運命の輪-Ⅰ
人身売買組織、そのアジトを突き止めたキング。第一章で登場してきた人物たちの人生が絡み合い始める中、ハイキと呼ばれるコンテナにいたアダムの子達はまさにこの世の地獄を彷徨っていた。
住宅街の一番外れにある、ひっそりと佇む古い洋館。蔦の這う建物と手入れの良く行き届いた小さな庭。赤い絨毯の伸びる廊下が見える玄関で、フランツ・デューラーはキングと握手を交わしていた。
「兄の看取りをしてくれたそうだね。会いに来るのが遅くなってしまって、本当に申し訳なかった」
「いえ、とんでもありません。こちらこそわざわざお呼びたてしてしまって」
フランツは70歳前半。兄のヘッゲルとは親子ほど歳が離れており、スラッとした背丈に細身のスーツがよく似合う眼鏡をかけた男だった。先日、キングがレディマムに話したもう一人の叔父である。
彼の名誉のために言っておくが、キングが言ったような変態的趣味は持ち合わせていない。至ってノーマルで優秀なビジネスマンであった。
「どうぞ、フランツ様。お茶の準備が出来ております」
「やあ、久しぶりだね。エマ」
「――……はあ」
ヘッゲルの娘エマ。その記憶を全て失ったのが、今のエマだ。去り際、不思議そうに首を傾げたエマを見送ったキングは、フランツを客間へと案内した。客間はいつでも彼女が飾っていてくれる花の良い香りがしている。
「君はまだ15歳だったね。タックスヘイブンにペーパーカンパニーを作って欲しいと電話を貰った時はびっくりしたよ」
「急ぎだったので要件のみになってしまって。その節は、大変に申し訳ありませんでした」
「いやいや。で、投資話と言うのは?」
キングは非常に賢い少年だった。だがつい最近まで集落から出たことがなかったので、知識と経験に大きな乖離がある。窓辺の花瓶の元へ歩み寄ったキングは、物珍しそうな顔をして花の香りを嗅いでいた。
「人材への投資です。フランツさんの所有されているポーランドの屋敷を、学校として使わせていただけないでしょうか」
「それはまたどうして」
「――……イブの庭という教団はご存知ですか?」
フランツの表情が一瞬で曇る。厄介な連中という認識は持ち合わせているらしい。世界中を飛び回っている彼の事だ。人身売買についても一定の見聞はあるのだろう。エマの淹れてきたコーヒーに口をつけたフランツは、気乗りしないのか黙ってしまった。
「フランツさん。僕は元アダムの子です」
柔らかい光の差し込む窓辺に佇んでいたキングが、真摯な眼差しをフランツへ向けた。俯いていたフランツの視線がにわかにキングの方へと動いてゆく。彼は信じられないといった表情でキングの容姿を見つめていた。
アルビノを思わせるプラチナブロンドと白い肌。サファイアのような青い瞳、猫のようにしなやかで小柄な身体。特徴的で美しい右目の外斜視。
「詳しい事情を知っているわけではないんだが、よくあんな所から抜け出せたね……もしかして、兄が君を買ったのか?彼の人間性を今更擁護する気はない。正直に言ってほしい」
「私の頭脳を買ってくださったのは事実です。しかしそれがイブの庭の生業となっている人身売買経由かと言えば、それは違います」
「私は兄が養子を取ったと聞いた時に耳を疑ったんだ。今際の際に思う所があったんだろうか、なんて考えたりしてね。私は彼のしてきた事を許しはしない。それでも血の繋がった兄なのでね……」
キングの言っている事は確かに間違いではなかった。しかしヘッゲルが死神キングと取引をした結果、実の娘であるエマに殺された事までフランツが知る必要性はない。
魔術師と対面を果たしてからのキングには、一種の揺らぎが生じるようになっていた。それは言葉にすれば一言『罪悪感』なのかもしれない。キングはそっと目を瞑ると、しばらく兄を慕うフランツとエマの背負ってきた苦しみに思いを馳せていた。
