐらいなら、真っ先に死ぬことを選ぶ。震える手に力を込める。わたくしは、いや、わたしは……!
「はっ、冗談。お前は今ここで、わたしに殺されるんだ」
「イイー顔だ。残念だよ、本気でお前のこと気に入ってんだぜ? 仕方ねぇか、お前ら殺れ」
吐き捨てるように言い放つ。その声は溌剌としていた。もとより後戻りなんて出来ない。なら覚悟を決めるんだ。いつまでも怯えているな。
男の合図で黒装束に身を包んだ集団が突如として現れる。身を潜めていた暗殺者どもだ。その数は予想よりも多く、焦燥感が増す。でも、とお義姉様を見遣る。お義姉様だけが無事ならそれでいい。覚悟を決めろ、一番はもう決まっている。
己に身体強化の魔術をかける。もうあの頃のままじゃない。わたしは強くなった。魔術を覚え、身体を鍛え、知識を得た。だから、昔のようにはならない。絶対に。
襲い来る暗殺者を次々斬り殺す。攻撃を躱し、急所を狙ってナイフを刺す。すぐに引き抜いて距離をとる。一回では殺しきれないのはわかっている。だから、刺した瞬間、至近距離で敵に身体能力低下の魔術をかける。動きが鈍くなった敵を魔術が解ける前にとどめを刺す。
返り血が顔にかかる。生温かいそれに嫌な記憶が一瞬にして蘇るが考えないよう意識を引き離す。ローブの袖で拭い次の敵を見据える。
「カーラ団長!」
「来たか! 総員警戒せよ、相手は暗殺者だ。加減はいらない」
どうやら騎士が何人かやってきたようだ。お義姉様とリオン公爵を守っていたカーラは騎士に指示を送ってすぐに傷の男に向かって行った。
援軍に喜んだのも束の間、それはすぐに焦燥に変わる。騎士の中に、暗殺者が紛れこんでいるのを見つけた。
舌打ちをして走り出す。偽騎士がお義姉様に近付く前にと急ぐ。そのまま偽騎士の元まで一直線に向かい勢いのままナイフを刺した。
「な、何を!?」
「お前も暗殺者の仲間か?!」
一撃で仕留めれたのは不幸中の幸いと言うべきか。が、近くにいた騎士はわたしに剣を向ける。
「敵味方の区別もつかなくなったか」
「くっ」
「待て、彼女は敵じゃない! っ、リオン魔導卿!!」
リオン公爵が魔術でわたしを拘束する。皆の意識がわたしに向く。その時、あの男の下卑た笑みが妙にハッキリと見えた。
「お義姉様っ!」
わたしは叫ぶ。嫌だ駄目だ止めろ。けれど、その願いは無慈悲に打ち砕かれる。想定していた、想像したくなかった、最悪の結末が眼前に浮かぶ。
男の刃がお義姉様を裂く。
わたしに注意を向く、皆の意識が逸れた瞬間を狙っていたんだ。ああ、最悪だ。拘束が解ける。もう、だ、め……。
ドサリと倒れる音が静寂の中に響く。男はフィリスを斬り、一歩遅れた反撃を余裕で躱す。しかし、目の前に広がる光景に驚きを隠せない。
「フィリス!」
「痛く、ない……? どうして、っ、ら、ラーシェ!?」
「おいおいなんだよ……なんでお前が倒れているんだよ!?」
血を流して倒れたのは斬られたお義姉様ではなく、離れた場所で拘束されていたわたし。誰もわたしを斬ってはいない。斬られたはずのお義姉様には傷一つない。けれど切り裂かれたドレスが斬られたという事実を物語る。
痛い痛い痛い。声が出ないほど痛い。呼吸する度に痛みが襲う。斬られた箇所が熱を持っているのに、身体はどんどん冷えていく。視界が暗くなっていく。動かない身体に闇が迫ってくる。
霞む視界にお義姉様を見る。そこには血を流していない綺麗なお義姉様の姿があった。
良かった。
わたしはホッとする。正直これは賭けだった。なんの保証もなかったけれど無事に作動してくれた。何故お義姉様が斬られても無事なのか。それはわたしが作った呪いの魔道具のせいである。お義姉様を危険に晒した呪いの魔道具が逆にお義姉様を救うだなんて、とんだ滑稽な話だ。
わたしはソプシャルティ家にいたころ、お父様がお義姉様に殺そうとしていることに気付いてから、必死になって呪いについての知識を得た。解呪するには呪いそのものを理解しなくてはいけなかったのだ。呪いは憎悪の感情が強ければ強いほど強力になる。そして偏に呪いと言っても効果は様々だった。人を殺す呪いが目立つだけで些細ないたずらや狂気を感じる執着の果てのものまで存在している。わたしが目を付けたのは呪いの人形と呼ばれる魔道具だった。人形の形をした魔道具に相手の一部――髪でも血でもなんでもいい――を入れる。人形が馴染んだら相手と人形が結びつき呪いは完成する。人形の腕を千切れば相手の腕も千切れる。人形を刺せば相手にも同じ箇所に刺し傷と痛みを受ける。
それを参考にしてわたしは呪いの魔導具を作った。魔道具は想定より簡単に作れた。わたしの魔術が補助に秀でていたのが良かったのだろう。魔術の付与には慣れていたし、加えて媒介も補助魔術を施しやすい物にした。呪いは憎悪などの負の感情が強ければ強いほど呪いの効果も強くなる。わたしが呪うのはわたし自身。後悔を憎悪に、罪悪感を殺意に変えて。わたしの髪で編んだ金色のブレスレットはお義姉様がソプシャルティ家を出たときにマルクに言って着けさせた。あのパーティーでも、今も着けているのをわたしは見ている。効果を試したことはない。試せるハズもない。だけど実践で望んだ結果になってわたしは安堵した。
ああ、死ぬんだ。
そう察した瞬間、ピクりと指が動く。まだ、動ける。まだ、死ぬわけにはいかない。まだ、あの男を殺していない。まだ、まだ、まだ!
