真なる妃と呼ばれた少女
◆◆◆
「レアノーラ。離縁しよう。明日までに城を出てほしい」
「えっ」
青天の霹靂。
たったそれだけで言い表せるほどの簡潔さでその人は宣った。いちおう、三年ものあいだ連れ添った相手だった。
理解できません、と面に表して問うと、最近では公式行事以外で顔を合わせることのなかった夫がけろりと言い放つ。「余がみずから迎えたい妃ができた」
「……そうですか」
悪びれない態度と物言いには一切の躊躇が感じられず、いっそ本気の度合が知れようというもの。だが、いくら何でも急すぎやしないだろうか……。
レアノーラは嗜みとして部屋を飾る花を花器に生けようとした手を止めた。
隣では、ぱちん、と花鋏が鳴る。茫然自失の体となった侍女のユティだ。哀れ、おかしなところで切られた茎は卓上に落下し、花としての一生を終えてしまう。手元を狂わせた彼女のほうがよほど青ざめ、衝撃を受けていた。
レアノーラは、わずかに首を傾げた。
「お相手についてお聞きしても?」
「モルド公の娘だ」
「なるほど」
モルド公は国の重鎮。財産家としても名高い。三十路になる嫡男はモルド伯として領地経営をこなしている。息女がいたとは聞いたことがないので、どこぞから迎えた養女なのだろう。
皇帝の片腕たる大貴族に、出自のはっきりしない令嬢。そしてこの急展開。ははぁ、と合点のいったレアノーラは、ぽん、と手を打った。
「もしや、御子が宿られましたの?」
「いいや、もう生まれている」
「えっ」
思わず声をあげたのはユティだった。皇帝はじろりと彼女を睨み、それから再びレアノーラに視線を戻す。辟易と嘆息した。
「……母親は、余の寵を受けて長い女だ。子はもうすぐ五歳。然るべき教育が必要となる。そして、余に妃はふたりと要らぬ」
「はぁ」
ええと、つまり、後継者を彼に与えたその女性こそがこの国の后にふさわしいということで、私は――
「お払い箱なのですね」
ぽつりと呟いた一言に、彼は鷹揚に頷いた。
「理解が早くて結構。では、明日の昼までに去るように。支度はこれに。好きに生きるといい」
言うだけ言うと、皇帝は花器の横に拳大の繻子の小袋を置いた。重たげな金貨の音がくぐもって鳴る。二十枚くらいだろうか。
帝国金貨一枚で、たしか庶民なら借家で一年は暮らせる。
そう考えれば妥当なのだろうか……?
いや、金子の問題ではないのだが。
「陛下」
「さらばだ」
ねぎらいの言葉一つなく、シェーン帝国皇帝エランド二世は、あっさりと部屋を出て行った。
◇◆◆
「信じられません! 陛下のなさりようときたら!」
悔し涙を滲ませたユティが、次々に必要そうな荷を鞄に詰めてゆく。日は落ちている。レアノーラは寝支度を整えて寝台に腰掛けていた。
何もかもを彼女任せにしているのは申し訳ないのだが、いかんせん頭が働かなかった。
「ユティ。気持ちは嬉しいけど……そんなに荷物は要らないと思うわよ? 公務でもないし。ほら、わたしって貴族じゃないもの」
「何を寝ぼけたことを。あなたは貴族より稀なかたなんですよ? ああっ。どうして神子であるあなたを追放するなんて出来るんです……? あの下半身皇帝!! 今だから言いますが! あの男、子どもは他にもいるんです。それこそあらゆる階級に、噂では八人」
「そ、そうなの」
さすがに驚いて目を剥く。
俯くと、ネグリジェの肩から胸へと流れる黒々とした髪が目についた。
金髪碧眼が多いこの国で、たった一人の黒髪黒目。象牙色といえば聞こえは良いものの、ただ日焼けをしないように気をつけただけの肌に純粋な白さはない。せっかくの白粉だって浮いてしまう。
新しい皇妃になる女性の出自をとやかく言うことはできない。自分は、この世界の人間ですらないのだから。
レアノーラは溜め息をこぼした。
「仕方ないわ。わたしは、陛下の亡きお母上が、『この国の真なる妃を』と神々にお願いをした翌日、神域の森で見つかったというだけの娘だもの」
「皇妃様」
「百歩譲って神子だとして。問題はそのとき結婚適齢期だった陛下に対して、わたしがまだ十二歳だったことよ」
「覚えています。お小さくていらして……。でも、あのときの皇妃さまは七、八歳くらいに見えました。今も十四くらいに見えますわ」
すこぶる正直なユティに、久しぶりに口が笑みの形になる。軽く肩をすくめた。
「そういう民族なの。わたしの生まれたところは島国で」
「ニホン、と申されましたか」
「そう。娘のように可愛がってくださった前皇太后陛下からいただいた綺麗な名前だけど、『レアノーラ』とも明日でお別れね。名乗る必要がなくなったわ」