二人ともごめんね。
それでも、僕は迷わない。
キングは目を開けると、その美しい瞳でフランツを真っ直ぐに見据えた。
「率直に申し上げます。このままでは臓器移植かテロリストにされるだけの子でも、教育投資が十分に可能です。ご覧ください、私がその生きた証明です。既に20名、アダムの子を保護しています」
「じゃあ、ペーパーカンパニーを作ったのは……」
「ええ、ご察しの通りです。施設ごと買収しました。しかし、それは応急処置でしかありません」
「急ぎの話なんだね」
「はい」
フランツは携帯電話を取り出すと直ぐに何人かと話をし始めた。安堵のため息をついたキングは、喉が渇いて少し温くなったコーヒーへと口をつけていた。窓の外ではエマが庭木に水やりをしている。
通話を終えたフランツは、いかにも合理主義なビジネスマン然とした様子で立ち上がった。
「船を用意させた。ポーランドには有力者の友人がいる。彼にも協力を仰いでみよう」
「ありがとうございます。必ずやご期待に答えてみせます」
深々と頭を下げたキングの肩にフランツが手を掛けた。大人たちから凄まじい暴力しか受けて来なかったキングは、反射的に身体を硬直させてしまった。彼はまだ邪な欲望以外の接触に慣れていない。ようやく最近、エマに慣れてきたばかり。
気づいたフランツが直ぐに手を離した。
「済まない、キング。気にしないでくれと言いたかったんだ。その……私の配慮が足りなかったな。今後は、不必要な接触は控えるようにするよ。約束する」
「いえ……」
残ったコーヒーを飲み干したフランツは「ありがとう」と言うと、客間から出る準備をし始めた。キングと共に部屋を出てゆく。フランツは振り返って廊下を見渡すと感慨深げに呟いた。
「兄の写真は外してくれたんだね。戦果の写真を見ているのは辛かったんだ。あんなもの、二度と思い出したくもない。それでも愛情は別なんだよ。酷い男だと分かっていても、私にとっては兄なんだ。罪滅ぼしなんて偽善も嫌いだ。だからキング、君が正直に話してくれて嬉しかった。ありがとう」
「いえ、フランツさんの目は誤魔化せそうにありません。僕には無理です」
「ビジネスにしか能がない男さ。金も嫌いじゃないがね。じゃあ、人の手配をしないといけないのでお暇するよ。追って連絡をする。エマによろしく」
「はい、こちらこそ。今日は本当にありがとうございました」
「ああ……そう。エマをここに連れてきたのは私なんだ」
笑顔でそう言い残し、フランツは屋敷を後にしていった。
客間へ戻ったキングは花瓶の側でしばしの間、庭の手入れをするエマを切ない眼差しで見つめていた。花を覚えておこう。これはきっとどんなエマでも変わらない。彼女だけの記憶だ。
キングは自室で白マントを羽織り大鎌を担ぐと、西海岸にある工場地帯コンビナートへと旅立って行った。
西海岸にある殆ど廃墟と化したコンビナート。工場はとっくに稼働を止めてしまったが、まだところどころ光の残る一帯。その一番高い煙突の上にキングは立っていた。水平線に夕日が落ち、夜空が顔を覗かせる。潮風で白いマントが煙のようにはためいていた。
イブの庭、その人身売買部門。通称エデン。レディマムの隠し金庫にあった資料ではここがアジトとされていた。
何者かの気配を感じたキングは、右手を掲げると胸の下にそっと降ろした。右目の斜視が生き物のように動き出してボトリと落ちてゆく。眼球を右手で受け止めたキングは、その手を差し出した。
左目を閉じ、ぽっかりと空いた眼窩で工業地帯の一点を見つめる。掌の上にあるサファイアブルーの瞳が、何かを探し回るように不規則な円形を描いていた。
「……おなかすいた……」
「……たすけて」
……!