右手をゆっくり後頭部に動かす。少し動くだけでも猛烈な痛みが襲う。何度も止まる呼吸を必死に耐える。もう、少し。括っている髪の中に冷たい感触が当たる。誰も知らないもう一つの最終手段。掴んだ簪に魔力を流す。
次の瞬間、わたしは男の前に立っていた。胸に簪を突き刺して。
「ぐっ、なぜ、動ける……?」
「お前、だけは、っ殺す!」
「はははっ、流石は娘だ。冥土の土産だ、一つ教えてやるよ。オレの名前、ラーシェって言うんだ」
内緒話のように囁かれた声に身体が固まる。ピシりと雷が落ちたように感じた。それは衝撃の事実に驚いてなのか、身体に掛けた魔術が切れたからなのか、どちらかは分からない。一つ確実なことは、わたしが再び倒れたということ。
「一旦引くぞ……っぐ?!」
男は倒れたわたしから後ずさる様に離れる。しかしすぐに口から血を吐いて倒れる。
あの簪には魔術を組み込んだ魔導石をいくつか埋め込んでいる。その全てをわたしが魔力を流すだけで発動するように設定してある。最大出力の身体強化に感覚遮断、触れた相手の耐性減下など。一回限りで魔導石は砕けてしまうが問題ない。なぜなら自分の死に際に使うことを想定しているから。次、なんてこない。最後の悪あがき。
隠して所持するために選んだ簪は短い物になってしまう。必然的に殺傷能力は低下する。それを補うために先端に致死毒を仕込んである。それは触れただけでも危険な毒薬だ。結晶に固めた致死毒は突き刺すことで割れて体内に入る。そして同時に補助魔術で血の巡りを良くすることで毒は一気に身体全体に回る。
死なば諸共。ざまあみろと嘲笑う。本当に笑えていたかもう分からない。
身を犠牲にした代償はとても大きい。身体強化は威力を上げれば代わりに継続時間は少ない。何より、身の丈に合わせなければ身体が壊れる。
持てる力を全て注ぎこんだ魔術の持続時間はたったの数秒。けれど、それだけあれば一人は殺れる。反動で激しい苦痛と動けなくなるだろうが、どのみち死ぬ運命だ。苦しいのは、もう慣れている。
わたしの念願は叶った。なのに何故だろうか。最も憎むべき相手を殺したのに全く気持ちが晴れない。いつまでも男の声が、男の言葉が頭の中を反芻する。
『オレの名前、ラーシェって言うんだ』
それは偶然とは到底思えなかった。思い当たる節はあった。けれどその事実に受け止めたくなくて見ないようにしていた。わたしの父親。顔も名前も知らない男。母親は父親について一切言わなかったし、あえて尋ねることもしなかった。会うことはないと思っていたし会いたくないと思っていた。
それがどうだ。たった一言、名前だけで察してしまった。この男がわたしの父親だということを。どうしてお母様がわたしにこの名前にしたのかは知らない。ソプシャルティ家に向かう馬車の中、わたしを見ることなくお母様はラーシェと名乗れとだけ伝えた。
名前をもらえて、ようやく家族になれたのだと嬉しかった。まだ家族を求めていた時のことだ。知りたくない。今さらだ。何もかも今さらだ。もう問いただすこともできない。ふざけるな。なぜ、今なんだ。
わたくしの存在を否定されたようだった。ラーシェ・ソプシャルティという作り上げられた虚像。努力も何もかも無駄なことと嘲笑う。所詮、偽物なんだ。誰にも望まれないわたし。存在することすら許されないわたくし。
「ナイっ!!」
カーラがわたしを抱きかかえる。動かされた身体が痛む。けどそれは一瞬で、痛みは徐々に引いていく。いや感じなくなっていく。意識ももう持たない。
「治癒を使える者はいないのか!? ナイ、君なんだろう? わたしだ、カーラだ。昔きみに会ったことがある。覚えているか?」
やっぱり、あの時の……。わたしが母親に捨てられ命を狙われている頃、唯一わたしを助けてくれた女性がいた。彼女はカーラと名乗り、わたしに戦う術を教えてくれた。
「待ってろ、必ず助けるからな。今度こそ、助けるから!」
次々襲い来る暗殺者からわたしを守ってくれた。けれどあの男、ラーシェによってわたしは連れ去られた。殺されそうになったカーラを守るために必死になって反撃した刃は男の顔に傷をつけた。そしてわたしは気絶させられ、目が覚めたら母親と二人、馬車の中だった。カーラは殺されたと思っていた。彼女は悔やんでいる。わたしを守れなかったことを。
「カ、ラ……あり、とう」
塞ぎこんでいたわたしが言えなかった言葉。わたしの唯一の心残り。伝えたかった。カーラに会えて良かったと。あのとき、助けられなかったら間違いなくわたしは今ここにいない。態度の悪いわたしをカーラは気にせず、それでいて何も聞くことなく生きる術を教えてくれた。感謝してもしきれない恩人。
「ラーシェ!」
お義姉様がわたしの手を握る。握られた手が、身体が温かい。少し意識がはっきりする。これは、治癒魔術?
「ラーシェ、いや、お願い……」
無駄よお義姉様。わたしはもう、助からない。優しいお義姉様、こんなわたしのために涙を流してくれるなんて。パーティーの最後に言った言葉はわたしの本心。ラーシェ・ソプシャルティとしての唯一の願いであり信念。生きる希望。
ああ、美しい。唯一の二人だけが映される世界はとてもきれいだった。