「皇……、レアノーラ様」
「元の名はね、愛美というの。前の世界のことは、それしか覚えてないんだけど」
「アミ、様?」
「愛美だけでいいわ。ごめんなさいねユティ」
「! アミ様がお謝りになられることは」
すっかり荷造りを終えたユティが、すっくと立ち上がる。
ちゃんとした貴族令嬢のユティは、自分付きになったばかりに王宮侍女として華やぐことがなかった。
――神域の森に、『向こうの世界』のパジャマ姿で倒れていた。ガリガリに痩せた十二歳の自分と引き合わされた彼女は、当時すでに十八歳。今の自分と同じだった。
何でも、親から意に沿わない結婚を強いられそうになって、逃げ口上としてお城づとめを受け入れたのだから良いのです、などと胸を張っていたが。
(悪いことをしたわ)
前皇太后による淑女教育の賜物で、この世界の貴婦人らしい所作や教養は身についている。皇妃となるにあたって、下々の民の暮らしぶりや国情などもだいぶん学んだ。手切れ金を元に商売を始めてもいいし、どこへなりと流れてもそれなりには暮らせるだろう。
が、差し当たって、顔の知られているシェーン帝国には居づらい。よって、行き先は地続きの隣国アルドッラ王国か、海を渡った先のエメラ諸島国に限られた。
どっちかな、とぼんやり考えつつ、ぼふりと枕に倒れ込む。
「アミ様。本当によろしいのですか? 陛下の言いなりで……せめて、外遊中の先代皇帝陛下に相談されては」
「いいえ。いいの」
ふるふると小さく頭を振る。
そのまま、すっぽりと上掛けを被った。
「明日は昼までなんて待たないわ。早朝、神域の森を詣でたらすぐに発ちます。おやすみ、ユティ。…………今までありがとう」
◆◇◆
朝もやのけぶる神域の森は冷涼な大気に満ちている。
これで、皇妃の冠とも完全におさらば。自分を最後まで妻扱いしなかったエランドへの気持ちは複雑だが、彼ばかりを責めることはできない。
(結婚したのは、わたしがだいたい十五になってからだから……。陛下は三十一だったのね。聞けば、一番上の庶子はわたしと同い年だというし)
この世界の神は、神像などで象らないという。こうして、なるべくひとの手の入ったことのない明るい森や清らかな泉に空っぽの祠を建て、崇めるべき神域とした。『場』そのものに神が宿ると信じて。
――飛ばされた経緯も、日本での暮らしもよくは覚えていないが、たぶんそんなに丈夫ではなかった。目覚めたときは、ここで、びっくりした顔の金髪の騎士様がたが居て。
天国かな? と思ったということは、自分はあっちの世界で死んでしまっているのかもしれない。
それでも、第二の生ともいえる時間をここで過ごせたのは幸せだった。亡くなった皇太后陛下は教育熱心で厳しくもあったけど、とても可愛がってくださったから。
『娘が欲しかったのよ』と。
それはそれは、蕩けるような笑みで黒髪を梳ってくれた。寂しくて泣くこともしばしばだった夜に、公務で忙しいはずなのに手を握って、寝入るまで側にいてくれて。
三年前、即位式のあと身罷られてしまった。
その後、外遊に出てしまわれた先代皇帝陛下も、何度となく手紙をくださった。『エランドに苛められたら、必ずや報せなさい』と。おふたりの気持ちが嬉しくて、くすぐったかった。
わたしはそんな気持ちを込めて、しん、と鎮まる森に向けて礼拝した。
――――……
さて。
当てはないが、どうしたものか。
頭を上げて踵を返すと、ふと、空から声が降ってきた。
「――もう行くのか?」
「!! 誰っ?」
バッと見上げても白み始めた蒼穹が広がるだけ。
??? と、すっかり頭の中を疑問符が埋める。すると、今度はクスクス。いたずらな笑い声が落ちてくる。
今度はわかった。
空じゃない。梢だ。
まだ日のささない暗い木立の上めがけて、私は両手を腰に当てて凄んでみせた。
「なんて失礼な精霊さんかしら。ずっとそこに居たの? 降りてきなさい」
「おお怖い。さすがは三年も皇妃をつとめただけはある」
「……っ、うるさいわね。余計なお世話よ!」
「へーえ。本当に?」
とたんに枝がガサガサと揺れ、木の葉を落として人影が着地する。
身軽すぎて、すわ、忍者かと、薄い日本の記憶が蘇るほど隠密じみていた。「誰……?」
「誰でしょうね」
にこっと笑うと、焼けた肌に白い歯が際立った。
短く切った白銀の髪は、亡き皇太后様のよう。
瞳は青。これは帝国でもっともよく見られる色だ。
しかし、顔。
造作はとんでもなく整っている。胡散臭いとわかっているのに見とれてしまうくらいだ。ふざけた問いにも怒ることなく、こてん、と首を傾げる。