浮いていた眼球が一際高く浮いた瞬間、瞳がとある方向を指してビタッと止まる。その様子はさながらコンパスそのものであった。閉じていた左目を見開いたキングは微かに声が聞こえるコンテナ目指して、直滑降していった。
何日、こんな状態に置かれているのか。真っ暗闇のコンテナ内は、既に命を落とした子供の腐敗臭と垂れ流しの汚物で酷い匂いを放っていた。空腹に耐えかねた子供が一人、まだ命を落として間もない子供の腕を噛みちぎろうとしている。
「ダメだよ。そんな事をしたら人間でなくなってしまう」
キングが腕を掴む。酷い栄養失調で手足は棒のようになり、腹部の膨張ばかりが目立っていた。年の頃は6歳位だろうか。聞き覚えのある声に反応した子供は、酷く掠れた小さい声で名前を呼んだ。
「キング?」
変わり果てた姿で人の肉を食べようとしていたのは、ルーカスだった。
「いいかい。ゆっくりだよ。そうでないと死んでしまうからね」
コンテナの中にいる子供たち、そのうち生存者は6名。キングは一人に一口ずつ、小さな砂糖菓子を含ませてやった。水も一気に飲むのは危ないので、少量ずつ口移しで飲ませてやる。
その中で比較的に元気な一人の子供が砂糖菓子をおかわりしながら、状況を簡潔に教えてくれた。
「僕たちはハイキなんだって」
「他の子は?」
「すぐ側にいる。そっちはご飯も貰える」
声が聞こえたのはそっちの方だったのか……暗闇の中で外の音を拾おうとしたキングに子供が続けた。
「僕はもう人間じゃないの?」
「君は、食べてしまったんだね」
「うん。死にたくないもん……」
「そうか……僕と取引しないか」
「取引って何?食べ物?」
「そうだよ。その代わり、君の嫌な記憶を僕に欲しい」
子供の唇はひび割れて一部が欠けていた。顔に付着している赤い液体が、水の代わりに何を飲んでいたのかという現実を嫌というほど突きつけてくる。キングはエマの顔が一瞬頭を過ったが、右目を口に含むと手をかざした。
「安心して眠るといい。目が覚めたら全部、終わってるから」
次に目覚める時、その子供は全てを忘れた別の誰かになっているだろう。人の肉に手を出してしまった子供が倒れ込む様を見ていたルーカスがキングにしがみついた。
「死んじゃったの?」
「違うよ、眠ってるだけだ」
「……そう。じゃあ食べられないね」
「ルーカスは食べたの?」
「ううん。でも僕、飲んだ」
ルーカスも口の周りが既に赤く汚れている。しかしキングはルーカスの記憶を奪うことを躊躇っていた。このコンテナにいる子供たちは一刻の事態を争う状態だというのに。
キングは子供たちを集めると「必ず元気になること」という見返りの代わりに、ここから連れ出す取引をした。暗闇にノイズが混じり、崩れ落ちてゆくプログラムコードのように徐々にその背景を変えてゆく。
「うわっ!キング。どうしたんだ。この子供たちは?」
買収した施設エデンの家にキング達は来ていた。施設長は現在、アジア人男性ジョージが務めている。かつて、ソビエトの組織から大統領暗殺をそそのかされた男だ。
彼は元々、イブの庭に強い恨みを抱えていた。ソビエト工作員を殺害してしまってからはその身を追われていた。医師の家系であることから、看護師の真似事をなんなくこなす事ができる。本人は嫌いだと言っているが、エッセンシャルワーカーへの適性はレディマムよりも遥かにあった。
身柄の安全を条件に、施設長を引き受けてもらっていた。
ソビエトの組織は現在、全く違う同志を犯人だと思い込んで追いかけている。
「詳しい話をしている時間がないんだ。直ぐに行かないと。子供たちを任せても良いかな」
「ああ。アジアンタウンにモグリの医者がいる。そいつを呼ぶさ」
「ありがとう。それじゃあ僕、行くね」
ジョージとキングのやり取りを聞きつけて集まってきた、同じ笑顔の子供たち。どちらも同じアダムの子とは到底思えない。流石に笑うことは出来ない様子で、死体のように横たわる子供たちをじっと見ていた。
