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「一回の細胞分裂に千年もかかる生き物? そんなものが在るんですか?」
「地球深部探査船『ちきゅう』って船があるだろ。あれが日本海溝で見つけた微生物だよ」
ここはとある民間研究所の一室だ。そこで年配の男と若い男の二人が、マグカップを手に雑談している。
「一回の分裂に千年って、気の長い生き物ですね。シャーレで細菌を培養する時、細胞分裂は二四時間から四八時間に一回と習いましたけど……」
「それは実験で使ったカビや細菌の話だろ。ウィルスやバクテリアなら大ざっぱに見て一時間で分裂するぞ。それどころか温度や栄養条件が良けりゃ、酵母菌なんか二〜三分で一回は分裂する」
「あ、やっぱり分裂の時間って、大学で習ったものよりも早いですね。言われてみれば細菌は一日で一万倍になるとも言いますから、一日に一四回? 目から鱗が落ちました」
「おいおい。大学で何を学んできたんだよ」
若い男の言葉に、年配の男が呆れた顔をしている。その前で若い男がスマホの電卓機能を使いつつ、
「取り敢えず細胞分裂の時間を一時間と考えたら、その海の微生物にとっての時間感覚は、バクテリアの……八百万分の一ってことですかね」
などと言い出した。
「おもしろいことを言うなあ。じゃあ、その微生物が地球で最初に生まれた生命だとしたら、そいつの時間感覚では……」
年配の男も自分のスマホを出して計算を始める。
「地球が生まれてから、まだ五百年しか経ってないと……」
「それでは人間まで進化できませんよね」
「進化できないよなあ。今の進化論の考え方じゃ……」
年配の男が苦笑して、スマホをポケットへ戻した。
「ところで時間の感覚って、生き物によって違うんですかね?」
「そりゃあ違うだろ。『ゾウの時間、ネズミの時間』っていう体のサイズによる違いもあるし、昔から『同じ時間でも感じる長さは年齢の逆数』なんてことも言われてるし」
「その話は聞いたことあります。私も子供の頃はカップ麺ができるまでの三分は長く感じたんですけどねぇ」
「それは歳を取っても、せっかちなヤツは我慢できずに時間前に食い始めてるなあ」
年配の男が手を伸ばして、ノートパソコンを開いた。そしてBGMを流す。妙に速い曲調のピアノ曲だ。
「この曲……。聞き覚えがありますけど、妙に速いですね」
「たまにいるんだよなあ。『老いてますます盛ん』とばかりに、速さ自慢や技巧自慢で演奏が速くなっていく人が……。普通は歳を取るにつれてテンポがゆっくりになり、演奏に円熟味を増していくものなのだが……」
「なんか、速いだけ……ですね」
「だよなあ。仕事の速さが自慢できるのは若い時だけで、歳を取っても速さ自慢してる人は中味がないとも言うしな」
「じっくり聴きたい曲もありますからねぇ」
若い男がしばらく曲に耳を傾けてから、マグカップを口に運ぶ。
「逆に私たちの八百万倍速で生きる生き物──たとえば宇宙人とか未知の知的生命体がいたら、どんな社会を作ってるんですかね?」
「八百万倍……。人生八〇年を八百万分の一で終える知的生命か。一生は約五分、一世代は約二分……」
また年配の男はスマホを出して、電卓機能で計算する。
そこへ、
「お〜い。警察から回ってきた人体溶解事件の調査って、ここでやってたんだっけ?」
分厚い資料を持った男が、部屋へ入ってきた。
「人体溶解事件? そんな事件、あったか?」
年配の男が振り返って、入ってきた男を見る。
「最近、T市で増えている謎の大量失踪事件だ」
入ってきた男が、持ってきた資料をテーブルのあいてる場所にバサッと広げる。
「何人ぐらい失踪してるんですか?」
「今朝も一人行方不明になって、これで一八人だ」
「そんなニュース、あったか?」
「報道規制がかかってる。なんでも目撃者によると、人が溶けるように消えていったそうだ。そうそう、人が消えてく場面じゃないけど、防犯カメラが捉えた野良猫が溶けていく動画もあるぞ」
男が曲の流れているパソコンに触れて、ブラウザを起ち上げた。
「ネットに流れてるのか?」
「いや。画像解析部に持ち込まれた動画だ。ネットも報道規制がかかってるから、公開してもプロバイダーが強制的に削除してる。だが、これから見せるものは所内アーカイブにアップされたものだから、職員なら誰でも覧られるようになってるんだ」
男がそんな説明をしながら目的の動画を見つけ、再生させる。
現れた映像は、どこかの家の裏庭のようだ。郊外にある広めの土地のようで、奥に見える生け垣の間に小さな門がある。防犯カメラは、その門に向けられていた。
「野良猫はどこですか?」とは若い男。
「少し待て。まだ来てない」
そんな会話のあった直後、生け垣の下から灰色の猫が出てきた。その猫が我が物顔で庭を歩きまわり、まず右側へフレームアウトしていった。だが、すぐ映像の中へ戻ってきた。防犯カメラの近くまで来て、今度は左の方へ横切ろうとする。まさにその時だった。
「猫がコケましたよ」
いきなり野良猫が画面の奥に向かって、前のめりに倒れた。
「前肢が半分なくなってないか?」
年配の男が早くも異変に気づいた。映像はやや不鮮明だが、起き上がった猫の右前肢は明らかに短くなっている。
猫はその場で横向きに座って、短くなった前肢を驚きの目で見ているようだ。
やがて前肢が完全に消えた。そのあたりで猫が倒れ、そのあとはピクリとも動かなくなる。
ここから映像が早送りになった。倒れた猫は頭から溶けるように消えていく。映像に記録された時間から、わずか十数分ほどのできごと。映像では十秒足らずだ。それだけに、
「うへぇ〜。マジで猫が溶けて消えましたよ。それも骨ごと……」
より消えていく様子が強調されていた。
「今の早送りは編集か?」
「いや、カメラの仕様だ。映像に大きな動きがないと、最大で百倍速のタイムラプスになるんだ」
「なるほど。常にデータ圧縮のために差分を取ってて、それが累積で一定値以上になるまでコマを飛ばすタイプか」
年配の男が、その後の映像を食い入るように見ている。動画は最後まで流し終えると、頭から自動再生するようにループしてる。
「バクテリアによって肉が溶けていく話はあるが、骨まで溶ける話は初めて聞くな」
「毛皮までキレイに消えてますよ。映像が残ってなかったら、この猫が消えたことは誰も知らないままだったでしょうね」
「跡形もなく消えてるからな。体が溶けていくのはわかったが、物質はどこへ消えてるんだ? まるで蒸発したみたいに残ってないが……」
「変な話ですよね」
若い男の顔は真っ青だった。これ以上の視聴は限界そうだ。
「ちょっと映像を止めろ!」
いきなり年配の男が大きな声を上げた。
「どうした?」
「ここにうっすらと地図みたいな模様が見えるんだが、これは画像処理の影響か?」
猫の背中と地面に、どこかの大都市のような模様が浮かんでいた。
「画像圧縮による矩形模様じゃないのか?」
「いや、この大通りっぽい線の角度は、矩形模様では説明できないだろ」
「とすると画素を落とした時の干渉縞かな?」
「それとも違うと思うぞ。何かが写り込んだのか?」
一度気になると、その正体が余計に気になってくる。
だが、動画の解像度が粗すぎるため、その結論はなかなか出せないようだ。
その間に若い男は部屋を出て、廊下に置かれた長イスに座って灰色になっていた。