「森の、精霊……? それとも空の精霊?」
「精霊から抜けませんかねぇ。えーと……『レアノーラ』はたしか、皇妃になるものとしてあの婆さんから付けられたんだよね」
「! あなたっ。なぜ、それを知って……?」
「聞いたからだよ。本人から。ついでに爺さんからも頼まれてる」
「……爺? まさか」
両手を胸の前に。半歩後ずさる。
着地の姿勢から立ち上がり、すたすたと長い脚で歩み寄る銀髪の青年から目を離せない。
名前はわからないが、察してしまった。
彼は。
「俺の名はルディアーダ。母は昔、皇太后陛下に仕える侍女だった」
「お、お父様は?」
にやり、と浮かぶ、ひとの悪い笑み。
ルディアーダは黒を基調とする軽装に頭布を巻いた、変わった旅装をしていた。
旅装だと感じたのは、今の自分同様に小ぶりな荷袋を一つ、悠々と背負っているから。
ルディアーダは、あっけらかんと告げた。
「あんたの元旦那。エランド二世さ。認められちゃいないけどね」
◆◆◇
聞けば聞くほど、夫だったひとの仕打ちはひどかった。
ルディアーダの母の実家はさほど裕福ではなく、それでも前皇太后が親しくしていた、さる伯爵令嬢の忘れ形見だからと城に呼び寄せたらしい。
なのに、行儀見習い半分だった楚々とした美少女は、当時皇后だった母の不在を狙っては口説きに来る皇子にほだされ、秘密裏に恋人になってしまったらしい。
エランドは十五。彼女は十七だった。
ところが移り気な皇子は、恋人が身ごもったとたんに城下のとある未亡人と懇ろになった。
泣く泣く理由を隠して皇妃の元を辞した女性は、ルディアーダを産み落とし、そのまま儚くなった。
妃殿下が真相を調べ上げ、手の者を遣わしたときには、残念ながら息を引き取ったあとだった。
それを苦く思った先代皇帝陛下が、ひそかに赤子だった彼に「ルディアーダ」と名付け、信頼する騎士夫妻に預けて養育を依頼したのだという。
「……波乱万丈ね」
海風になぶられる、まっすぐな髪を押さえながら問う。
ルディアーダは揺れる船の舳先近くで、風はらむ白い帆を背ににっこりと笑った。
「あんたほどじゃないよ。アミ」
「そうかしら」
やや拗ねたように口の端を下げると、くしゃくしゃと頭を撫でられる。それを見た水夫が「仲がいいねぇ新婚さん」と囃すのを、わたしは思いっきり赤面しながら――否定できずにいた。
「信じられないわ。あなた、手が早すぎるのよ」
「親父に似たかな」
「そう言われると……複雑なんだけど」
「あははっ。まぁまぁ」
手を差し伸べられ、椅子代わりにしていた木箱から立ち上がらされる。そのまま素早く口付けられた。
ボッ! と火がつくほど熱くなる頬に手が添えられ、海よりも深い青い瞳で見つめられる。
「アミが、俺だけのアミになってくれて良かった。実は、今でも信じられなくて」
「……何を?」
「初めて好きになったひとを、本当に奥さんにできたかどうか。だから、船室に戻らない? 確かめたい」
「!!! まあ……っ!」
◇◇◇
疾風迅雷。
例えとしては物騒だが、ルディアーダはあの森で、わたしの護衛を先代皇帝陛下から頼まれたのだと打ち明けた。
どこに行きたい? と訊かれ、ついつい日本の地理を思い出し、「エメラ諸島国」と答えた。
内陸にある都から、港を擁する地方へと向かう陸路。
港に着いてからは船を手配して。
そうこうする間に、すっかり彼の為人に惹かれてしまったのは事実だ。
今は隣で眠る、『本当の』旦那様の頬に口づけて、ひとり、はにかむ。
――わたしにとっても、あなたが初めての恋なのよ、と、こっそり囁いて。
エメラ国に渡ったわたしたちの元に“帝国で謀反あり、モルド公によるエランド二世殺害である”との報が届いたのはそれから五年後だった。
然るべき情報によると、あのときモルド公が養女とした女性の息子は皇帝の子ではなかったらしい。謀反は、それに気づいた皇帝を亡き者とし、幼い『孫』を帝位に就けるための画策だったとか。
老いた先代皇帝――エランド一世陛下がお忍びで、決意を込めてエメラの我が家を訪れ、「すまん。儂とともに戻ってはくれまいか」とルディアーダに頼み込んだのは、また別の話。
まさか、また、『皇妃』と呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった。
〜帝歴866年。幼帝を廃し、即位せしはエランド一世の孫ルディアーダ。のちに賢帝と呼ばれ、民から慕われた、その唯一の妃はアミ皇后。神域の森にて招かれた神の御使いと呼ばれる、うつくしい黒髪と黒い目を持つ、慎ましやかな女性だったという〜
了