ただ一人。クロエだけが、黒い瞳を輝かせ笑いながら遠巻きにキングを見つめていた。
「ボス、廃棄終了したぜ」
「掃除屋を手配しとけ。後、顧客用のガキにメシ食わせろ。病気にだけはさせんなよ」
ラメが入った趣味の悪いスーツに毛皮とサングラス。褐色の肌をした痩身の男の名はスネーク。キングに縄張りを奪われて、怒り狂っていた男だ。特別顧客用のストックは隣のコンテナで管理していた。
(0826新聞に注目。気をつけろ。)
特別顧客はメールでそう忠告していた。あれから特別警戒態勢を取っているが、特別不審者の情報は入ってこない。スネークの顧客はメールの主だけではなかった。
本来、ここはただの中継地点でしかない。使い物になりそうな子供はその用途によって様々な場所で管理されていた。エデンの家もその一つ、のはずだった。
あの施設だけで150万ドルの損失だ。
しかもその金の殆どが、あの黒目のメスガキ。
苛立ちの未だに収まらないスネークは、倉庫を改造した専用室のソファーに座ると葉巻に火をつけた。ガラステーブルに足を載せて、8月26日の新聞に目を通す。アンナ・キンドリーの慈善活動を伝える記事とエデンの家での集合写真。
部下の報告通り、レディマムの真隣にはもう一人いた。ただ、それ以上の情報が入ってこないのだ。取材に当たった新聞社を詰問しても、煮え切らない返事が返ってくるだけ。
揃いも揃って、言われてみればいたような……としか言わない。
洗脳されてるとしか思えなかったが、その部分だけの記憶が曖昧になる洗脳手法など存在するのだろうか。常識的に考えて有り得ない。正体不明の薄気味悪さに、ここエデンの空気は日増しに悪くなっていた。
残るヒントと言えば、レディマムの個人的な趣味くらいのものだった。
「ボス、特別顧客からメールが」
「ん。後、ストックからガキ一人連れてこい。ああ、シャワー浴びさせてからな」
スネークは、似たような雰囲気のギラついた娼婦を侍らかすのを好んでいた。そのためだけに、わざわざこんな廃墟同然の倉庫を改装したようなものだ。それなのに、特別警戒となってから一切呼ぶことが出来ない。自ら出向くことも出来なかった。
よって、痛めつける事を禁じられてるストック達相手にすることと言えば、一つしかなかった。
特別顧客からのメールに目を通していたスネークは、テキーラを飲みながら笑顔を浮かべていた。
「おい入れ。ボスに失礼のないようにな」
扉の開く音と共に、おおよそ専用室の雰囲気とは合わない石鹸の香りが漂いこんでくる。プラチナブロンドにサファイアブルーの瞳をした白人少年が、まだ湯気のあがる身体にバスローブを羽織って立っていた。
スネークはキングの容姿を頭からつま先までじっくり眺めると、満足そうに鼻を鳴らした。
「お前、何歳だ?」
「13」
スネークの言葉にキングはそっけなく答えた。手招きされるがまま、スネークの横に腰掛ける。強引にキングの身体を抱き寄せたスネークは、今にも舐めだすような勢いで顔を近づけた。
「新顔だな。待ってたぜ、お前のこと」
「ありがとう」
褐色色をした手に力がこもる。
スネークはキングの耳に酒臭い息を吐きかけながら、囁いた。
「ここへ何しにきた」
「セックスの相手をしてこいって言われた」
「そうだな、お前は本当にキレイな顔をしてる」
言葉とは裏腹にスネークの手はどんどんその力を強めていった。睨み返すキングに向かって投げかけたのは、性的な興奮ではなく怒りだった。
「お前だろ、エデンの家にいたガキは。俺はな、男娼を相手にしねえ。ずっと、レディマムの好みそうなガキを探していたんだ」
「何のこと?」
「とぼけんじゃねえよ。知ってるぜ。お前、死神だろ」
キングの腕がスネークの握力でミシミシと音を立てていた。
―Ⅱにつづく―